磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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流灯 ひろしまの子と母と教師の記録 原爆犠牲国民学校教師と子ども追悼の記

2007年12月19日 | 読書日記など
『流灯
  ひろしまの子と母と教師の記録
  原爆犠牲国民学校教師と子ども追悼の記』
   原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局/
    原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会事務局1971年

広島にはいろいろな碑がありますが、それぞれに多くの人たちの思い入れがあるように思われます。そのことを教えてくれる一冊であると言っていいかもしれません。



昭和40年、当時の広島県小学校長会々長室田法雄が、慰霊碑建設を呼びかけるがならず。
昭和45年、広島県被爆教師の会が中心となり、原爆犠牲国民学校教師と子どもの慰霊祭を執行。
この慰霊祭での意見。下「」引用。

「同じように原爆でなくなっても、中学校や女学校の先生や生徒さんたちの慰霊碑は建てられて、市が主催される慰霊祭が終わると、それぞれ別れて、自分の主人や子どもの慰霊碑に参拝して昔をしのび、心ゆくばかり拝んで帰られます。私ども国民学校関係の遺族は淋しいです。」

1971年8月4日、原爆犠牲国民学校 教師と子どもの碑、建立。

庶民的な文章が見受けられます。下「」引用。

「「おあかちゃん、一度でよいから腹一杯銀飯を食べたいワネ。」そのことばが、今も私の耳に焼きついております。そのたびに私は、「戦争に勝てば何でも好きな物が食べられるよ。もう少しがまんしましょうね。」と、親子の会話はこうしてたび重なりました。
 工場で配給があったといって、箱の小さなキャラメルを食べもせず持ち帰って、母や兄弟に分けてくれた優しい子でした。」

お腹いっぱい食べられるようになるには、兵隊さんになるか、軍需工場に勤務するか……。

8月6日、川でイカダ遊びをする少年、それを2階から見ている母。
そして、座ったときに原爆炸裂。少年は帰らぬ人に……。

「孫も逝って今はひとり」という原爆孤老の文章もありました。

バーバラの平和巡礼に参加した人の文章もありました。下「」引用。

「ワールドフレンドシップセンターに、毎週同志の集いを、孤老院の資金づくり、農閑期奉仕、バーバラ夫人の熱烈な慈愛に敬服せずにはいられない。母の遺産を平和運動のために投じて、人間欲望を脱した行動、感謝感激、合掌あるのみである。」

「児童を抱きしめて」というタイトルで亡き教師である母のことが書かれてありました。

流灯







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