磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

ふるさとは一瞬に消えた 長崎・浦上町の被爆といま

2007年12月11日 | 読書日記など
『ふるさとは一瞬に消えた
    長崎・浦上町の被爆といま』
      長崎県部落史研究所・編/解放出版社1995年

平和学の本のなかで、直接的暴力と構造的暴力というのが書かれていました。長崎にも構造的暴力が……。



最初の文章です。下「」引用。

「たった一発の原爆、それは、あまりにも恐ろしいものであった。たった一発で被差別浦上町は完全に消滅した。きっとこれからも、ウラカミはもう二度と再生することはないと思った。でも、ウラカミの者「町内のもん」の魂はいつまでも生きつづけていくであろう。被爆後、長崎に残った人たちは「長崎郷土親興会」を作り、大阪では「親友会」が組織された。また、全国に散在したの仲間たちに「原爆犠牲者慰霊塔」と「涙痕の碑」の建設を呼びかけた。」


ナガサキの構造的暴力がいつ作り出されたのか?
それは、江戸時代。徳川幕府が作り出したようです。下「」引用。

「島原の乱以後の戦後処理のなかで、生き残った人たちを被差別に形成していくのである。
 の起源というのは、長崎やこの島原の乱の結末を見ても、住民支配のために権力者の手によって作られていく不合理極まりない遺物であることが、これらの形成を見ても明確に出てくるのである。」


そして、幕末には、被差別者同士の血で血を洗う醜い争いがあったそうです。

この本ではありませんが、律令体制がつくられたとき、差別は生まれたという人もいますね。

帰化人である天皇家が、律令制度をつくり、元から日本に住んでいた人たちが、その体制に組み込まれるのをきらったので、差別がつくられたという人もいます。

原爆を投下された長崎。
の復興は遅かったという。

多くの人が、全国各地に散ったという。

『石碑』をつくることで、全国各地から集まってくるという。


の方で、成績はよくっても、ということで就職差別された方がおられたようです。

長崎医大はということで差別することはなく、在学されていたそうですが、被爆されて学業断念。


平和のためにも、構造的差別をなくしていきたいですね。

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【関連サイト】
長崎人権研究所





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広島 爆心地中島

2007年12月11日 | 読書日記など
『広島 爆心地中島』
  原爆遺跡保存運動懇談会・編/新日本出版社2006年

NHKの番組で、再現がありました。コンピューターグラフィックで表現してありました。この本の視点は庶民の生活ではなかったのが、私個人としては少しがっかりでした……。



帯に書かれてあります。下「」引用。

「平和記念公園は、広島一の繁華街だった。
知っていてほしい、原爆が落とされたとき、たくさんの人がそこに生きていた。爆心地になった町のそのときを再現する記録集。」

どんな繁華街だったのか?
当時のお店のことや、その人たちなどのこと……。
--ボクは知りたいと思いました……。

この本は二冊の本をあわせたもだという。
・『爆心地 中島 -あの日、あのとき-』「元大正呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会(略称 : 保存懇)編(2005年七月刊)
・『慟哭の悲劇はなぜ起こったのか -その明暗を分けたもの-』建物疎開動員学徒の原爆被災を記録する会(2004年刊・2005年三月改訂)

レストハウス』についての記載は一カ所ではありませんでした。
・中島で現存する唯一の被爆建物だという。
・1929年、元安橋西詰めに大正呉服店(現レストハウス)が建てられる。
・戦争が激しさを増し、生活物資が統制され燃料会館となる。
・爆心から170メートル、原爆ドームとほぼ等距離。
・耐震設計の鉄筋コンクリート造りの燃料会館。
・1982年から『レストハウス』となる。

--中国新聞社国民義勇隊全滅
中国新聞社員40人と在広島の新聞社員6人、計46人は中国新聞社国民義勇隊となる。
天神町の建物疎開に動員され、被爆。

軍の支配が書かれてありました。下「」引用。

「出席の軍責任者の○○中将は、いらだち、左手の軍刀で床をたたき、作戦遂行上、学徒の出勤は必要であると強調し、議長(内政部長)に決断を迫りました。」

--広島には三人の中将がいたという。
・船舶司令部(暁部隊)の佐伯文郎中将
・赤穂部隊の河村参郎中将
・第五九軍司令部(元広島師管区司令官)の藤井洋治中将。「軍責任者」とは藤井中将。
・藤井中将、被爆死。

指田吾一さんは原爆被爆時、軍医中将だと書かれてありますが……。







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続反原爆 長崎被爆者の生活史

2007年12月11日 | 読書日記など
『続反原爆 長崎被爆者の生活史』
   石田忠・編/未来社1974年

事実というのは生活を除いていうことはできないと思います。



三菱の工場で働いていた大田さん。下「」引用。

「当時、三菱兵器製作所では「航空魚雷」をつくっていた。工場は鉄骨で組み立ててあり、スレートの瓦屋根であった。中では「徹夜でずうっとゴーゴーゴー」機械を動かしていた。大田さんは、原爆の「一年前」に起きた次のような事件がもとで、兵器の中でも「一番はずれの方」にある精密機械工場に配置転換になった。」

工場で勤務していた少年が、チフスなのにムリヤリ働かされ死亡した。
頭にきた大田さんは組長にハンマーを握り、反省させた。しかし配置転換させられたという。

大田さんは米兵に「オー・ベイビー」といわれ、「カムオン」と……。
米兵は「ノー」という。大田さんの後ろには、体格のいい若い青年がいたという。

昭和40年、大田さんは原爆病院入院。
--深堀保郎先生(聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ会会長)がかけつけてくれたという。
大田さんはその会の書記と会計をしていたという。

大田さんは、永井隆の著作を「もうたいてい読みました」と言う。

カトリックの考えでは、この世は人生のひとつの旅。--本当の故郷は天国。下「」引用。

「もちろん「カトリック信者もひとつの人間の集団ですから、教えはいっしょですけど、それはいろいろ受けとり方が違うでしょ。私は永井先生の考えと同じですね。いつまでもそう、めそめそしとったってしょがないでしょう、現実としては。自分を苦しめるだけでしょ。それをもっといい方に、善意といいますか、ものを考えて、そして生きていかなければ自分自身も惨めだし……。」

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善意で生きていかないと惨め……。
--出世するために捨てられた人が多い社会は惨めですね。
その惨めさは社会全体に蔓延するとボクは思う……。
そして弱者にしわよせがいく……。

入院するようになり、時計店を閉めるしかなく、大田さんは生活保護を受けるようになる……。

日蓮宗の信心で救われた被爆者もおられる……。下「」引用。

「家でひとり内職をする小幡さんのところへ、日蓮宗の信徒が来て、小幡さんの話相手になってくれた。母が昔から日蓮宗の信徒であったところから、小幡さんも毎朝、手を合わせることはしてきていたが、その人の話を聞いてだんだん信仰の世界へはいっていった。」

宗教の自由は法律で認められていますね。
--でも、カルト的なことは、他国のように許されるべきものではないとボクは思います。

差別について書かれています。下「」引用。

「長崎には「おおいに差別がある」と安枝さんは言う。「原爆症にかかっていない人は私達が今こんなに、少し身体が悪うても、そうは見てくれないんですよ。原爆を落としてもろて、落としてそういう目にあってみた方がいいと思いますよ。なってないから、苦しみは分からんとやから。人はねたんだように言うんですから。『まあ、正林さん、元気な顔をしとる。何が原爆症やろか』とと言われるけど、私は黙っている。他人は言いよるですよ。だから、そんな人が原爆症になってみればいいんですよ。」

相手を傷つける言動よりも、理解できるように表現を工夫していくことが大切ではないかとボクは思います。

目には目をは、黄金律の内であって欲しい。
--あなたがして欲しいと思う範囲で表現していただきたく思います……。

相手がひどい場合はそればかりも言えないとも思いますが……。






被爆者の店


反原爆 長崎被爆者の生活史






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上野誠 平和版画集 原爆の長崎

2007年12月11日 | 読書日記など
『上野誠 平和版画集 原爆の長崎』
     上野誠(画・文)/新宿書房1970年

大きな本でスキャンを全部できませんでした。
ですから、下の表紙は全部ではありません。



被爆者と研究者では意見がわかれますね。下「」引用。

「M君というある重症者は、つもるうらみをこめて、こういいました。「ここへ、車ではこばれる途中、ABCCをにらみつけてやった」
 原爆傷害者をモルモットあつかいしたかとで、悪名高い「原爆傷害調査研究所」(略称ABCC)です。その建物は清潔な洋館でしたが、原爆病院まえのバス通りのゆるやかな坂をくだれば、道はT字形につきあたり、ここで調査研究をされるわけで、なかには7回も調べをうけたものもいますが、ここではいっさい治療はしません。-略-1949年からアメリカの国費年額4億円を投じて広島・長崎にABCCを開設したのですが、この研究所は、「原爆症の基礎研究や、個々の患者の診断上には、少なからぬ貢献があった」と日本側専門家から評価されながらも、さきほどのべたような悪評を受ける根拠をもっているわけです。」


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ぼくは雇用されている研究者ではありませんので、
被爆者の方たちの気持ちはよく理解できても、
治療もしないで、モルモットにしたのに、
貢献があったなど、ボクには言えないことで、
ひどいことだと思います。


盲目の方のことが書かれてありました。

また、他の方ですが、裏の防空壕にしまっておいた米や、家財道具も焼けてなくなったと書かれてありました。

長崎原爆病院では、ベッドで竹細工をするのは禁じられていたようです。

鳩のおばあさんという70歳の方のことが書かれてありました。

その鳩おばあさんと作者は交流されており、ベルリン国際展で受賞したとき、カステラが送られてきたという。

鳩おばあさんの夫はABCCで指定患者にされたという。

鳩をかうのをやめたのは子供が盗んだからという。

鶏はその前にエサ代がなくやめたという。

鳩のエサ代は佐賀、山口や福岡県の人が鳩をなぐさめとしている鳩おばあさんを気遣ってくれていたという。

土地などを黙れて奪われた鳩おばあさん。

この事件は、犯人逮捕、有罪決定したという。

そして、「認定」や「特別援護」をうけるためには、土地があるばあいは、対象からはずされると心配しているという。


版画は、今の時代にはない素朴な作品という感じがします……。










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ヒロシマ・ナガサキの証言'84冬&春

2007年12月11日 | 読書日記など
『ヒロシマ・ナガサキの証言'84冬第9号』
     秋月辰一郎・庄野直美(著)/汐文社1984年

「連帯への道」武田菊野(東京)の文中に「不戦の碑」というのが出てきました。下「」引用。

「座談会(第八号掲載)で、朴壽南さんの激しい御言葉「加害だけをいうのではなく、真の目的に対して協力して立上がること」を、私共へのいたわり、謙虚さと受取りますが、長崎にある「不戦の碑」に無条件に頭を垂れる日本人が果たしてどれ位いるのかという思いが激しく胸に迫ります。」

「ヨーロッパにもえる反核の炎--西ドイツを中心に被爆する実相を語る」下平作江で、人間の鎖について書かれてありました。下「」引用。

「十月二十一日の夜は、ボンの首相官邸をタイマツをてらしてとり巻きました。そして、二十二日のボンの集会は実に五十万人を越える人びとが集まりました。
 全国から貸し切りバスや汽車でぞくぞくと集まってきた人々は、みな手をつないで「人間の鎖」を作り、首相官邸を包囲して核配備反対の意志を表明しました。静かで整然としデモでしたが、子供も大人も一緒に、なんと百八キロにわたる「人間の鎖」がつながれました。信じ難いほどの草の根的な底力には、ただ感動しました。」

「学徒動員中被爆す」吉富安美(証言)
--住吉トンネル工場で学徒動員で働いたことが書かれてありました。

「沈黙していたハワイの被爆者たち」「南方特別留学生と原子爆弾被爆」というタイトルの文章がありました。


『ヒロシマ・ナガサキの証言'84春第10号』
     秋月辰一郎・庄野直美(著)/汐文社1984年

新聞社の写真展で、原爆被害の写真が二点あったという。
--昭和天皇が見に来たとき、原爆の写真には白い布がかけられていたという。

「日本人少年に助けられて-長崎病院で39年目の証言-」金分順(キムブンリュン)証言
--2階建の家に住んでいたが、5か月になる子供と下敷きになる。
--隣組の15歳の少年・中村タダシさんに助けてもらったという。

加害国のエドワード・ビオラ裁判長に対する抗議文がありました。下「」引用。

「ヒロシマは遠い、昔のことであり、偏見に満ちた同情を求める被爆者の証言は不要」と拒否したことに対し、私どもヒロシマの被爆者は怒りをこめて抗議いたします。-略-
   一九八三年十二月二十二日」

海の母子像。
--水俣市








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