磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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講談社文庫 日本の兵器工場

2009年10月04日 | 読書日記など
『講談社文庫 日本の兵器工場』
   鎌田慧・著/講談社1983年

--兵器工場の一覧表がある。わが市にもある……。
かなりの数の企業があるのだと驚く。だけど、まだ「死の商人」ではないという。下「」引用。

「日本産業はまだ「死の商人」となるには至っていないが、東西対立、第三世界紛争などへのコミットメントを深め、戦争勃発の際に日本を巻きこむ危険性を深めている、といえよう。」



原子力船「むつ」が佐世保に入港。
佐世保重工の労働者は海軍工廠よりも、警戒していたという。

再開はアメリカ自身の手による……。下「」引用。

「こうして、占領直後の四五年九月のアメリカの対日方針「日本軍事力の現存経済基礎は破壊せられ、且つ再興を許容せられざるを要す」は、わずか五年にして、アメリカ自身の手によって破棄されることになった。それは気息奄々(えんえん)としていた日本財界にとっての神風でもあり、日本の兵器工場は、かくして堂々と生産を再開できることになったのである。-略-」

豊和工業・名古屋工場〈小銃〉」 下「」引用。

「陸上自衛隊で使用されている64式小銃を産みだした豊和工業に特需が舞いこんだのは五二年である。手榴弾百五十万発、八一ミリ迫撃砲四十門、七五ミリ榴弾弾四万発などを納入、その後同社は陸上自衛隊むけに小銃や迫撃砲の修理や部品の納入をおこない、自力開発した小銃が六四年に制式銃とされてから、その64式小銃を一手に引受け、すでに十七万五千丁ほど納入してきた。-略-初代社長は大阪合同紡績の谷口房蔵で、発明王豊田佐吉を常務に迎え出発した。-略-」

「日特金属工業・田無工場〈機関銃、バルカン砲〉」下「」引用。

「日特金属工業は旧中島飛行機の一郭にあったためか、背の高い赤松に囲まれ、事務所は木造で、田舎の古い高校のような静かなたたずまいである。-略-」

今では住友のようですが、西東京市にあるようです……。

「機関銃から産まれたヤクルト容器」下「」引用。

「つまりヤクルトの容器は、機関銃発射技術の副産物ともいえるのである。そういえば、ヤクルト容器はどこか薬莢(やっきょう)に似ているから不思議である。」

長崎造船所〈魚雷、艦艇〉」=秘密工場。下「」引用。

「取材を申し込むと、三菱重工業本社から、「あそこはおみせできません」と断られた。対潜水艦戦のエースとしての魚雷工場は、秘密工場なのである。-略-」

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「ソ連に浮きドックを輸出した石川島播磨重工」
「フジ・インダストリアル「武器輸出」事件」

オーバーホール「ベトナム特需」。下「」引用。

「このほか、北爆を続けた米軍機のオーバーホールは、日本飛行機、新明和工業、三菱重工業、川崎飛行機(川崎重工)の工場によっておこなわれていた。この頃、多くのベトナム人民を殺傷した「ナパーム弾」が生産、輸出されているとの噂も根強かった。神戸製鋼で朝鮮特需むけに輸出した残りが、そのままベトナム戦争で使用された例もあったが、ナパーム弾は、弾そのものとして輸出されたのではなく、原料、部品として輸出され、国外で組立てられていた疑いが残っている。-略-」

武器輸出を語った神戸製鋼所の浅田長平社長、河合良成小松製作所社長。下「」引用。

「両社長ともに期せずして、今後の東南アジアへの武器輸出の寄与について語っていたのだった。日本の兵器産業は、ベトナム以外にも、すでにタイ、ビルマ、台湾などに榴弾、銃弾を輸出した実績を持ち、それ以後も、台湾への魚雷、南ベトナムへの銃弾プラント、インドネシアへの射撃管制装置、機銃部品などを輸出、六七年の「武器輸出三原則」以降も、フィリピンへの銃弾プラント(豊和工業)、火薬プラント(ダイセル)などの輸出が続いていた。」

韓国の企業、「日本企業が九○パーセントの株を取得」

「石川島播磨重工業・田無工場〈ジェットエンジン〉」
「「零戦」のエンジンをつくる」
「攘夷派の急先鋒だった水戸藩主徳川斉昭によって東京湾の石川島に設立された造船所から出発した石川島重工業が航空機に進出したのは、一九二四(大正十三)年のことである。-略-」

これも西東京市ですが、今ではなくなったようだ……。
検索してみると、相馬工場に移転したという。

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あなたの住んでいるところにも、あるかもしれませんね……。









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