『キーワード日本の戦争犯罪』
小田部雄次、他・著/雄山閣出版1995年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「本書では、満州事変~日中戦争~アジア太平洋戦争と続いた「十五年戦争」において、日本は一体どのように侵略戦争を遂行し、どのような戦争犯罪をおかしたのか、なぜそういうことをおこなったのか、そうしたことを事実に基づいて、その全体像をわかりやすく描こうとした。さらにそうした日本の行為が、平和を追究する国際的努力の中でどのように扱われてきたのか、戦後の日本はそうした過ちにどのように対処してきたのか、という観点からもくわしく説明を加えた。……学生、高校生、学校の教師、市民のみなさんなど多くの方々に活用していただき、日本の戦争責任問題と戦後補償の解決に少しでも役立てていだくことができれば幸いである。」
本書は……。下「」引用。
「なお本書は、「日本の戦争責任資料センター」の研究部会に参加する研究者としての三人の共同の仕事である。「日本の戦争責任資料センター」は一九九三年四月に研究者や弁護士、市民運動家などによって作られた組織であり、「従軍慰安婦」や七三一部隊をはじめ、日本の戦争責任に関わる調査研究を進め、その成果を機関誌『季刊戦争責任研究』やマスコミを通じて発表し、国連人権委員会などにも研究レポートを提出して、日本の戦争責任の究明と戦後補償の実現のために努力してきた。そうした研究成果のうえに本書が生まれたと行っても過言ではない」
「北支事変」 下「」引用。
「日本政府は、この戦争を当初「北支事変」、のち「支那事変」と呼び、宣戦布告をしなかったが、日露戦争以来の戦時最高司令部である大本営を設置し(三七年一一月二○日)、国家総動員法を制定・発動し、つねに五○万人から一○○万人の大兵力を投入して全面戦争として対処した。」
天皇は軍事情報を正確に知っていたのか……。時期によって異なるのでは? そう書かれてある本が多いとボクは思うが……。問題は統帥権だろうとも思うが……。
1937年「南京アトロシティーズ(残虐事件)」=「南京大虐殺」のことも書かれてあった。
「シンガポール・マレー半島の華僑虐殺」
スパルタ軍と毒ガス兵器。下「」引用。
「毒ガス兵器の歴史は古く、紀元前五世紀、スパルタ軍とアテネ軍が激烈に闘いを展開したギリシャで、スパルタ軍が硫黄などを燃やして多量の亜硫酸ガスをつくり、攻撃に応用した、と伝えられている。その毒ガスが戦争に大々的に取り入れられたのは、一九一四年から一八年までの第一次世界大戦だった。」
index
九州大学医学部事件。下「」引用。
「-略-一九四八年八月二七日、約五カ月にわたる裁判の判決が下され、西部軍関係者一一名のうち司令官横山勇中将が絞首刑、九大医学部関係者一四名のうち鳥巣太郎助教授、尾頭源太助教授、林芳雄講師らが絞首刑となった。肝臓試食については証拠不十分で全員無罪、首謀格とみなされた岩山福太郎助教授はすでに溢死してた。看護婦長の筒美静子は終身刑となり、女性初の戦犯となった。なお五○年再審減刑がなされ、死刑囚は全員死刑を免れた。-略-」
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石井部隊と大学。下「」引用。
「石井は京大出身であり、七三一部隊には京大出身の医学者が集められ、さらに慶大や東大からも優秀な人材が送りこまれた。とりわけ、京大医学部からは「七人組」とよばれ、一九三○年ごろに医学部を卒業した若手の助教授、講師クラスが派遣された。実験データは、石井が集約し、東京の防疫研究所を介して、京大や東大の大物医学部教授に伝えられた。」
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「戦争に反対した人々への弾圧」下「」引用。
「大正デモクラシーの時期には、戦後の日本に比べればはるかにの制限されていたにせよ、社会主義や自由主義的な運動がおこなわれ、軍へにの批判もでき、思想界ではさまざまな思想が発表された。
しかし男子普通選挙法の制定とひきかえに一九二五(大正一四)年治安維持法が制定された。-略-」
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もくじ
小田部雄次、他・著/雄山閣出版1995年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「本書では、満州事変~日中戦争~アジア太平洋戦争と続いた「十五年戦争」において、日本は一体どのように侵略戦争を遂行し、どのような戦争犯罪をおかしたのか、なぜそういうことをおこなったのか、そうしたことを事実に基づいて、その全体像をわかりやすく描こうとした。さらにそうした日本の行為が、平和を追究する国際的努力の中でどのように扱われてきたのか、戦後の日本はそうした過ちにどのように対処してきたのか、という観点からもくわしく説明を加えた。……学生、高校生、学校の教師、市民のみなさんなど多くの方々に活用していただき、日本の戦争責任問題と戦後補償の解決に少しでも役立てていだくことができれば幸いである。」
本書は……。下「」引用。
「なお本書は、「日本の戦争責任資料センター」の研究部会に参加する研究者としての三人の共同の仕事である。「日本の戦争責任資料センター」は一九九三年四月に研究者や弁護士、市民運動家などによって作られた組織であり、「従軍慰安婦」や七三一部隊をはじめ、日本の戦争責任に関わる調査研究を進め、その成果を機関誌『季刊戦争責任研究』やマスコミを通じて発表し、国連人権委員会などにも研究レポートを提出して、日本の戦争責任の究明と戦後補償の実現のために努力してきた。そうした研究成果のうえに本書が生まれたと行っても過言ではない」
「北支事変」 下「」引用。
「日本政府は、この戦争を当初「北支事変」、のち「支那事変」と呼び、宣戦布告をしなかったが、日露戦争以来の戦時最高司令部である大本営を設置し(三七年一一月二○日)、国家総動員法を制定・発動し、つねに五○万人から一○○万人の大兵力を投入して全面戦争として対処した。」
天皇は軍事情報を正確に知っていたのか……。時期によって異なるのでは? そう書かれてある本が多いとボクは思うが……。問題は統帥権だろうとも思うが……。
1937年「南京アトロシティーズ(残虐事件)」=「南京大虐殺」のことも書かれてあった。
「シンガポール・マレー半島の華僑虐殺」
スパルタ軍と毒ガス兵器。下「」引用。
「毒ガス兵器の歴史は古く、紀元前五世紀、スパルタ軍とアテネ軍が激烈に闘いを展開したギリシャで、スパルタ軍が硫黄などを燃やして多量の亜硫酸ガスをつくり、攻撃に応用した、と伝えられている。その毒ガスが戦争に大々的に取り入れられたのは、一九一四年から一八年までの第一次世界大戦だった。」
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九州大学医学部事件。下「」引用。
「-略-一九四八年八月二七日、約五カ月にわたる裁判の判決が下され、西部軍関係者一一名のうち司令官横山勇中将が絞首刑、九大医学部関係者一四名のうち鳥巣太郎助教授、尾頭源太助教授、林芳雄講師らが絞首刑となった。肝臓試食については証拠不十分で全員無罪、首謀格とみなされた岩山福太郎助教授はすでに溢死してた。看護婦長の筒美静子は終身刑となり、女性初の戦犯となった。なお五○年再審減刑がなされ、死刑囚は全員死刑を免れた。-略-」
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石井部隊と大学。下「」引用。
「石井は京大出身であり、七三一部隊には京大出身の医学者が集められ、さらに慶大や東大からも優秀な人材が送りこまれた。とりわけ、京大医学部からは「七人組」とよばれ、一九三○年ごろに医学部を卒業した若手の助教授、講師クラスが派遣された。実験データは、石井が集約し、東京の防疫研究所を介して、京大や東大の大物医学部教授に伝えられた。」
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「戦争に反対した人々への弾圧」下「」引用。
「大正デモクラシーの時期には、戦後の日本に比べればはるかにの制限されていたにせよ、社会主義や自由主義的な運動がおこなわれ、軍へにの批判もでき、思想界ではさまざまな思想が発表された。
しかし男子普通選挙法の制定とひきかえに一九二五(大正一四)年治安維持法が制定された。-略-」
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