磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

集英社新書0502 公平・無料・国営を貫く英国の医療改革

2009年08月09日 | 読書日記など
『集英社新書0502 公平・無料・国営を貫く英国の医療改革』
   武内和久、竹之下泰志・著/集英社2009年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「無料で公平な医療を全国民に--この理想を掲げて一九八一年、英国の医療システム(NHS)は誕生した。以来国民はこの制度を誇りにしてきたが、九○年代には患者の手術待ちが数カ月に及ぶなとぜ、種々の問題が表面化して崩壊の危機に陥った。この事態に果敢に立ち向かい、二○○一年から一○年計画で劇的な改革へと導いたのがブレア以降の労働党政権である。効率化と患者中心の医療の実現など、英国の医療改革の全貌を紹介するとともに、やはり医療の崩壊が叫ばれて久しい日本の制度改革へ向けた具体策を提言する。」



日本と類似点があるという。下「」引用。

「第三に、英国と日本の医療システムに類似点がある。国営の税法式で運営されるNHSと国民皆保険の日本の医療保険制度は、制度の構造こそ違うものの、その普遍性と包括性において同じ精神をもっている。また、先進国の中で、最も医療費が低い水準にあり、ある意味で効率的で統制の利いたシステムであるという面でも同様である。この意味で、日本の医療システムとの共通点も多い英国で、どのような医療政策が展開されているのか、それを追うことは価値がある。」

出産費も無料。一部負担あり。下「」引用。

「NHSの治療費は原則無料。日本では保険でカバーされない出産も無料。ただし、外来処方薬(一処方当たり七・一○ポンド : 一○○○程度〔一ポンド=一五○円で換算、以下同じ〕)、伝統的に自己責任のセカイと考えられてきた眼科治療(試料検査で約四○○○円)と歯科治療(治療内容によって一六・二~一九八ポンド : 二五○○円~三万円程度)には一部負担がある。なお、これらは、高齢者や低所得者に対する減免制度があり、経済力がない人々には実質的に無料となっていることも多い。」

患者教育のテーマ。下「」引用。

「「コンビニ受診(臨床的なニーズがないのに安易に医師の診察を受ける)」もあるが、明確によくないこととして位置づけられ、患者教育のテーマになっている。」

ウェブサイトも有意義なようである……。下「」引用。

「「急性期病院。郵便番号 SW1 3DD」。NHSダイレクトというウェブサイト(NHS Direct http://www.nhsdirect.nhs.uk/)から、希望の医療機関の種類と自分の郵便番号を入力すれば、地域の医療機関の一覧が表示される。そして、その病院名をクリックすれば、病院のプロフィール、診療時間・診療科だけでなく、病院の評価が表示される仕組みだ。-略-」






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よき日えの軌跡

2009年08月09日 | 読書日記など
『よき日えの軌跡』
   磯本恒信・著/長崎県部落史研究所・編/
     長崎県部落史研究所1985年

差別している人たちには苦にはならないというのが古今東西かわらないことですね……。



著者はに生れたという……。下「」引用。

「私が生れた育った浦上は、小高い丘の上にある。平坦地の浦上駅から見ると、崖の上にこんもりと巨人のように楠の木が一本そそりたち、その下に、家々が身を寄せ合うように、二百六十世帯かつてあった。さらにこののむこうに段々畑が金比羅産にむけてせりあがり夕陽に映え輝いていた。-略-」

歴史が書かれてある……。

「差別」それは、権力者の手によってつくられた。下「」引用。

「の起源というのは、この長崎の島原の乱の結末をみても、住民支配のために権力者の手によって作られていく不合理極まりない遺物であることが、これらのの形成をみても明確に出てくるのである。」

部落史……。下「」引用。

「長崎の部落史を研究してみると、の形成や利用など全国のに先がけて、が作られ、そして利用され、試され、江戸幕府が全国に広めていったことがうかがわれる。」

五代将軍……。下「」引用。

「-略-一六九八年(元禄十一年)五代将軍綱吉時代の元禄ごろから、「えた」「」の賎民に対する身分的拘禁、制度が強まってくる。-略-」

著者は差別されるのがイヤで中国の青島学院に入学。
日本人10名、あとは280人の中国人。八路軍へ……。下「」引用。

「この頃中国では、失徳将軍を総司令とする八路軍の積極的な抗日戦というものがおこっていた時でした。その八路軍に、私は先生と一緒に参加をいたしたわけであります。」

帰国し、原爆孤児となったという……。下「」引用。

「の人たちは、帰るにも帰れない。私も弟と妹をかかえながら、に帰りたくとも帰れなかったんです。原爆孤児として、長崎県内をさまよい歩きました。生き残った人たちは、大阪に福岡に、長崎市内に、それぞれ点在して生活の場を求めました。「流浪の足袋」とでもいえましょうか。原爆は、人を殺し、家を焼きつくし、土地すら奪いつくしました。」

差別行政……。下「」引用。

「一九四九年八月九日には、長崎国際文化都市建設法が施行され、被爆地域の復興が始まった。
 長崎の被差別は、戦後の復興計画のなかでもう一度ふみにじられていく。行政は積極的にの壊滅をとり入れ、それをよしとする差別行政がすすめられていった。-略-」

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「差別事件」があったという……。下「」引用。

「行政は「長崎にははない」と公言し、自ら差別事件を起こした。「開港四百年記念祭の古地図事件」であった。」

その事件を追及した著者。下「」引用。

「長崎市は、開港四○○年を記念して、市の主催で行事を行いました。市はこのとき、『長崎の歴史』と『長崎の図鑑』とを出版し、記念行事に招待した人たちに、配布したり販売したんです。ところがこの中に、被差別に対する差別的な「エタ・」という文字がかかれた地図が発見され、しかも、市長が経営していた市内のキャバレーの、一周年記念品の包み紙にも、その古地図が使われるという事態がおこりました。私は、これを追及しました。」

「民宣言」をした著者、朝日新聞の記事になる。
家族もつらい思いをされたようだ……。下「」引用。

「それから一週間、私は毎晩おばあちゃんの家で、息子と夜遅くまで話しました。の歴史や、民に対する予断と偏見がいかにまちがいであるか、戦争や原爆で、私の母や姉、兄弟が、どんなに苦しい生きざまをしてきたか、お互いに学習しあいました。一週間目、息子は、
「おとうさん、よくわかった。もうぼくは、問題から逃げないよ。しっかり勉強するよ。これから一切逃げないよ」
と泣きながら答えてくれ、久しぶりに親子が肩を抱き合いながら、わが家に帰ることができたのです。」

「被差別はない」といわれてきた長崎に1973年12月10日解放同盟ができたという。

マーシャル諸島の核実験被害などについても書かれてありました。







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ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」

2009年08月09日 | 読書日記など
『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』
   高瀬毅・著/平凡社2009年

「原爆ドーム」は原爆ドームと思うのですが……。

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--前をむいて、生きてもらいたい!
平和とは現在と未来のためにある……。




著者の母との思い出があるという……。下「」引用。

「九州の西の端にある都市を狙った原爆の投下目標地点は、繁華街にほど近い橋。その日、その時、母がいたのは目標から三百数十メートルの距離にあったビルの中。狙い通りに原爆が落されていたら即死だった。ものすごい爆風と熱線でひとかけらの骨も残さず、地上から消えていたはずだ。
 だが、原爆はそこには落されてなかった。爆発したのは目標から北へ三・四キロの地点。地上五百メートルの上空。
 そこは、母がいつも、「僕」をつれていった景色のいい、坂のある、教会のある、あの町。」

そして著者が生れた。下「」引用。

「私が生れたのは一九五五年。被爆からちょうど十年目の年である。
 通っていた高校は、爆心地公園から歩いて十分ほどのところにあるカトリック系の男子校だった。」

テレビ番組のことが書かれてあった……。下「」引用。

「三年ほど前、地元、NBC長崎放送の友人、仁田豊文氏が、一本のビデオを私に貸してくれた。それは長崎放送が制作した『神と原爆』というドキュメンタリーだった。被爆から五十五年目にあたる二○○○年に放送されたものである。
 その中に浦上天主堂について取材した話が紹介されていた。
 番組によれば、その天主堂がかつて原爆によって破壊され、戦後しばらくのあいだ、廃墟となった壁の一部と石像が残されていたという。そして、その保存をめぐって、ミステリアスな出来事であったことを伝えるものだった。」

『神と原爆』は、ネットであるんですが、無料といいながら、期間がすぎると有料となるような契約方式のようだ……。

原爆資料保存委員会があったという……。下「」引用。

「原爆によって廃墟となっていた天主堂をどうするのか。長崎市の原爆資料保存委員会は、歴史を後世に伝えるため残すべきであると結論づけていた。委員会は市長の諮問機関で、市長も同意し、廃墟の保存にな向けて具体的な方策を指示していた形跡があった。-略-」

永井隆と山田かんのことが書かれてあった。
--永井隆にしろ、山田かんにしろ、彼らなりに、前を向いて行動してくれただろうに……。

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--そんなに大切なら、再建してはどうか? ナチスに破壊された街を寸分たがわぬように再建したという……。そういこともあるのだから……。

よみがえる街 未来への懸け橋 ポーランド・ワルシャワ

だけど、そこまでは考えていないのかもしれない……。

反共的なカトリックと書かれてあるが、反宗教はマルクス主義が先というのが世界史では……。

残したかった市長、神父、信者……。

アメリカだけだったのだろうか?

原爆ドームをもなくそうとする日本の政治家がいたというのに……。

長崎にはいなかったように書かれてあるのが不思議だ……。

天主堂再建も企業がやったのではないか? それまでの天主堂は信者が作ったというのに……。

この著者なら、続編などが書かれることだろう……。








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日本の民話えほん もくべえのうなぎのぼり

2009年08月09日 | 読書日記など
『日本の民話えほん もくべえのうなぎのぼり』
   さねとうあきら・文/
     いのうえようすけ・画/教育画劇2003年

落語の世界のお笑い……。
--そんな感じの絵本でした。



図書館の説明文。下「」引用。

「うなぎをつかまえようとしたもくべえ。にゅるにゅる逃げるうなぎを追いかけるうち、いつのまにか天の上へとたどりつく。そこで出会ったのは、なんとかみなりさまだった…。」






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童心社の絵本14 八つくびのおろち

2009年08月09日 | 読書日記など
『童心社の絵本14 八つくびのおろち』
   さねとうあきら・文/関屋敏隆・絵/童心社1981年

むかしの美濃の話の絵本のようです。



一番うしろのページに書かれてあります。

「土と人形の祭り」さねとうあきら・著。下「」引用。

「この絵本をつくりあげたのは、文字どおり関屋敏隆君で、わたしはほんの手助けをしたにすぎません。もともと大の旅行好きで、日本国じゅうめぐりあるいていた関屋君が、岐阜県の大矢田神社に伝わる奇祭--ヒンココ祭り(貧子子祭り)にめぐりあったのは、ずいぶんむかしのことときいています。毎年四月十五日の例祭日になると、彼はわざわざ美濃の山奥へ足を運び、あきもしないで「取材」に熱中していました。-略-
 東京に帰る車中、関屋君と語らいながら、『八つくびのおろち』の骨格はできあがっていました。これは大矢田神社に伝わるヒンココ祭りの縁起とは一応関係のないことをおことわりしておきますが、こういう創作性にかかった作品構成をとった方が、われわれの「内なるヒンココ祭り」を表現できるのではないかと、いみじく意見が一致したのです。-略-
 この絵本の原画を、イタリアのボローニア国際児童図書展・絵本原画展に出品し、みごと入選しました。考えてみれば、関屋君自身が「神話」の主人公を演じていたわけで、わたしにとっも忘れることのできない絵本になりました。」







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