磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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第二次世界大戦6 太平洋戦争II

2009年04月28日 | 読書日記など
『第二次世界大戦6 太平洋戦争II』
   江口朴郎・監修/吉田夏生・著/太平出版社1985年

人命の尊重など希薄だった日本……。
--ベトナム戦争とはずいぶん異なると思う……。
もちろん、ベトナム人は比較している……。



最初の「玉砕」……。下「」引用。

「山本長官戦死の直後、北太平洋のアリューシャン列島にたいする連合国軍の反攻がはじまった。日本軍は、ミッドウェー攻略作戦のとき、この列島のうちアッツ、キスカ両島を占領していた。
 連合国軍の反攻は、アッツ島からはじまった。四三年五月一二日、艦砲射撃と飛行機の爆撃がおこなわれたのち、アメリカの大軍が上陸した。山崎保代大佐の指揮するやく二、六○○○人の守備隊は、四倍以上の大軍を相手にたたかったが、やく二週間後の五月二九日、生きのこりの兵士やく一五○人がさいごの突撃をおこない、「玉砕」した。」

物資もなく……。下「」引用。

「政府は、四三年一一月に軍需省をもうけてこの事態をのりきろうとしたが、原料・資材の不足という現実を克服することはできなかった。
 政府が最優先をさせた軍需生産でさえこのありさまだったから、ほかの物資の生産は、もっとひどい状態にあった。とくに食糧などの国民の日常生活のための物資は、生活をおびやかすほど不足した。
 戦争のため農村の青年たちが戦場をおくられたため、農村の働き手は極端にすくなくなり、さらに工業の軍需化によって肥料・農機具もたりなくなったこともあって、農業の生産はどんどん減少した。
 外地からの食糧輸入も輸送の困難さからへり、国民は生命を維持することもむずかしい状態におちいった。」

あ号作戦
--決行を命じた。下「」引用。

「六月一五日、サイパン島に上陸したが、すでに日本の基地航空部隊は壊滅していた。
 これに対して、大本営は、「あ号作戦」の決行をめいじた。フィリピンのタウイタウイ泊地に待機していた第一機動部隊はマリアナ近海に出撃し、六月一九日、二○日の両日、日米の大機動部隊どうしの血戦がおこなわれた。」

「バンザイ突撃」は終結をしめすと冷静な米軍……。下「」引用。

「アメリカ軍は、ほとんど自殺行為ともいえる日本軍のさいごの突撃を「バンザイ突撃」とよび、戦いの終結をしるめやすにしていた。このいたましい「突撃」は、降伏して捕虜になることをゆるされなかった日本軍兵士が、さいごの力をふりしぼっておこなう悲惨な自殺行為だった。翌九日、アメリカ軍はサイパン占領を宣言した。」

「バンザイ・クリフ」は民間人の終結……。下「」引用。

「にげ場をうしなった老人、女性・子どもたちが、死をうらんだ。島の最北端の断崖からおおくの女性が身をなげて死んでいった。この光景をみたアメリカ軍の兵士たちは、その断崖(クリフ)を「バンザイ・クリフ」とか「スーサイド・クリフ」とよんだ。」

マニラでは……。下「」引用。

「四五年一月九日、リンガエン湾におしよせたマッカーサー軍をむかえた山下司令官は、海岸での決戦をさけ、山岳地帯にたてこもる持久戦で対抗したが、マニラ防衛隊の指揮官だった海軍の岩淵少将は、山下司令官の指令に反対して、マニラの市内で二万人の将兵とともに一か月にわたる市街戦をおこなったの「玉砕」した。このため、多数のマニラ市民がまきぞえになって死傷し、市街も徹底的に破壊された。」

正式に特攻を作戦として採用……。下「」引用。

「文字どおり絶望的な段階にはいったことをもっともはっきりとしめしたのは、神風(しんぷう)特別攻撃隊(神風(かみかぜ)特攻隊)の出現だった。爆弾をかかえたまま敵に体あたりするというこの攻撃方法は、以前にもときとぎおこなわれてはいたが、正式の戦術として採用されたのは、レイテの戦いからである。」

Index

日本だけが採用していたという……。下「」引用。

「このような戦術は、伝統的に人命をかろんじる思想のつよかった日本軍だけが採用できたのである。この狂気の戦術に直面した連合国軍の兵士たちは、「特攻機」を「自殺機」「カミカゼ」とよんでおそれた。」







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