磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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岩崎ブックレットNO.376 被爆者たちの戦後50年

2007年12月14日 | 読書日記など
『岩崎ブックレットNO.376 被爆者たちの戦後50年』
    栗原淑江・著/岩波書店1995年

この薄い冊子で50年を書くことができるわけがありませんね……。



1968年8月、一橋大学のゼミナールで長崎で調査実習。
--原爆のことを思いだすと具合が悪くなるという断られる。
しかし、大方の被爆者たちは「原爆のことは思い出したくない」と言いながら、調査に協力していただいたという。

著者は1980年から11年間は、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の事務局員。
3年前から、「被爆者の自分史」の取り組みをしているという。

放影研のことも書かれてありました。下「」引用。

「(財)放射線影響研究所(放影研)は一九六九年、長崎原爆被害者における皮膚がんの多発は認められないと発表したが、皮肉なことにこのあと皮膚がんは多発するようになった。」

MSWの方が語られています。下「」引用。

「山崎静子さんの「自分史」を評して、長年彼女の証言活動を支えてきた村上須賀子さん(原爆被害者相談の会・医療ソーシャル・ワーカー)はこういう。
「被爆者として、そして障害を担った息子を愛し身を粉にして働きながらも、人生に肯定的であっけらかんとしたユーモアを発揮しながら生きて、そして生きゆく、フツーのおばちゃんのたくましい姿がある」。」

よほど親しいのでしようか?
--MSWのプロとしての発言ではないとボクは思います。

山崎静子さん1916年、京都府で生まれ。
1940年結婚し広島へ。下「」引用。

「朝食の茶碗を息子に差し出したとたん、ピカッと光り、とっさに息子を引っぱり寄せお腹の下に入れた。大きな尾とととにフワーッと浮き上がり家の下敷きになった。身動きもできず、ここで死ぬと覚悟したが、胸の下で呻く子に気がついて、「生きなければ」と思いなおした。やっとのことで息子を押し出し、自分も何とか出ることができた。」

自分史を呼びかけられたという。下「」引用。

「「自分史」の呼びかけには、短時日のうちに思いがけないほどの反響が寄せられた。
 被爆から五○年を迎えたいま、何が彼らを「自分史」へと駆り立てているのだろうか。また、書くことで確かめようとしているのはいったい何なのだろうか。」

その一つの理由は供養だったという。下「」引用。

「昨夏、夫の五○回忌を執り行った久井さんは、「自分史というご縁で、主人のことについて昨日のごとく思い出し、あの日泣けなかったのに思い切り泣くことができて、五○年の年月を経て、最良の供養ができたと、一人になって仏前でつくづく思うことでした」と手紙をくれた。」

「自分史」運動についても書かれていました。下「」引用。

「被爆者の「自分史」運動には、また、さまざまな年代・職業の人々の協力が寄せられている。編集者、相談員、教師、主婦、写真家……、これらの人々と被爆者との間には、つどいで作品を読みあったり、ワープロ聖書や聞き書き、あるいは『自分史つうしん ヒバクシャ』の購読をつうじての、人間と人間の出会いや“協働”が生まれてきている。」








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