磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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写真・絵画集成 学童疎開 1親もとをはなれて』

2007年03月18日 | 読書日記など
『写真・絵画集成 学童疎開 1親もとをはなれて』
   逸見勝亭(監修・解説)/日本図書センター2003年

この表紙の子どもたちの笑顔……。今の子どもたちと比較して、幸せだったのかも……。ふとそんなことを一瞬思いました。



表紙の写真についての説明。下「」引用。

「1944年8月、疎開先の埼玉県北葛飾(かつしか)郡栗橋町の浄信寺で(神田区芳林国民学校5年生)。18畳の部屋に26人が寝ていた。」


教科書の間違い? と最初は思いました。下「」引用。

「既に読んだかもしれないし、これから読むかもしれない社会科の教科書『新編 新しい社会』6上(東京書籍)には、「空しゅうをさけるため、親のもとをはなれ、地方へそかいしました。また、食事はごはんとみそ汁が多く、おかずはほとんどありませんでした」とある。」


『ごはんとみそ汁が多く』
これを読んで多くはないでしょうと思いました。
食料難の時代です。
考えてみれば、これは回数の問題でしょうね。

このことを読んで、今は朝食ぬきの子どもが多いときく。
今の子どもたちのことも考えてしまう……。

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最初は縁故疎開を政府は奨励していたようです。
1944年4月1日まで、東京都の国民学校初等科1〜6年総数約80万6000人。
そのうち、7万5000人が縁故疎開。
東京都の疎開希望者は12%。

そこで政府は「足手まとい」を疎開させるために、四○万人学童疎開計画をたてる。下「」引用。

「 内務省は、一九四四年四月二日、内務省防空総本部長以下関係課長、警視庁関係官、東京都疎開担当者、同教育局第一教育課長らを集め、家屋取壊しが一段落する八月から実施する東京都の学童集団疎開案をほしめした。内務省は文部省とは別に協議するとしており、文部省関係者は参加していない。」


「可愛いわが子を修行に出す気」という新聞のコラムがありました。


風呂一つとっても大変です。
はじめのころは、数人に分かれ、近くの農家に風呂に入りにいったという。
農家では食物を出してもくれたという。

お寺では五右衛門風呂。

数ヵ月後、大工さんが風呂をくつり、五日に一回入浴。
たきぎ拾いに出たという。
うるしの木をひろって、かぶれたという。









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