磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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夏の花

2008年11月20日 | 読書日記など
『夏の花』
   原民喜・著/晶文社1970年

解説で理解できないことが書かれてあった……。
--といっても、無理に理解されようとも思っておられないとも思う……。



■目 次■
壊滅の序曲  7
夏の花  63
廃墟から  89
◆解説 竹西寛子  117


広島という言葉……。下「」引用。

「広島を言う言葉に私が狭量になるのは、被爆者の自己愛であろうか。衝撃の強さに、私が心の機能の一部を失ったということなのか。それとも、郷土への愛着のせいであるか。恐らくどの一つを除いても嘘だと言わざるを得ないほど、私はまだ広島とはよく離れていない。その上、いつ、どのようにして離れてゆくのかもよくは解らない。
 けれども、広島が言わせる言葉を感じ得る限り、広島に即いて広島を離れる可能性はまだ残されていると思いたい。そして、その広島が言わせる言葉のあることを感じ、広島が言わせた言葉をすでに経験させられたということこそ、じつは私の狭量の第一の理由にあげるべきかもしれないのである。私にとって。原民喜の『夏の花』は、まさにそのような広島が言わせた言葉の原典としての重みをもつものである。」

言葉は道具、道具に狭量もくそもないだろうに……。

そして、道具にふりまわされる必要もないとも思うが……。

あの出来事が問題だとボクは思うが……。

そうしたら、言葉で表現することの困難性は多くの人が述べていることでもある……。

言葉にもやはり限界があり、狭量という感じというのなら、わからないでもないが……。

むしろ、言葉や文学が狭量ではないか? 竹西たちの思いをのせられらないのではないか?

大田洋子はみごとに挑戦したが、身近な人にも理解されていなかったのではないか?

まあ、こざかしく、いろいろと思う……。

そして、竹西はこざかしいという……。下「」引用。

「被爆地広島を記録したというさまざまの映像に関しては、見る意志も欲望ももたない私が、『夏の花』だけは繰り返し読むのは、いや読まされるのは、言葉本来の性質やはたらきを別にして考えられないことだと思う。言葉の刺戟や喚起力の持続性、限定されているようでじつは無限定とさえいえる言葉の、享受の自由の有難さをいまさらのように思う。
 だがそればかりではない。『夏の花』を読めば、こざかしく意味づけられていない広島と必ず会えるからである。夏の光があり、茶碗を抱えてお湯を呑んでいる黒焦の大頭があり、川岸に懸っている梯子に手をかけたまま硬直している死骸があり、地に伏して水を求める声があり、その中に玉葱が漾(ただよ)い、喇叭が鳴り、瀕死の人たちのあらわな生きる闘争があるからである。-略-」

詩の鑑賞のように読んでいるのだろうか?

『被爆地広島を記録したというさまざまの映像に関しては、見る意志も欲望ももたない』……。

どんな欲望だろうか?

原民喜の作品はそれなりの欲望がこの解説者にはあるようだが……。

原民喜がこのような解説者と同様であったともボクには思えない……。

“こざかしい”?……。

人それぞれに広島があって当然だとボクは思うが……。

当時のノスタルジアを感じる人たちは、少なくなってきていることだろう……。

ボクには理解できないことである……。








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