『広島第一県女一年六組 森脇瑶子の日記』
森脇瑶子・著/細川浩史、亀井博・編/平和文化1996年
何十年もたった時、その生きている時の常識で語る。
--戦時中、平和を訴えることはできなかった……。
今も、平和を言わさないようにしようとする人たちはいる。
妹の日記と母……。下「」引用。
「瑶子が遺したこの日記を見ると、母が存命中(一九八○年死去)、ひとりでこれを読んでは悲しみに暮れていた姿を思い出します。そんな母を見るのがつらくて、あえて気がつかないふりをしていました。
私が長い間、この日記帳を開く気になれなかったのは、こわさ、せつなさを意識していたからです。」
テレビで取り上げられる。下「」引用。
「一九八八年八月、妹の日記が発端となって制作されたNHK特集「夏服の少女たち」で、被爆死した広島県立第一高等女学校一年生のことがとりあげられました。この番組がきっかけとなり、神奈川県横浜市の法政大学女子高等学校の亀井博先生との出会いがありました。
私はそれまで、自分が被爆したことや、妹の死を、ほとんど語ったことはありませんでした。それは、被爆者であることを隠していたのでも、語ることを拒んでいたのでもなく、ただ、思い出したくもふれられたくもなかったからです。」
夏服の少女たち
そして、毎年追悼式に出席するという……。下「」引用。
「亀井先生との出会いが、そんな私にある転機をもたらしました。被爆体験を語り、記録を残して伝承していくことが原爆に生き残ったものの務めであるこということはよくわかっていましたが、あえてそれを避けていた自分が悔やまれました。私は毎年八月六日、広島第一県女の原爆犠牲者追悼式に参列していますが、生き残って式典に出ていた親たちも高齢化がすすみ、年々その姿が少なくなっています。もっとも、一家全滅の生徒には、追悼式に参列する親さえもいないのです。」
そして、出版のすすめがあったという。下「」引用。
「そんなあるとき、妹の日記を手にとられた亀井先生から、「この貴重な記録をぜひ残さなければ……」、と出版のおすすめがありました。なにしろ、戦争末期の、物資の不足した時代の日記帳です。紙質は悪くインクは退色し、損傷もかなりすすんでいます。私は、もう猶予できないと思い、ワープロに向かいましたが、この作業は否応なく妹の日記を熟読せねばならず、私にとっては大変つらく、気の重いことでした。
しかしページがすすむにつれ、素直で可憐だった妹が私の前によみがえり、対話しているような懐かしい気持ちに変わってきたから不思議です。日記にはり、いまでもはっきり覚えていることがつぎつぎに出てきて、思わず胸が熱くなってきました。
また日記からは、一二、三歳の少女たちが、敗戦目前であったことも、残された命があとわずかであったことも知らず、最後まで日本の国を信じていたことがわかります。
そしてなによりも、短い青春の日々を、いつも明るく懸命に生きた様子がひしひしと伝わってきます。」
この実兄・細川浩史さんの文章どおりだと読んで思いました。
モノクロの写真などもありました……。
index
森脇瑶子・著/細川浩史、亀井博・編/平和文化1996年
何十年もたった時、その生きている時の常識で語る。
--戦時中、平和を訴えることはできなかった……。
今も、平和を言わさないようにしようとする人たちはいる。
妹の日記と母……。下「」引用。
「瑶子が遺したこの日記を見ると、母が存命中(一九八○年死去)、ひとりでこれを読んでは悲しみに暮れていた姿を思い出します。そんな母を見るのがつらくて、あえて気がつかないふりをしていました。
私が長い間、この日記帳を開く気になれなかったのは、こわさ、せつなさを意識していたからです。」
テレビで取り上げられる。下「」引用。
「一九八八年八月、妹の日記が発端となって制作されたNHK特集「夏服の少女たち」で、被爆死した広島県立第一高等女学校一年生のことがとりあげられました。この番組がきっかけとなり、神奈川県横浜市の法政大学女子高等学校の亀井博先生との出会いがありました。
私はそれまで、自分が被爆したことや、妹の死を、ほとんど語ったことはありませんでした。それは、被爆者であることを隠していたのでも、語ることを拒んでいたのでもなく、ただ、思い出したくもふれられたくもなかったからです。」
夏服の少女たち
そして、毎年追悼式に出席するという……。下「」引用。
「亀井先生との出会いが、そんな私にある転機をもたらしました。被爆体験を語り、記録を残して伝承していくことが原爆に生き残ったものの務めであるこということはよくわかっていましたが、あえてそれを避けていた自分が悔やまれました。私は毎年八月六日、広島第一県女の原爆犠牲者追悼式に参列していますが、生き残って式典に出ていた親たちも高齢化がすすみ、年々その姿が少なくなっています。もっとも、一家全滅の生徒には、追悼式に参列する親さえもいないのです。」
そして、出版のすすめがあったという。下「」引用。
「そんなあるとき、妹の日記を手にとられた亀井先生から、「この貴重な記録をぜひ残さなければ……」、と出版のおすすめがありました。なにしろ、戦争末期の、物資の不足した時代の日記帳です。紙質は悪くインクは退色し、損傷もかなりすすんでいます。私は、もう猶予できないと思い、ワープロに向かいましたが、この作業は否応なく妹の日記を熟読せねばならず、私にとっては大変つらく、気の重いことでした。
しかしページがすすむにつれ、素直で可憐だった妹が私の前によみがえり、対話しているような懐かしい気持ちに変わってきたから不思議です。日記にはり、いまでもはっきり覚えていることがつぎつぎに出てきて、思わず胸が熱くなってきました。
また日記からは、一二、三歳の少女たちが、敗戦目前であったことも、残された命があとわずかであったことも知らず、最後まで日本の国を信じていたことがわかります。
そしてなによりも、短い青春の日々を、いつも明るく懸命に生きた様子がひしひしと伝わってきます。」
この実兄・細川浩史さんの文章どおりだと読んで思いました。
モノクロの写真などもありました……。
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--被爆者でも、いろいろな人がいることを知って……。
やはり、苦しいことなどを大切にされている方はエライなあーとボクは今、強く思っています。
弱いボクなんで、つらいんですけど……。
細川さん。
思い出したくないようなこと、伝えたいこと、いろいろと話して下さりありがとうございました!
悲しいですよね・・・。
森脇さんの日記はかなり印象的でした。