『PHP愛と希望のノンフィクション
折り鶴は世界にはばたいた
平和への祈り・折り鶴をめぐる人々の物語』
うみのしほ・作/高田三郎・絵/PHP研究所1998年
表紙の裏にこう書かれてあります。下「」引用。
「折り鶴が平和への祈りをこめて折られるようになっておおよそ四十年。“平和の折り鶴”は、今や日本から世界各地に伝えられている。本書は、この平和の折り鶴が誕生し、世界にはばたいていった道すじを、平和を願うたくさんの人びとの姿を通していきいきと描く。」
「表紙の写真は、アメリカのニューメキシコ州アルバカーキの子どもたちの力で建てられた平和像。(広島の「原爆の子の像」の姉妹像)」
『サダコ』の物語がなぜ、世界に伝わったか、
それは千羽鶴というものが大きかったという
方がおられます。
禎子が折り始めるきっかけになったのは、
名古屋の女子高校生から
送られた千羽鶴だったという。
名古屋タイムズの1958年8月9日に
掲載されたという。
その名古屋の女子高校生たちが、
どうして、千羽鶴を贈ろうとしたか、
そのきっかけは、映画『無限の瞳』を
見たからだという。
その映画の主人公は成城高校三年生
千葉亮(ちばりょう)。
小学二年のとき、
広島の鉄砲町の自宅で被爆したという。
1954年9月25日、千葉は入院。
講堂で校長は原爆病であることを
知らせたという。
そして、音声のドキュメンタリー作品をつくり、
いろんな学校でも放送され、NHKや文化放送でも、
そのまま放送されたという。
大学生が映画をつくらないかと誘いかけてきた。
そして『無限の瞳』が生まれたという。
そしてその制作メンバーは、サダコの入院している病院に宿泊している。下「」引用。
「その年の八月六日、広島でおこなわれた第一回原水爆禁止世界大会に参加し、市内各地で映画の上映会をひらいた。募金から経費をさしひいた十万円(現在の物価で約二百万円)を、原爆被災者のために、と寄付をしている。
広島での十日間、彼らは広島日赤病院の当直室に宿泊している。実はその時期、広島日赤病院には佐々木禎子が入院しているのだ。八月三日、禎子の病室に、『無限の瞳』の記事を見た愛知県淑徳高校生からの千羽鶴がとどけられたことも、禎子が折り鶴を折りはじめたことも、それがのちに『原爆の子の像』へとつながっていくことも、筆者の取材をうけるまで彼らはまったく知らなかった。」
また、モンゴルの歌「ヒロシマの少女の折り鶴」
について書かれてありました。
このことを追ったドキュメンタリーの
テレビ番組もつくられたそうです。
フランスでは、アニメをつくろうという
運動をはじめた美帆シボがいた。
そして、『つるにのって』が制作されたという。
素晴らしい光景も書かれてありました。下「」引用。
「一人の男の子がきいた。
「日本人は、アメリカ人に復讐しないの?」
池田がマイクをにぎって答えた。
「戦争をおこしたのは一部の人たちです。日本人は、アメリカ人みんなをにくんでいません。日本は、二度と戦争をしない、と憲法で決めていますから、復讐などは考えてもいません」
「トレビアン(すばらしい)!」
会場中から拍手がおこった。」
下の画像は美帆シボと子どもたち。
アメリカには広島の平和公園の中の
「原爆の子の像」のような平和の像がないという。
フロイド・シュモーも応援してくれていたようです。
シュモーはサダコ像を公園につくったそうだ。
ボニーは来日して、長崎の被爆者
谷口稜曄(すみてる)宅にホームスティした。
ケイティリンも日本にやってきたという。
もくじ
折り鶴は世界にはばたいた
平和への祈り・折り鶴をめぐる人々の物語』
うみのしほ・作/高田三郎・絵/PHP研究所1998年
表紙の裏にこう書かれてあります。下「」引用。
「折り鶴が平和への祈りをこめて折られるようになっておおよそ四十年。“平和の折り鶴”は、今や日本から世界各地に伝えられている。本書は、この平和の折り鶴が誕生し、世界にはばたいていった道すじを、平和を願うたくさんの人びとの姿を通していきいきと描く。」
「表紙の写真は、アメリカのニューメキシコ州アルバカーキの子どもたちの力で建てられた平和像。(広島の「原爆の子の像」の姉妹像)」
『サダコ』の物語がなぜ、世界に伝わったか、
それは千羽鶴というものが大きかったという
方がおられます。
禎子が折り始めるきっかけになったのは、
名古屋の女子高校生から
送られた千羽鶴だったという。
名古屋タイムズの1958年8月9日に
掲載されたという。
その名古屋の女子高校生たちが、
どうして、千羽鶴を贈ろうとしたか、
そのきっかけは、映画『無限の瞳』を
見たからだという。
その映画の主人公は成城高校三年生
千葉亮(ちばりょう)。
小学二年のとき、
広島の鉄砲町の自宅で被爆したという。
1954年9月25日、千葉は入院。
講堂で校長は原爆病であることを
知らせたという。
そして、音声のドキュメンタリー作品をつくり、
いろんな学校でも放送され、NHKや文化放送でも、
そのまま放送されたという。
大学生が映画をつくらないかと誘いかけてきた。
そして『無限の瞳』が生まれたという。
そしてその制作メンバーは、サダコの入院している病院に宿泊している。下「」引用。
「その年の八月六日、広島でおこなわれた第一回原水爆禁止世界大会に参加し、市内各地で映画の上映会をひらいた。募金から経費をさしひいた十万円(現在の物価で約二百万円)を、原爆被災者のために、と寄付をしている。
広島での十日間、彼らは広島日赤病院の当直室に宿泊している。実はその時期、広島日赤病院には佐々木禎子が入院しているのだ。八月三日、禎子の病室に、『無限の瞳』の記事を見た愛知県淑徳高校生からの千羽鶴がとどけられたことも、禎子が折り鶴を折りはじめたことも、それがのちに『原爆の子の像』へとつながっていくことも、筆者の取材をうけるまで彼らはまったく知らなかった。」
また、モンゴルの歌「ヒロシマの少女の折り鶴」
について書かれてありました。
このことを追ったドキュメンタリーの
テレビ番組もつくられたそうです。
フランスでは、アニメをつくろうという
運動をはじめた美帆シボがいた。
そして、『つるにのって』が制作されたという。
素晴らしい光景も書かれてありました。下「」引用。
「一人の男の子がきいた。
「日本人は、アメリカ人に復讐しないの?」
池田がマイクをにぎって答えた。
「戦争をおこしたのは一部の人たちです。日本人は、アメリカ人みんなをにくんでいません。日本は、二度と戦争をしない、と憲法で決めていますから、復讐などは考えてもいません」
「トレビアン(すばらしい)!」
会場中から拍手がおこった。」
下の画像は美帆シボと子どもたち。
アメリカには広島の平和公園の中の
「原爆の子の像」のような平和の像がないという。
フロイド・シュモーも応援してくれていたようです。
シュモーはサダコ像を公園につくったそうだ。
ボニーは来日して、長崎の被爆者
谷口稜曄(すみてる)宅にホームスティした。
ケイティリンも日本にやってきたという。
もくじ
なお、フランスでの活動を記したエッセイ集『フランスの空に平和のつるが舞うとき』(柏書房)、反戦・反核・環境問題のファンタジー小説(かつ恋愛小説)『ババロン伝説』(柏艪舎)も出版されましたので、お知らせいたします。
では、これからも時々、寄らせていただきます。
どうぞ、よろしく。
やはり、一国では平和は来ないと思います。
御著も拝読させていただきます。
これからも、よろしくお願いいたします。m(_ _)m