NHK2007年5月2日
探検ロマン世界遺産
よみがえる街 未来への懸け橋
ポーランド・ワルシャワ
フレデリック・ショパンの心臓は故郷にと遺言。
それがワルシャワ。
街が生まれて700年。
積み重ねられた建築。
北のパリといわれたワルシャワ。
かつて、この街の風景が一転されたことが。
ナチス・ドイツによる徹底的な破壊。
精密に街を復元。今も続く修復……。
新しい部分と、古い部分(戦災で残ったもの)があるという。
建物は破壊されても地下室は残ったという。
戦中、地下室を通って、建物から建物へ逃げていたという。
1939年、ナチス・ドイツ侵攻。
ドイツとソ連があらそう戦場となったワルシャワ。
街を去るとき、徹底的に街を破壊していく。
なぜ、精密に復元することができたのか?
その謎をとく鍵は、ワルシャワ工科大学・建築学部に。
3万5千枚の図面があり、復元の時の設計図として使用できた。
装飾品などは、原寸大の設計図もあり、数値も書かれている。
戦前、多くの文化遺産が失われることが予想され、建物のひび一本まで忠実に絵が書かれていたという。
学生が銃弾とびかうなかをスケッチ。そのスケッチは教会の柩などに入れ隠された。
壁のひび一本までの復興。
侵略と破壊をこえた文化と伝統の復元。
【ワルシャワ蜂起(ほうき)博物館】
・ワルシャワ放棄 1944・8・1~10・2
大人も子どもも立ち上がった。
殺戮などをスケッチして新聞をだしたものもいた。
腕章をつけて闘った。
ヒトラーによる街の破壊命令。
民族がつくりあげた文化への破壊と心にした。
17歳でナチスと戦った高齢の方。
日本人の質問「こわくなかったですか?」
高齢の方「愚か者だけが怖くないと言うのです」
少年たちは連絡係や物資の輸送をした。
少年たち40人のうち、戦後会えたのはわずか2人。
連行され、教会で選別。強制収容所へ。
ドイツのダッハウへ送られ解放された時の体重は29キロ。
墓標のない墓へ。
犠牲者をぬきに語ることはできないという。
終戦から2年後、故郷ワルシャワへ。
生き残った市民の新たな戦い!
--それが街の復興。
文化と歴史をとりもどすために……。
王宮は人々の誇りであったという。
民族の自由と独立の象徴と呼ばれているという。
ヨーロッパ初の民主主義をうたった成文憲法(旧ポーランド憲法1791・5・3)は、この王宮の“五月三日の間”で採択されたという。
主権は国民、三権分立。
(復興のための)図面をひくことを推進したのは、ヤン・ ザフファトビッチ ワルシャワ工科大学教授。
旧王宮資料室には、教授が残した膨大な資料があるという。
教授は危険な市街地を歩き回ったという。
ナチスによる街の破壊状況もスケッチしていた。
レプリカなど価値がないという者もいたが、教授は「これは意図と目的をもって破壊されたものだ。だから、私たちも意図と目的をもって復興するのだ」。
新しいソビエト主義の街につくりかえようとする人たちとの、教授は対立。
旧市街の復興を職人たちと、実力行使し、一晩で一部を復興させたという。
最後に残ったのは、王宮だったという。
社会主義の政権は、王宮を復興させなかった。
王宮を復興させることは、社会主義でない歴史があったことを教えることになるという。
募金で復興されたという。
1988年、旧王宮復興完成。翌年、ベルリンの壁の崩壊。
復興の意味「歴史は消えることはないという為に……」
【映画・地下水道】
・アンジェイ・ワイダ・監督。
ワイダの世界
今も映画作成中。復興された教会で撮影。
共産主義時代はタブーだった。
【カチンの森の事件】
1940年、ソビエト西部の森。
捕虜のポーランド将校が殺された。
それはドイツ軍に装ったソ連軍だった。
その将校の中に、ワイダ監督の父も。
【過去】を【未来】につなぐ仕事……。
ワルシャワ旧市街の復興により、価値が生まれた……。
レプリカ……というよりも文化としてのホンモノですね。
文化が大切だと強く思いました。
1 ポーランド、ドイツ
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探検ロマン世界遺産
ポーランド・ワルシャワ
フレデリック・ショパンの心臓は故郷にと遺言。
それがワルシャワ。
街が生まれて700年。
積み重ねられた建築。
北のパリといわれたワルシャワ。
かつて、この街の風景が一転されたことが。
ナチス・ドイツによる徹底的な破壊。
精密に街を復元。今も続く修復……。
新しい部分と、古い部分(戦災で残ったもの)があるという。
建物は破壊されても地下室は残ったという。
戦中、地下室を通って、建物から建物へ逃げていたという。
1939年、ナチス・ドイツ侵攻。
ドイツとソ連があらそう戦場となったワルシャワ。
街を去るとき、徹底的に街を破壊していく。
なぜ、精密に復元することができたのか?
その謎をとく鍵は、ワルシャワ工科大学・建築学部に。
3万5千枚の図面があり、復元の時の設計図として使用できた。
装飾品などは、原寸大の設計図もあり、数値も書かれている。
戦前、多くの文化遺産が失われることが予想され、建物のひび一本まで忠実に絵が書かれていたという。
学生が銃弾とびかうなかをスケッチ。そのスケッチは教会の柩などに入れ隠された。
壁のひび一本までの復興。
侵略と破壊をこえた文化と伝統の復元。
【ワルシャワ蜂起(ほうき)博物館】
・ワルシャワ放棄 1944・8・1~10・2
大人も子どもも立ち上がった。
殺戮などをスケッチして新聞をだしたものもいた。
腕章をつけて闘った。
ヒトラーによる街の破壊命令。
民族がつくりあげた文化への破壊と心にした。
17歳でナチスと戦った高齢の方。
日本人の質問「こわくなかったですか?」
高齢の方「愚か者だけが怖くないと言うのです」
少年たちは連絡係や物資の輸送をした。
少年たち40人のうち、戦後会えたのはわずか2人。
連行され、教会で選別。強制収容所へ。
ドイツのダッハウへ送られ解放された時の体重は29キロ。
墓標のない墓へ。
犠牲者をぬきに語ることはできないという。
終戦から2年後、故郷ワルシャワへ。
生き残った市民の新たな戦い!
--それが街の復興。
文化と歴史をとりもどすために……。
王宮は人々の誇りであったという。
民族の自由と独立の象徴と呼ばれているという。
ヨーロッパ初の民主主義をうたった成文憲法(旧ポーランド憲法1791・5・3)は、この王宮の“五月三日の間”で採択されたという。
主権は国民、三権分立。
(復興のための)図面をひくことを推進したのは、ヤン・ ザフファトビッチ ワルシャワ工科大学教授。
旧王宮資料室には、教授が残した膨大な資料があるという。
教授は危険な市街地を歩き回ったという。
ナチスによる街の破壊状況もスケッチしていた。
レプリカなど価値がないという者もいたが、教授は「これは意図と目的をもって破壊されたものだ。だから、私たちも意図と目的をもって復興するのだ」。
新しいソビエト主義の街につくりかえようとする人たちとの、教授は対立。
旧市街の復興を職人たちと、実力行使し、一晩で一部を復興させたという。
最後に残ったのは、王宮だったという。
社会主義の政権は、王宮を復興させなかった。
王宮を復興させることは、社会主義でない歴史があったことを教えることになるという。
募金で復興されたという。
1988年、旧王宮復興完成。翌年、ベルリンの壁の崩壊。
復興の意味「歴史は消えることはないという為に……」
【映画・地下水道】
・アンジェイ・ワイダ・監督。
ワイダの世界
今も映画作成中。復興された教会で撮影。
共産主義時代はタブーだった。
【カチンの森の事件】
1940年、ソビエト西部の森。
捕虜のポーランド将校が殺された。
それはドイツ軍に装ったソ連軍だった。
その将校の中に、ワイダ監督の父も。
【過去】を【未来】につなぐ仕事……。
ワルシャワ旧市街の復興により、価値が生まれた……。
レプリカ……というよりも文化としてのホンモノですね。
文化が大切だと強く思いました。
1 ポーランド、ドイツ
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