『原爆はこうしてつくられた』
レスリー・R・グローブス(著)/
富永謙吾、実松譲(訳)/恒文社1974年
原書名 Now it can be told
著者はグローブスだけでなく、Richard H. Grovesも書かれてある。(表紙にも書かれてある)
グローヴス将軍……。下「」引用。
「グローブズ将軍は、マンハッタン計画指揮官となるや、四十六歳で准将に進み、一九四四年に少将、四八年には中将に累進して、その年二月に現役を退いた。なお、原子力関係が民間に移管されたのち、彼はしばらく三軍特別兵器計画部長の職にとどまっていた。
グローブズ将軍は、カリフォルニア大学はじめ七つの大学から名誉工学博士の学位を贈られたほか、合衆国最高勲章である殊功章を授けられ、また、イギリスその他よりも勲章を贈られている。彼は退役後、一九六一年の秋までスペリー・ランド会社のレミントン・ランド部門の副総裁に就任した。」
デュポン社のことが好きな著者。下「」引用。
「化学と化学上の技術に関する十分の知識を必要とし、デュポン社はこれをもっていた。原子物理の知識はさほど重要でなく、これについてシカゴ研究所に頼ることができた。私は最終的にデュポン社に決定するまえに、軍事政策委員会、ことにコナント博士に相談したが、異論はなかった。」
社長にもわざわざ会いに行ったという……。下「」引用。
「十一月十日、私はデュポン社を訪れカーペンター社長に会った。訪問の目的はデュポン社がすべてのプルトニウム計画を引き受けるよう説得することであった。社長室にはいった私は、社長の肝をつぶすような提案をもってきたことに気づいた。-略-
デュポン社としては、全体のプルトニウム計画の契約で実施する大きな責任を引き受けようとしなかった。その理由はもっともなことだった。明らかな物理学上の作業の障害をはじめ、同社は核物理学の分野で経験がなく、方法の実現性には多くの疑問があり、証明された理論は少なく、重要な技術上の設計データーはまったくなかったからである。このほか、事前の研究所または準工場(セミ・ワークス)の経験なくして、全面的な工場の設計と建設と運転を実施しようとするところに大きな困難があった。そのうえ、手持ちの軍部との契約のため、デュポン社はすでに技術と作業の面で人員に不足を感じていた。」
しかし、現場はとまどったということが、他の本に書かれてありました。
そのことの影響というのもあったのではないかと思います。下「」引用。
「一九四二年十二月二日、フェルミ博士の実験原子炉が最初の運転に成功した。デュポン社の実行委員会はシカゴ研究所の見学を許されていたが、この日の運転の見学を認められたのはグリーンウォルト氏だけであった。当時私は米西岸から東岸への帰途についていたので、コンプトン博士は実験の成功を私に報告できなかった。彼はハーバード大学のコナント博士に電話で知らせた。それは今日有名になっている次のようなものである。
「イタリアの航海者(フェルミ博士のこと)が、いま新世界に上陸した。原住民は友好的である」
十二月二日の実験で、制御された連鎖反応が達成できることが証明されたが、大規模なプルトニウムの生産に使用できるという保証はなかった。」
コンプトン博士はデュポン社より、他の会社を……。下「」引用。
「コンプトン博士はデュポン社をあまり関与させないよう私に希望した。
コンプトン博士の所管は最後に次のことを提案した。もしデュポン社がこの仕事について疑問をいだくならば、われわれはゼネラル・エレクトリック社とウェスチングハウス社に動力装置の技術面と建設の分野を担当させ、これらの建設が完了し機能が円滑に発揮された以後の抽出捜査と動力捜査の運転だけをデュポン社にやらせてはどうかと。コンプトン博士は、三年間ウェスチングハウス社の技術者であり、十七年間ゼネラル・エレクトリック社の顧問であったので、彼がこの両社を信頼したならば、両社が方法の可能性についての彼の判断を受け入れるものと思い、さらに、高度の軍事上の重要性を考慮したならば、両社はこの計画の達成に全力をつくすであろう、と考えたのである。」
オッペンハイマーは偶然知ったという……。下「」引用。
「オッペンハイマー博士はバークレーの研究グループの長であったが、ブッシュ博士もコナント博士も、われわれが“Y計画”の長として彼の任命を委任されているとは少しも考えていなかった。そのころ、私はオッペンハイマー博士を偶然の機会に知った程度であった。私が彼を最初に知ったのは、十月十八日にカリフォルニア大学で、彼の研究の成果と彼が結論に到達した方法について、しばらく話し合ったときである。その直後、私は彼にワシントンにくるよう希望し、われわれは原爆の開発に必要な問題について探求した。」
マッカーシー旋風などもあったし、こんなことを書くのか?
スチムソン長官は、原爆使用をすすめていた……。下「」引用。
「スチムソン陸軍長官は、日本本土侵攻によって生ずるであろう人命の莫大な損害、ソ連参戦のもたらす好ましくない政治的影響、原爆使用の結果について、すでに早くから深く憂慮していたので、できればすべてのこのような禍いを避ける方法をとろうとしていた。彼の見るところでは、問題は日本に対する無条件降伏の要求にあった。」
ジャンボという、原爆をその中で爆発させようとするものがあったようです。
--実際には使われず……。
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レスリー・R・グローブス(著)/
富永謙吾、実松譲(訳)/恒文社1974年
原書名 Now it can be told
著者はグローブスだけでなく、Richard H. Grovesも書かれてある。(表紙にも書かれてある)
グローヴス将軍……。下「」引用。
「グローブズ将軍は、マンハッタン計画指揮官となるや、四十六歳で准将に進み、一九四四年に少将、四八年には中将に累進して、その年二月に現役を退いた。なお、原子力関係が民間に移管されたのち、彼はしばらく三軍特別兵器計画部長の職にとどまっていた。
グローブズ将軍は、カリフォルニア大学はじめ七つの大学から名誉工学博士の学位を贈られたほか、合衆国最高勲章である殊功章を授けられ、また、イギリスその他よりも勲章を贈られている。彼は退役後、一九六一年の秋までスペリー・ランド会社のレミントン・ランド部門の副総裁に就任した。」
デュポン社のことが好きな著者。下「」引用。
「化学と化学上の技術に関する十分の知識を必要とし、デュポン社はこれをもっていた。原子物理の知識はさほど重要でなく、これについてシカゴ研究所に頼ることができた。私は最終的にデュポン社に決定するまえに、軍事政策委員会、ことにコナント博士に相談したが、異論はなかった。」
社長にもわざわざ会いに行ったという……。下「」引用。
「十一月十日、私はデュポン社を訪れカーペンター社長に会った。訪問の目的はデュポン社がすべてのプルトニウム計画を引き受けるよう説得することであった。社長室にはいった私は、社長の肝をつぶすような提案をもってきたことに気づいた。-略-
デュポン社としては、全体のプルトニウム計画の契約で実施する大きな責任を引き受けようとしなかった。その理由はもっともなことだった。明らかな物理学上の作業の障害をはじめ、同社は核物理学の分野で経験がなく、方法の実現性には多くの疑問があり、証明された理論は少なく、重要な技術上の設計データーはまったくなかったからである。このほか、事前の研究所または準工場(セミ・ワークス)の経験なくして、全面的な工場の設計と建設と運転を実施しようとするところに大きな困難があった。そのうえ、手持ちの軍部との契約のため、デュポン社はすでに技術と作業の面で人員に不足を感じていた。」
しかし、現場はとまどったということが、他の本に書かれてありました。
そのことの影響というのもあったのではないかと思います。下「」引用。
「一九四二年十二月二日、フェルミ博士の実験原子炉が最初の運転に成功した。デュポン社の実行委員会はシカゴ研究所の見学を許されていたが、この日の運転の見学を認められたのはグリーンウォルト氏だけであった。当時私は米西岸から東岸への帰途についていたので、コンプトン博士は実験の成功を私に報告できなかった。彼はハーバード大学のコナント博士に電話で知らせた。それは今日有名になっている次のようなものである。
「イタリアの航海者(フェルミ博士のこと)が、いま新世界に上陸した。原住民は友好的である」
十二月二日の実験で、制御された連鎖反応が達成できることが証明されたが、大規模なプルトニウムの生産に使用できるという保証はなかった。」
コンプトン博士はデュポン社より、他の会社を……。下「」引用。
「コンプトン博士はデュポン社をあまり関与させないよう私に希望した。
コンプトン博士の所管は最後に次のことを提案した。もしデュポン社がこの仕事について疑問をいだくならば、われわれはゼネラル・エレクトリック社とウェスチングハウス社に動力装置の技術面と建設の分野を担当させ、これらの建設が完了し機能が円滑に発揮された以後の抽出捜査と動力捜査の運転だけをデュポン社にやらせてはどうかと。コンプトン博士は、三年間ウェスチングハウス社の技術者であり、十七年間ゼネラル・エレクトリック社の顧問であったので、彼がこの両社を信頼したならば、両社が方法の可能性についての彼の判断を受け入れるものと思い、さらに、高度の軍事上の重要性を考慮したならば、両社はこの計画の達成に全力をつくすであろう、と考えたのである。」
オッペンハイマーは偶然知ったという……。下「」引用。
「オッペンハイマー博士はバークレーの研究グループの長であったが、ブッシュ博士もコナント博士も、われわれが“Y計画”の長として彼の任命を委任されているとは少しも考えていなかった。そのころ、私はオッペンハイマー博士を偶然の機会に知った程度であった。私が彼を最初に知ったのは、十月十八日にカリフォルニア大学で、彼の研究の成果と彼が結論に到達した方法について、しばらく話し合ったときである。その直後、私は彼にワシントンにくるよう希望し、われわれは原爆の開発に必要な問題について探求した。」
マッカーシー旋風などもあったし、こんなことを書くのか?
スチムソン長官は、原爆使用をすすめていた……。下「」引用。
「スチムソン陸軍長官は、日本本土侵攻によって生ずるであろう人命の莫大な損害、ソ連参戦のもたらす好ましくない政治的影響、原爆使用の結果について、すでに早くから深く憂慮していたので、できればすべてのこのような禍いを避ける方法をとろうとしていた。彼の見るところでは、問題は日本に対する無条件降伏の要求にあった。」
ジャンボという、原爆をその中で爆発させようとするものがあったようです。
--実際には使われず……。
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