磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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被爆カルテ ----ある町医者の遺言-----

2006年08月07日 | 読書日記など
NNNドキュメント2006年8月7日

被爆カルテ
〜ある町医者の遺言〜


ヒロシマの閉鎖された診療所から、
昭和20年8月6日からの54枚のカルテが発見された。

その診療所は広島市安佐南区(今ではベッドタウン)になっている。
伴診療所は爆心地から10kmのところにあった。

医師や看護師の疎開は禁止されていたという。

伴冬樹医師は、出動命令がおりて、すぐに広島市内へ。
そして夜中に帰ってくる。

患者の妹が生存されていて語る。
母と妹で姉を救い出してきた。
患者が多く、なかなか診察してもらえなかった。
鼻部4針。毎日大八車に乗せて通院。
原因のわからない高熱。27歳の若さで死亡。

原子爆弾と翌日には軍部はわかるが、
軍事機密として一般の医師には伝えなかった。



伴医師



【埼玉県】
肥田医師は被爆者の治療をしつづけてきた。
被爆者はふつうの病気でも治りづらいという。

肥田医師は、28歳の軍医の時、戸坂(へさか)小学校で被爆。
村中の薬という薬を集めて治療。

医者でありながら、患者を救えなかった。
それは伴診療所でも同様だったろう。

ピカを直接うけていないのに、発症するので、
伝染病ではないかと現場の医療に従事する者はゾッとしたという。


肥田医師


伴医師は原爆という言葉も知らず、
『戦災中毒死』という病名をつけていたという。


【新型爆弾と伝えらた=衛生速報】9月
被爆医療の一歩
・輸血
・栄養の保持
・絶対安静

9月には原子爆弾傷と伴医師のカルテにも書かれるようになった。

しかし、占領軍がやってきて、プレスコードをひく。
被爆という言葉さえ使用禁止。
アメリカの軍需機密として封印されたという。
9月27日で、伴医師のカルテも終わる。


1966年、伴診療所閉鎖。
伴冬樹医師、大腸ガンで死亡。
伴医師も黒い雨にあった被爆者であった。




[肥田舜太郎]
ヒロシマ・ナガサキを世界へ
〈サイト記事〉
放射線と闘い61年 被爆医師肥田さん【中国新聞】'06/8/7


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