『ヒロシマ二十年 原爆記録映画製作者の証言』
加納竜一、水野肇(著)/弘文堂1965年
このころには、まだ「幻の映画」といわれ、返還運動がこの本からはじまったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/50/5f3ee3e571d1ff32b03fd38d7d7cffac.jpg)
当時の状況。
--19歳の娘さんが、原爆症を苦に自殺。
故・峠三吉の妻・原田和子(56)も自殺。
--髪の毛が抜け原爆症ではないかと不安がっていた。
そして2月24日に嫌がらせもあったようだ……。下「」引用。
「平和公園にある峠三吉の詩碑がポスターカラーでぬりたくられていたことを、淋しそうに話していたという。」
人間性をとりもどせ!
人間を返せ! を書いた峠三吉
人間性を失った ポスターカラーの野蛮人!
人間性をとりもどせ!
アメリカ政府の教養ある野蛮人!
人間性をとりもどせ!
危険な原発を安全という教養ある野蛮人!
人間をとりもどせ!
平和運動をカードにしたイデオロギーの虜よ!
人間性をとりもどせ! ボク&君……。
峠三吉は人間性を歌った!
ベトナム戦争のことも書かれてありました。
写真では、一瞬ヒロシマではないかと思いました……。
昭和21年4月に日映で試写会があったという。
--英文のタイトル。
EFFECTS THE ATOMIC BOMB ON HIROSHIMA AND NAGASAKI
「原子爆弾の効果・広島と長崎」
ナレーションは英語。
監修は理化学研究所の仁科芳雄博士。
物理編=仁科博士、生物編=中山弘美博士、医学編=都築正男博士が解説を校閲。
--ニュース映画社(独占会社)
ナチス・ドイツの宣伝統制のやり方「映画は弾丸である」に従ったという。
朝日、読売、毎日、同盟の映画部を一つにまとめた社団法人「日本ニュース映画社」
高見順の日記に1945年8月30日、川端康成が「広島や長崎へ、作家が行ってその惨害をくわしく調べて後々のために書いておく、こういうことは必要だとおもうんだが……」と意見したことが書かれてあったという。
永井隆の映画をとったという。下「」引用。
「それにすぐつづいて、やはり七年前のフィルムを生かして、記録映画「原爆の長崎」(二巻)がつくられた。それは爆心地と浦上天主堂を中心にして、当時病床にあった永井隆氏を取材し、平和の祈りを主なテーマとしたものであった。」
永井博士の思い出
index
目 次
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/c1/5fc3b98352a16aaa3a2ad479e3859c6f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/c5/f112fd5f289b687b78e6085f428b111e.gif)
![エンタメ@BlogRanking](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/82/10459564eb8bf00cc912545b0fc6b3e0.jpg)
加納竜一、水野肇(著)/弘文堂1965年
このころには、まだ「幻の映画」といわれ、返還運動がこの本からはじまったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/50/5f3ee3e571d1ff32b03fd38d7d7cffac.jpg)
当時の状況。
--19歳の娘さんが、原爆症を苦に自殺。
故・峠三吉の妻・原田和子(56)も自殺。
--髪の毛が抜け原爆症ではないかと不安がっていた。
そして2月24日に嫌がらせもあったようだ……。下「」引用。
「平和公園にある峠三吉の詩碑がポスターカラーでぬりたくられていたことを、淋しそうに話していたという。」
人間性をとりもどせ!
人間を返せ! を書いた峠三吉
人間性を失った ポスターカラーの野蛮人!
人間性をとりもどせ!
アメリカ政府の教養ある野蛮人!
人間性をとりもどせ!
危険な原発を安全という教養ある野蛮人!
人間をとりもどせ!
平和運動をカードにしたイデオロギーの虜よ!
人間性をとりもどせ! ボク&君……。
峠三吉は人間性を歌った!
ベトナム戦争のことも書かれてありました。
写真では、一瞬ヒロシマではないかと思いました……。
昭和21年4月に日映で試写会があったという。
--英文のタイトル。
EFFECTS THE ATOMIC BOMB ON HIROSHIMA AND NAGASAKI
「原子爆弾の効果・広島と長崎」
ナレーションは英語。
監修は理化学研究所の仁科芳雄博士。
物理編=仁科博士、生物編=中山弘美博士、医学編=都築正男博士が解説を校閲。
--ニュース映画社(独占会社)
ナチス・ドイツの宣伝統制のやり方「映画は弾丸である」に従ったという。
朝日、読売、毎日、同盟の映画部を一つにまとめた社団法人「日本ニュース映画社」
高見順の日記に1945年8月30日、川端康成が「広島や長崎へ、作家が行ってその惨害をくわしく調べて後々のために書いておく、こういうことは必要だとおもうんだが……」と意見したことが書かれてあったという。
永井隆の映画をとったという。下「」引用。
「それにすぐつづいて、やはり七年前のフィルムを生かして、記録映画「原爆の長崎」(二巻)がつくられた。それは爆心地と浦上天主堂を中心にして、当時病床にあった永井隆氏を取材し、平和の祈りを主なテーマとしたものであった。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/86/f625b9945d9c44d73b60bec3494ae932.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/fc/887a04c24f52748c4f999cfbe6c8bc3f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/bc/2050fa4d1ba526d9fa36521a7347c505.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/c1/5fc3b98352a16aaa3a2ad479e3859c6f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/c5/f112fd5f289b687b78e6085f428b111e.gif)
![エンタメ@BlogRanking](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/82/10459564eb8bf00cc912545b0fc6b3e0.jpg)