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戦争と子どもたち-写真・絵画集成-3 戦時下の暮らし

2009年05月20日 | 読書日記など
『戦争と子どもたち-写真・絵画集成-3 戦時下の暮らし』
   早乙女勝元、土岐島雄・編/日本図書センター1994年

暮らしも戦時一色という感じです。
でも、ヨーヨーブームはそうではないような気がします。



グリコのおまけ……。下「」引用。

「1935年(昭和10)-42年(昭和17)のもの。日の丸の左は「満州国」の国旗。「グリコ」は1935年から満州国の奉天工場でも生産をはじめた。中国大陸でも“おまけつきグリコ”は子どもたちの人気の的だった。」

1933年、ヨーヨーブームで、子どもたちは街で楽しむ。

「服装にも軍事色」
「日中戦争開始翌年の七五三(1938年〈昭和13〉11月16日)。」という写真では、軍服を子どもが着ている。

「子どもの遊びにも戦時色が……」 下「」引用。

「-略-1941(昭和16)年12月、太平洋戦争勃発とともに、その敵軍はもっぱら青い目をした米英とり、路地裏の戦争ごっこの主力は「艦長遊び」(別名は水雷艦長)となった。「カイセン・ドン」の掛声を合図に、どぶ板を踏んで、軒の重なり合ったせまい路地を走り回わる。男の子を主にしたスリルな遊びだった。
 たった一人になっても、勇敢に敵陣地へ攻めよといって艦長をつかまえる「大和魂」こそ、米英撃滅のど根性であり、パワーとされたのだった。」

今でも、こんな遊びをしているとは……。
--もっと、いっぱい、いろんな遊びがあるだろうに……。

放送を退いた人もいたという……。下「」引用。

「ラジオ「子供の新聞」(1932年〈昭和7〉6月1日から放送開始)で「村岡のおばさん」と人気を博した童話家・村岡花子。太平洋戦争開戦で放送を退いた。」

童話家というのは何でしょうね?
--たぶん童話作家でしょうね……。

「少国民文化のすすめ」
「日本少国民文化協定の制定した「愛国イロハカルタ」(1943年〈昭和18〉12月)。」

「コドモ隣組の活動も盛んに」 下「」引用。

「1941(昭和16)年7月、内務省の指示により、全国津々浦々にまで張りめぐらせた国民組織の隣組が、いよいよ具体的に指導した。-略-5、6人が1分団となって、その名も「コドモ隣組」だ。大人たち同様に常会を開いて、毎月なにをするかを決めるが、村の場合だと、戦死者の家や出征兵士宅への稲刈りなどの手伝いが多い。国策に沿った活動が中心で、「英霊」の墓清掃から、兵士への慰問袋や慰問文を書いたりもする。
 それらが、一人ひとりの自発的な意志でおこなわれならまだしも、コドモ隣組で決めたことだからと押しつけられたのでは、善行も鼻につき、表に現われにくい弊害も出よう。病弱な子や、都合のつかぬ子は、周囲からとかく白い目で見られがちになるからだ。-略-」

「「ぜいたくは敵だ」から「一億玉砕へ」」 下「」引用。

「戦時中くらい、町のあちこちに、やたらと標語が目についた時はない。
 その年ごとに意識的に流行語とされた標語を見ていくと、一般国民のみならず、好奇心だらけの子供たちにも、大きな影響を与えたことがわかる。-略-
 そして翌45(昭和20)年になると、「神州不滅」「1億玉砕」となった。玉砕とは全滅のことだったが、戦争に負けて生き残れるという発想はどこにもなかった。先生が黒板に「人生25年」と大書きしたのをよく覚えているが、どうも25年までは生きられそうもないな、と心秘かにつぶやいた子どももいたはずである。」

千人針の写真。
「東京・銀座で千人針を縫う女性(1937年(昭和12)7月)。」

千人力の写真。
「千人力。男が一筆一力をした(1938年〈昭和13〉)。」








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