磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆被害者援護法-反原爆論集II

2008年05月03日 | 読書日記など
『原爆被害者援護法-反原爆論集II』
   石田忠・著/未来社1986年

この文章が印象に残りました。下「」引用。

「そして原爆は、辛うじて生き残った被爆者が、それから生きぬいていくための肉体的、社会的諸条件を破壊してしまいました。」

しかし、国は受忍可能と切り捨てました……。



実際はどうあれ、お上が思えば、切り捨てていくのです……。

『被爆の実相』被爆者であっても、一人では無理だという……。下「」引用。

「私自身で体験を語ってみて痛感しているのですが……私自身の極く小さな体験しか話せない。とても『被爆の実相』ということには程遠い……。何十万の被爆者が、何十万通りの被爆の苦しみ、何十万通りの生きる苦しみを背負っていると思う……。」前・川崎市医師会長・近藤正雄氏談=日本被団協機関紙『被団協』82・12・6」

〈モノとしての死〉があったという……。下「」引用。

「それでは原爆はいかなる死人間にもたらしたでしょうか。まず、その死の異形なこと、それは、まさに原爆だけがなしえたものでした。」

これは、原爆だけに限ったことではないと思うが、原爆ではすさまじかったと思う。
--猟奇的殺人事件などでも、かなりのものだと思います。
異常者といわれる犯罪者であっても、ここまでの犯罪は犯していないとも思う。

そして、生きていくためには……。下「」引用。

「人か人間でなくなる
 原爆のつくりだした地獄が何であるかは、そこでの人間行動に現われます。
「自分が助かることにもう一生けい命だからね。人の死体をふみこえて、どんなにしても助かろう、すがりつくのを払いのけて帰ったの」「自分も鬼にならないと生きられない。死体を踏みこえて行かなくては。」」

今の日本のセレブという人たちは、けったいな言い訳で、人間でなくなっておられるとボクは思います。

V・E・フランクルの文章と長崎・広島を比較。
ナチスの強制収容所では、『選別』されて人がモノになったという。
--今の経営者たちは、人材というモノを手に入れたがっている。
しかし、人材という言葉自体はモノではないと思うのだが……。


井伏鱒二と原爆批判。下「」引用。

「石田 井伏鱒二という作家は、庶民を、生活者を描く作家といわれているが、その姿勢はこの『黒い雨」にも一貫しているわけで、井伏は庶民の原爆体験記をもとに、徹頭徹尾庶民の立場に立っている。だから人間の立場からすると原爆批判が可能となった。」

井伏鱒二批判。下「」引用。

「原爆小説としての『黒い雨」の方法については、たとえばリフトンの、『長い航海』とか『血の雨』などの『強制収容所』小説に見られるような、手法上の画期的な実験の類」がない」

そして、井伏鱒二の自らへの評。下「」引用。

「(中央公論社刊『日本の文学 井伏鱒二集』月報)の中で、彼自身、大田洋子、-略-「人によってみなちがうでしょう。僕はそう深刻なものを出せないな。僕が書くと原爆が駄目なんだ」と言っています。」

厚生省の調査と、著者の調査は違う結果がうまれた。下「」引用。時お
「四十年調査で私が担当した長崎の事例調査で出会った被爆者たちは、それぞれに、原爆にうたれたがゆえに苦しんでいる人たちでした。この被爆者たちをどうしたらその等身大においてとらえることができるのか、その方法の探究が私の課題となり、それはやがて被爆者の生活史調査の方法として確立されていったわけです。
 厚生省の調査結果は「一般国民と大差ない」という概要の発表にとどまりました。」

もちろん、著者が事実を伝えているとボクは考えます。









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