磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ヒロシマまでの長い道

2008年09月26日 | 読書日記など
『ヒロシマまでの長い道』
   長瀬隆・著/晩声社1989年

樺太出身で、ソ連支配の樺太にも半年すんでいた主人公。
--ヒロシマのことを理解しているというソ連人たちだが、樺太のことは……。



樺太出身……。下「」引用。

「男は樺太に生れ育った。中学二年生の年に敗戦にあいソ連占領下で半年暮らして引揚げた。そして敗戦から数えて三九年たった一九八四年に樺太を主題として一冊の本を書いた。
 妻はしかし、樺太とはなんの関係もない。彼女は大分市の生まれであり、敗戦時にたまたま広島市にあって爆心地から一・三キロの近距離で被爆した。それから一四年たった一九五九年夏に彼は彼女に会い、求婚し、翌一九六○年に結婚したのだった。」

平和運動をするソ連人たち。下「」引用。

「世界平和評議会のソ連代表理事でもある国際派のユダヤ人作家は前年に夫妻で来日し、両原爆都市を訪ね、「長崎の雨」という詩を発表していた。夫妻はその際に贈られたミニサイズの鯉のぼりをベランダに飾り、そのとき以来の旧知の長崎被団協会会長をふくむ一行を迎えたろう。」

そして……。下「」引用。

「彼においてはすでにソ連占領下の樺太は大泊中学校にあたかもそのために引揚げとともに消滅した小数人のその学校が存在したかのように、それは存在していた。だから彼はソ連人わけてもクレムリンの要人に「広島・長崎はよく理解できます」などと言われると、忘れられていた樺太の無念が甦るのであった。」

『ヒロシマ--わが愛』について。下「」引用。

「彼はその後にフランスの女流作家マルグリット・デュラスの『ヒロシマ--わが愛』の存在を知り、その作品のうちに理解の手がかりを得ることとなっただろう。デュラスは「わたしはヒロシマにひとつの物語を対置した」と述べており、作品に展開されているのはヒロシマといまひとつの別の物語の二つから成る一編の複合的な物語である。
 平和運動の映画の撮影のために広島にきたフランス人の女優はそこで日本人の男性(被爆者ではない)と結ばれるだろう。彼女はそのヒロシマの恋人に一三年前のフランスは故郷の町ヌベールの少女時代の痛苦の体験を語るだろう。それは占領下でドイツ兵を恋人に持った一七歳の少女の物語である。解放後兵士は殺され、少女は罰として髪を刈られたたろう。」

ソ連側からの小説があるという。下「」引用。

「マーキシンの小説『サハリンの日本少女』は樺太の日本人が理不尽な目にあったことのソ連側からの証言である。日本人たちはリーハ(敵意、悪意、怨恨、怨念等々)を抱いて引揚げて行ったはずだと観察されており、作品はそれへの鎮魂のおもむきを持っている。そして注目すべきなのは主人公のロシア少年の父親の属するハバロフスクの部隊が、対日戦の開始時にドイツにあったことである。ソ連は日ソ中立条約によって裨益(ひえき)をうけていたことを示すものだからである。だがスターリンは断末魔の日本を攻撃し、南樺太と千島をソ連領とすることを欲した。ヒットラーに対する恨みを日本相手に晴らし、あわせて国民的人気を当て込んだのだといえよう。」

当時の広島のホテル……。下「」引用。

「あのころ広島でホテルらしいホテルといえば『ヒロシマ--わが愛』で舞台に使われたホテルニュー広島ぐらいなものだったようであり、彼と彼女は平和公園の一画、原爆資料館に近いそのホテルに泊まったろう。」

一九八四年刊行の『樺太よ遠く孤独な』(西田書店)に続く二番目の作品だそうです。

--樺太、ヒロシマ、そしてボッシュの子……。
これらの知識があると、さらによく理解できると思う……。

ボッシュの子 ナチス・ドイツ兵とフランス人との間に生まれて







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