磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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平安京を彩る神と仏の里 吉田探訪誌

2011年01月02日 | 読書日記など
『平安京を彩る神と仏の里 吉田探訪誌』
   鈴鹿隆男・編著/ナカニシヤ出版2000年

吉田神社のことを調べていて、メモを28頁とってしまった本です。
もちろん、書かれてあるのは、吉田神社のことばかりではありません。



歴史……。下「」引用。

「要するに、誰もが接する事が出来ない人々が、絶対の崇め祀る神々から直接に言葉を聞ける特別な人、神祇官への信頼と期待は朝廷のみならず、一般人にとってはそれ以上に頼りがいのある有り難い人物と思われ敬われたに相違ない。このような意味において、吉田社の卜部(うらべ)(吉田)・中臣両家が代々朝廷に重んぜられ、武士の統領から信頼依存されたのも単に英才・学識者が輩出した事のみの理由でなく、むしろ呪術にたけ、亀卜によって家系を立てる家柄と、博識の実力と融合同化された儒・仏・道の教えとが神々の威光と共に、当時としては一歩も二歩も時代を先んじる予言者的カリスマ性を生み、唯一信用出来る心の支えとしての実感を呼んだのではないかと私は考えるのである。それが証拠に制度上でも神祇官は太政官より上位である事は、当時のものの考え方を示すものであり、神の心と直接と関わり合える唯一の尊い存在は、特に台頭して来た武士達にも強く浸透しており、侵しがたい存在との橋渡し、仲立ちの以来され果たしている事からも想像出来る。こうした概念を知識として持ちながら時代の流れに乗り、明治維新を経て今日に至る吉田の歴史を見つめるならば、よりいっそう明確にそこに織り成される人間像と共に、現在の吉田と千年の都であった時代との存在感の相違を発見出来るであろうと考える。」

紀元1000年、当時は世界五位の人口の都市。

応仁の乱のころが頂点。下「」引用。

「吉田の地は吉田神社が官祭宮になった頃から応仁の乱までが、最も賑わいを見せた時期ではなかったかと推測される。時の権勢藤原氏の氏神として朝野の尊敬を受け、参拝する姫君達のひしめく有様等記録にも見え、ことに吉田祭の盛大な執行風景は数多くの文書に現われその賑わいを彷彿とさせる。さらに吉田の地を選んで別業や寺院が続々と建立されて、人々の憧れの地であった事が伺い知られる。当時としては人口も集中して注目される集落を形成していたのではなかろうか。」

藤原山蔭卿。下「」引用。

「藤原山蔭卿という人は誠に不思議な人である。人間一つを事を成せば、大方はそれに集約して人柄が語られるものであるが、山蔭卿は誠に多種多芸であったと共に、いささかカリスマ性を持った人格者であったと考えられる。それが故に山蔭卿の名はいろいろな所に、主人公であったりして散見される。何よりも、吉田神社の創建は偉業であるが、その時山蔭卿は若干三十六歳。また、心は純粋にして孝心深く、父と同様に長谷観音には特別な信仰を持ち、父の所願を継ぎ唐より霊木を得て、長谷観音の悪夢により刻まれた千手観音像を本尊として、霊感の示す所に補陀落山総持寺を建立した。(総持寺……茨木市総持寺一丁目)。
 さらに、総持寺建立の後、その本尊が出現した自宅を仏閣として、新長谷寺と命名、自らの彫刻の才能を揮って、長谷観音を模刻して本尊とし安置した。-略-」
 
料理の神様、山蔭(以下、中沢正著『包丁人の生活』より)。

--吉田社権威の事績。歴史できいた名が幾人もでてくる……。

神仏習合と神宮寺。下「」引用。

「朝廷貴族の厚い信仰の助力や仏教普及に伴う僧達の努力を背景に、当時の人々のより強固な精神的支柱となったものは、神仏習合の理論であった。神社に仏を祀る寺院ができ、寺院に守護神を祀る神社が建ち、一緒に在ることが当然と容認された。天平神護二年(七六六・女帝称徳天皇・・道鏡が法王になった年)七月丈六の仏像を伊勢大神宮寺に造ったのを初めとして、諸国の大社には神宮寺、寺院には守護神を祀る神社が次々と建立されていった。
 吉田神社もその例に漏れず、その境内に山蔭が新長谷寺を建て、やがてその数は六か寺と至った。
 -略-」

ぼくの住んでいた東洋山荘関連のことも出てくる……。

吉田兼倶と吉田神道の確立。
兼倶卿を祀る神龍社(かみたつしや)(※神龍院は諡号)

雑煮について……。下「」引用。

「今日では正月に「雑煮」を祝う事は通常の行事であるが、この「雑煮」という言葉が日本で初めて使われ、文献に現われたのが『鈴鹿家記』である。
 南北朝時代の貞治三年(一三六四)正月二日の頃、斎場所へ主君以下参社祭事の後、「雑煮御酒被下」とあるのが日本最初の記録である。現在は土地によって様々な雑煮がみられるが、当時の雑煮はいろいろな高価なものが入りなかなかの御馳走であったと想像される。もともと「雑煮」は「ほうぞう」とも言い、いろいろな物を混ぜたもので元来は必ずしも元旦の物とは限られず、正月三が日に必ず作る風習が生まれたのは室町末期であろうと言われている。また、これは中国から伝わった「歯固・はがため」の行事(延年固齢の食事)が次第に変遷して「雑煮」となり、民間の正月祝いの行事になったと言われている。そしてまた、神仏に感謝を表す「直会・なおらい」と同じ考え方で神仏の敬虔な人間の神聖な儀式とも言われている。
 以上の如く、「雑煮」の言葉は吉田神社から生まれ、「鈴鹿家記」によって日本に初めて登場したことばである。この事について、NHK総合テレビでは平成十年一月三日、四日の両日に「新春なぞ解き歳時記」と題して乾の鈴鹿家に残る万延元年(一八六○)に改められものではあったが、同家の新春・雑煮の様子が全国に放映された。これも吉田社の事績の一つとも言えよう。」

明治……。下「」引用。

「明治新政府の王政復古の大方針を喚起し、その思想的役割に大きく寄与した国学者平田学派の祖である篤胤は、何かにつけて吉田兼倶の神道の周囲をうろつき、学ぶものは学び、その神道の純粋において貶しもしたが、吉田神道の精神は、平田派国学者達の理念の先達の役目を果たした事は紛れもない事実である。
 吉田神道は、日本古来の神ながらの道を宗源として、日本に伝来したキリスト教を除くほとんどすべての宗教的思想、人生観を網羅し自家薬籠の物として思想体系を確立した。即ち仏・儒・道等を習合したものである。当然、明治維新の純粋な神道国粋主義の唱導に合うべきものではなかった。その点、大元宮を根本道場として息づいて来た教義は不問とし、当時としては新政府との折衝が大変であった事は、江戸期の大元宮を根本道場として息づいて来た教義は不問とし、当時としては新政府との折衝が大変であった事は、江戸期の大元宮の壮大な規模が今日の如くに縮小されたのをみても推察できるが、この大変革によって吉田神社は室町以前の春日神を主体とする本来の神社体系に戻り、社地も前述の如く大きく縮小され内実を一変して新しい吉田神社官幣中社が誕生したのである。」






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