龍の声

龍の声は、天の声

「二宮尊徳(二宮金次郎)の名言 一覧②」

2018-04-13 05:50:47 | 日本

・経文といい経書といい、その「経」という文字は、もともと機の縦糸のことだ。だから縦糸ばかりでは用をなさず、横に日々実行を織りこんで、はじめて織物として役に立つのだ。横に実行を織りこまず、ただの縦糸だけでは役に立たぬことはいうまでもない。

・世の中の人はみんな、聖人は無欲だと思っているが、そうではない。その実は大欲であって、正大なのだ。賢人がこれに次ぐもので、君子はそのまた次だ。凡夫のごときは、小欲のもっとも小なるものだ。

・富は人のほしがるものだ。けれども人のために求めれば福を招き、己のために求めれば禍を招く。財貨も同じことで、人のために散ずれば福を招き、己のために集めれば禍を招く。

・あなたは心得違いをしている。それは運が悪いのでもなし、神明の加護がないのでもない。ただ、あなたの願うことと、することが違うからいけないのだ。

・因というのは、たとえば、蒔いた種のことだ。これを耕作培養するのが縁だ。種を蒔いた因と、培養した縁とによって秋の実りを得る、これを果というのだ。

・いま、富める者は、必ずといってもよいほど、その前から徳を積んだものである、もし麦を蒔かなかったら、来年は麦がまったく実らない。麦の実りは冬から力を入れてきたからである。稲を仕つければ秋には実る。米の実りは、春から丹精して(心を込めて励んで)きたからである。

・よく徳に報いる者は、将来の繁栄のことはさておき、今日ただいまの丹精(心を込めて励むこと)を心掛けるから自然と幸福を受けて、富貴がその身を離れない。

・万事はどうなるかという先を見通して、前もって決めておくことが肝心だ。人は生まれると必ず死ぬべきものである。死ぬべきものだということを前に思い定めてかかれば、生きているだけ日々もうけものだ。これが、わが道の悟りである。

・わざわいは過去の因縁によって来る場合もある。名僧が強盗にあったときの歌に「前の世の借りを返すか、いま貸すか、いずれ報いはありとしぞ知れ」と詠んだとおりだろう。決して迷ってはならない。

・国や家が窮乏に陥るのはなぜかといえば、分内の財を散らしてしまうからである。これを散らさないようにさえすれば、国も家も必ず繁栄を保つことができる。国や家の衰えを興そうとするには、何よりもまず分度(予算)を立てるがよい。分度が立ちさえすれば、分内の財が散らないから、衰えた国も興すことができ、つぶれかけた家も立て直すことができる。

・すでに熟したものを差し置いて、まだ熟しないものを心配している。これは人情の常である。しかし、まだ熟しないものを心配するより、すでに熟したものを取り入れる方が、どれほど良いかわからぬ。

・貧となり富となるのは偶然ではない。富もよってきたる原因があり、貧もそうである。人はみな、財貸は富者のところに集まると思っているが、そうではない。節倹なところと、勉励するところに集まるのだ。

・貧富は分度を守るか分度を失うかによって生ずる。分度を守って、みだりに分内(予算)の財を散らさなければ富にいたるし、分度を失い、他から借財して分内に入れるようであれば、やがて貧に陥る。

・財はよく人を富ますが、またよく人を貧しくするのは、なぜかといえば、天分の度合に小と大とがあるからだ。小と大とに即応して経理する術を知っている者は、貧窮の憂いがない。

・財貨は海のようなものだ。貧富、苦楽は、水を渡る術を知っているか、いないかにある。泳ぎの上手な者は水を得て楽しむし、泳ぎのへたな者は、水のために苦しんで溺れる。勤勉な者は財を得て富むし、勤勉にできない者は財のために苦しんで貧乏する。

・世の人はみんな金銭の少ないのを嫌って、ひたすら多いことを願うけれど、もしも金銭が銘々の願いどおりに多かったとしたら、砂や石となんの違いもない。

・世間一般の人の願望は、もとより遂げられるものではない。というのは、願っても叶わぬ事を願うからだ。

・貧者は昨日のために今日働き、富者は明日のために今日働く。















「二宮尊徳(二宮金次郎)の名言 一覧①」

2018-04-13 05:49:06 | 日本

・道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。

・遠きをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す。

・可愛くば 5つ数えて 3つ褒め 2つ叱って 良き人となせ

・真の学問とは、小欲を大欲に変えるための手段。小欲とは己のみの欲求を満たすことであり、大欲とは人間そのものの幸福を満たすことである。

・世の中は、知恵があっても学があっても、至誠と実行がなければ、事は成らない。

・世間の人は、とかく小事を嫌って大事を望むけれども、本来、大は小を積んだものである。だから、小を積んで大をなすほかに方法はない。

・貧者は昨日のために今日つとめ、昨年のために今年つとめる。それゆえ終身苦しんでも、そのかいがない。
富者は明日のために今日つとめ、来年のために今年つとめるから、安楽自在ですることなすことみな成就する。

・およそ人と生まれ出た以上は、死ぬのは必定だ。長生きといっても取るに足らぬほどの相違で、たとえばロウソクに大中小とあるようなものだ。人と生まれ出た以上は必ず死ぬものと覚悟してしまえば、一日生きれば一日の儲け、一年生きれば一生の得だ。

・楽しみを見て直ちに楽しみを得んと欲するものは、盗賊鳥獣に等しい。人は勤労して後に楽しみを得る。

・昔蒔く、木の実大木(おおき)となりにけり、いま蒔く木の実、後の大木ぞ。

・富をみて直ちに富を得んと欲する者は、盗賊鳥獣に等しい。人はすべからく勤労して、しかる後に富を得る。

・貧者は天分の実力をわきまえず、みだりに富者をうらやみ、その真似をしようとする。

・桃栗三年、柿八年というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない。

・速成を欲するのは、人情の常である。けれども成功、不成功には時期があり、小さい事柄でも、おいそれとは決まらない。まして大業ならばなおさらのことだ。

・昔から方位で禍福を考えたり、月日で吉凶を説いたりすることがあって、世間ではこれを信じているが、この道理はあり得ない。禍福吉凶というものは、人それぞれの心と行ないとが招くところに来る。

・奪うに益なく譲るに益あり。

・生きているときは人で、死んで仏になると思っているのは間違いだ。生きて仏であるからこそ、死んで仏なのだろう。生きてサバの魚が、死んでカツオになる道理はない。林にあるときはマツで、切ったらスギになるという木はない。だから生前から仏であって、死んで仏になり、生前から神であって、死んで神なのだ。

・悪いことをした、やれまちがったと気づいても、改めなければしかたがない。世の中のことは、実行によらなければ事は成就しない。

・古語に「三年の蓄えなければ国にあらず」といっている。外敵が来たとき、兵隊だけあっても、武器や軍用金の準備がなければどうしようもない。国ばかりでなく、家でも同じことで、万事ゆとりがなければ必ずさしつかえができて、家が立ちゆかなくなる。国家天下ならなおさらのことだ。

・樹木を植えて、30年たたなければ材木にはならない。だからこそ後世のために木を植えるのだ。今日用いる材木は、昔の人が植えたものだとすれば、どうして後世の人のために植えないでよかろうか。

・学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。

・一万石の米は一粒ずつ積んだもの。1万町歩の田は一鍬ずつの積んだもの。万里の道は一歩ずつ積み重ねたもの。高い築山(つきやま)も、もっこ一杯ずつの土を積んだものなのだだから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する。

・大事をなしとげようと思う者は、まず小さな事を怠らず努めるがよい。それは、小を積んで大となるからである。大体、普通、世間の人は事をしようとして、小事を怠り、でき難いことに頭を悩ましているが、でき易いことを努めない。それで大きなこともできない。大は小を積んで、大となることを知らぬからである。

・衰えた村を復興させるには、篤実精励(とくじつせいれい)の良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼(ほういつぶらい)の貧民がついに化して篤実精励の良民となるように導くのである。ひとまず放逸無頼の貧民をさし置いて、離散滅亡するにまかせるのが、わが法の秘訣なのだ。

・世人は蓮の花を愛して泥を嫌がり、大根を好んで下肥を嫌がる。私はこういう人を半人前という。蓮の花を養うものは泥である。大根を養うものは下肥である。蓮の花や大根は、泥や下肥を好むことこの上なしではないか。世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。これまさに、半人前の見識ではないか。どうして一人前ということができよう。

・朝夕に善を思っていても、その善事を実行しなければ善人とはいえない。だから悟道治心の修行などに時間を費やすよりは、小さい善事でも行なうのが尊い。善心が起こったならば、すぐ実行するがよい。









「二宮 尊徳とは②」

2018-04-12 06:06:40 | 日本

◎神社

尊徳をまつる二宮神社が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)などにある。
報徳二宮神社の尊徳像には「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」という言葉が掲げられている。


◎日本銀行券A1円券(有効券)

各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)に関する記述は、明治14年(1881年)発行の『報徳記』が初出である。そこには「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず。」とある。この「書を懐にして」を、「懐中」か「胸の前で持って」と解釈するかは判断に迷うところだが、金治郎像では後者で解釈されている。ただし先述のように『報徳記』の尊徳幼少期の記述は信憑性が薄く、このような姿で実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残る。

『報徳記』を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年10月)の挿絵(小林永興画)で、はじめて「負薪読書図」の挿絵が使われた。ただし、これ以前から既にこの図様に近い少年像は存在していた。金治郎の肖像画のルーツは中国の「朱買臣図」にあり、これが狩野派に伝統的な画題として代々伝わり、その末裔の永興もこれを参考にしたと想定される。確認されている最初のこの姿の像は、明治43年(1910年)に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。明治37年(1904年)以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになった。小学唱歌にも『二宮金次郎』という曲がある。しかし、修身国定教科書には金治郎の逸話は取り上げられたものの、「負薪読書図」は一度も掲載されていない。 「負薪読書図」が広まったのは売薬版画や引札、子供向けの伝記類による。

これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われており、特に平田東助・岡田良平・一木喜徳郎らによる指導が大きかった。
小学校の校庭などに見られる「金治郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって広まったとされる。小学校に建てられた「金治郎像」でもっとも古いものは、大正13年(1924年)、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1メートルとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり1メートルではないことが多い。これは、昭和15年(1940年)頃に量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の昭和21年(1946年)に日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。戦前の像は青銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。
金属供出に際して、教育的配慮として、教師や児童の立会いの下で像にたすきをかけて壮行式を挙行し、戦地に送り出したり、撤収後の台座に「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられたこともある。

石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をして本を読みながら道路を歩くと交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にあるほか、「現在の児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある。 岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の55.1%に「二宮金治郎像」が存在し(2001年現在)、近隣市町村を含めると、58.5%の小学校に「二宮金治郎像」が存在する。また、平成15年(2003年)に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。

2010年代に入って歩きスマホの危険性が社会問題になったが、この問題を受けて「いまいち一円会」が2016年に日光市立南原小学校に寄贈した石像は立像ではなく座像となっている。
なお、学校の怪談では、「二宮金治郎像」が夜中の校庭を駆け回るという話が典型的に語られている。


◎二宮尊徳生家、記念館

尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県真岡市にも二宮尊徳資料館がある。
顕彰碑
荒廃した村を再建した尊徳の偉業を讃えて、茨城県桜川市真壁町(旧青木村)に顕彰碑が建てられている。













「二宮 尊徳とは①」

2018-04-11 08:54:37 | 日本

二宮尊徳について学ぶ。



二宮尊徳(にのみや たかのり)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、有職読みで「そんとく」と読まれることが多い。
経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。


◎生涯

相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれる。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。
尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻とするが、離縁。次いで20歳若いが貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみ(波子)を娶った。後者は賢夫人と称される。子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいる。


◎幼少時代

当時の栢山村は小田原藩領であった。父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。そこに、金治郎が5歳の時の寛政3年(1791年)8月5日、南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失した。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する。
寛政9年(1797年)、父が眼病を患う。金治郎12歳の時、酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めるが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、自ら夜に草鞋を作って配布して献じた。この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻った。寛政12年(1800年)、父の病気が悪化し、9月に没する。母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けるが、乳張りがひどくて家に戻す。14歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てた。

享和2年(1802年)、貧困の中で母が亡くなった。まだ幼い2人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父)萬兵衛の家に身を寄せることとなった。しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった。
金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「灯油の無駄使い」として嫌い、しばしば口汚く罵られた。そこで金治郎は策を講じ、堤防にアブラナを植え、それで菜種油を取って燈油とした。また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得た。
文化元年(1804年)、萬兵衛の家を離れ、同村の親族・岡部伊助方に寄宿。この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿。さらにここで余耕の20俵を得て、文化3年(1806年)に家に戻り、20歳で生家の再興に着手する。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図った。しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなった。
生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。また体重は94kgあったと言われている。小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた。


◎青年時代

文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げた。その頃、小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼した。金治郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化11年(1814年)に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった。
文化13年(1816年)、前年に家に戻った友吉(常五郎)を萬兵衛の長男・三郎左衛門の養子とし、自らも最初の妻を娶った。文政元年(1818年)、藩主大久保忠真が孝子節婦奇特者の表彰を行った時に、その中に金治郎の名もあった。
文政2年(1819年)、生まればかりの長男が夭折。家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁した。翌年、34歳の金治郎は16歳のなみと再婚した。同年、忠真公が民間の建議を求めた際に、金治郎は貢米領収桝の改正を建言。これが採用されて斗量を改正した。また小田原藩士のための低利助貸法及び五常講を起こした。

文政4年(1821年)、二度目の伊勢詣でから戻った金治郎は、小田原藩主大久保家の分家・宇津家の旗本知行所であった下野国芳賀郡桜町が荒廃しているということで、その再興救済を藩主より命じられた。文政6年(1823年)、金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されて、桜町に移住して再建に着手した。
文政9年(1826年)には宇津家家臣・横山周平が同役勤番となって江戸に行ったため、金次郎が組頭格に昇進して桜町主席となった。再建は村民の抵抗にあって難航していたが、天保2年(1831年)には正米426俵を納める成果を上げるに至り、同5年には1,330俵を返納し、同7年には封地4,000石租900石の所を実収3,000石にまで増やしたので、分度(支出の限度)を2,000石に定めて再建を成し遂げた。その方法は報徳仕法として他の範となる。但しこれらの復興政策は必ずしも上手く行ったというわけではなく、村人らに反感を持たれたときは突然行方不明になった。間もなく成田山で断食修業していることが判明し、修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていたという。


◎晩年

天保3年(1832年)には桜町より三里先の常陸国真壁郡青木村の旗本川副勝三郎より依頼を受けて伝授。天保4年(1833年)には天保の大飢饉が関東を襲ったため、藩命で下野烏山の大久保領の領民を救済。天保5年(1834年)には谷田部細川家の家政を中村玄順を介して改善。
天保7年(1836年)、重病の忠真公により小田原に呼ばれ、功績を賞されると共に、飢饉にある小田原の救済を命じられる。駿河・相模・伊豆の三州の救済は緊急を要するということで金千両を与えられる。金次郎は小田原家臣と協議し、蔵米を放出して村々を救急。
天保9年(1838年)、石川氏の下館の所領1万3,000石が三分の一に減収していたのを復興し、3万金の借金を償却して、分度外の余剰500俵を出す。天保11年(1840年)、伊豆の代官江川氏の招きを受けて、田方郡多田弥次右衛門家を再興。

天保13年(1842年)、幕府に召し抱えられ、普請役格となって印旛沼開拓・利根川利水について二件の提案を行ったが、結局、それは採用されなかった。翌年、幕府直轄領(天領)下総大生郷村の仕法を命じられ、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられる。翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住。日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたが、3度目の病を発し、安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没した。
戒名は誠明院巧誉報徳中正居士。明治24年(1891年)11月16日に従四位が追贈されている。


◎逸話

尊徳に関しては多くの逸話が残っている。事実かどうか確認できないものも多いが、伝記などに多く記述される代表的な逸話には次のようなものがある。これらの逸話の多くは、弟子の富田高慶が著した尊徳の伝記『報徳記』を由来とする。ただし、尊徳自身は幼少期の頃について全く語らなかったため、高慶は村人から聞いた話を記したに過ぎず、これらの逸話については高慶自身も信憑性は保証できないとしている。


◎小田原時代

一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領していたのをこれで防いだ。
倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻した。


◎桜町時代

ナスを食べたところ、まだ夏の前なのに秋のナスの味がしたことから、その年は冷夏になることを予測。村人たちに指示して冷害に強いヒエを大量に植えさせた。尊徳が予測した通りその年は冷夏となり、天保の大飢饉が発生したが、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったおかげで餓死者が出なかったばかりか、余分のヒエを周辺の村々にも分け与えることができたという。
開墾して間もない田畑は、既存の田畑と比べて租税負担が軽いことに注目し、新しい田畑の開墾を積極的に奨励した。

村人たちの開墾作業を見回っていた時、一人の男が他の村人の何倍も激しい勢いで仕事をしている様子を見て、「そのような勢いで一日中働き続けられるはずがない。お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをして、陰では怠けているに違いない」と怒鳴り、村人たちの前で男の不正を厳しく叱ったという。
その一方で、年老いて無力ながらも陰日向なく真面目に働き、他の村人たちがやろうとしない木の切り株を掘り起こす面倒な作業を毎日地道に続けてきた出稼ぎの老人に対しては、開墾に邪魔な木の切り株を彼が全部取り除いてくれたおかげで他の村人たちの作業が容易になり開墾がはかどったという理由から、通常の賃金のほかに慰労金として15両もの大金を与えたという。




























「沢庵和尚とは②」

2018-04-10 05:59:22 | 日本

◎著書

沢庵和尚法語
不動智神妙録
太阿記
理気差別論
明暗双双集
東海夜話
安心法門
鎌倉巡礼記
玲瓏集



◎宗矩の心の師と呼ばれるのが沢庵和尚

徳川家康に気に入られ、徳川に従う事になった柳生宗矩(むねのり)。大坂夏の陣の時には2代将軍・秀忠のすぐそばで警護に就いておりました。その秀忠を襲ったのが、大坂方勇士の一人、木村重成一族の木村主計。
お供を6人連れまして、どこからともなく現れいきなり秀忠に襲い掛かった。そばにいた宗矩、手には父・石舟斎が天狗(てんぐ)を斬(き)ろうとして大石を一刀の下にした大天狗正家が握られていた。宗矩が刀を抜いたかと思うと、バッタ、バッタと倒れる豊臣方。気付けば、そこに7人が倒れていました。これを目の当たりにした秀忠はさらに宗矩を重宝しました。



◎不動智神妙録

不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)は、江戸時代初期の禅僧・沢庵宗彭が執筆した「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)」についての書物である。執筆時期は諸説あるが、内容から見て寛永年間(1624年から1645年)であろうと推測される[1]。別称を『不動智』、『剣術法語』、『神妙録』とも呼ばれ、原本は存在せず、宗矩に与えられた書も、手紙か本か詳しい形式は判明していない

心ありてもるとなけれど小山田に徒ならぬかかしなりけり。

(鎌倉の偽園禅師の歌)

心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな

※人間には生まれた時から「心」というものが具(そな)わっている。別段親からこの子にはこの心を与えようと貰った訳でもない。そして心には形がない。形がないから目にも見えない。目に見えないから捕え様がない。とかく人の事を批判するが、自分の事と成るとさっぱり解らない、実に厄介(やっかい)な存在である。

水月に遠近の差別なし。若し遠近を攻んと欲する者は,却而移を失す。是を移に心を取らるゝと云ふ也。心は水月之不変に至り,事は敵に因て捧残の宜しきを用ふる時は,不勝と云事なし。月無心にして水に移り,水無心にして月を写す。内に邪念をなさずば,事能く外に正し。○語に曰,「一月一切之現水,一切之水摂一月」。

※目を用いて見ることを目付といい,道理を用いて守ることを移といい,技術を用いて攻めることを写というのである。水と月との間合いに遠い,近いの区別はない。もし(間合いの)遠近によって相手を攻めようとする者は,逆に移ということを失ってしまう。このことを移に心を取られてしまった状態というのである。心は,水と月とが不変の関係にある,その境地に至り,技は敵に応じて捧心・残心,いずれか良い方を用いる時には,勝てないということはない。月は無心に(その姿を)水面に移動させ,水面は無心に月の姿を写し出す。内面において邪念をなすことがなければ,技は外面において正しいものとなり得る。


◎沢庵和尚の名言集

・用心とは心を用いると書申候へは、ことばにも色にも出して候へは、用心に成申さず候
 
・富はなせば仁ならず、仁すれば富まず。
 
・水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様
 
・人の善し悪しを知らんと思わば、その愛し用ふる臣、または親しみ交わる友を以て知れ。
 
・葉一つに心をとられ候(そうら)わば、残りの葉は見えず。一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申し候(そうろう)。是(これ)を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候
 
・何事も血気に迷い、おじればしそこなう。おずるは平常のこと、試合の場ではおじけはゆるされぬ。溝を飛ぶときは、ずんと飛べ。危うしと思えば落ちこむぞ。
 
・万物皆純善にして悪なきなり。すなわち皆善なり、半ばを過ぎるときは、すなわち善も悪となる。
 
・人の良し悪しを知らんと思わば、その愛し用いられている臣下、または親しみ交わる友達をもって知れ。
 
・人みな各々の得たる所一つあるものなり。その得る所をとりて之を用ちふるときは、則ち人を捨てず。
 
・人退くとも退かず、人進めば我いよいよ進む。
 
・人の真実は何にて知りぬべき。涙の外あるべからず。
 
・一事を成さんとしたら、本心一途にしたほうがよい。何ごとも血気に迷い、怖じればしそこなう。怖ずるは平常のこと、試合の場で怖じ気は許されぬ。溝を飛ぶときは、ずんと飛べ。危うしと思えば落ち込むぞ。
 
・人みな我が飢(うえ)を知りて人の飢を知らず。














「沢庵和尚とは①」

2018-04-09 06:00:13 | 日本

沢庵和尚について学ぶ。



沢庵宗彭(たくあん そうほう、澤庵 宗彭、天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。
但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある。


◎出生から大悟まで

天正元年12月1日(1573年12月24日)に秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。父・綱典は但馬国主・山名祐豊の重臣であった。
8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得た。天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになった。
文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交があった春屋に住職の派遣を依頼した。春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごした。
関ヶ原の戦いの結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、春屋のところに落ち延びた。この後、春屋と共に、処刑された三成の遺体を引き取った後、三玄院に葬り、手厚く弔っている。慶長6年、薫甫が亡くなった後、和泉国堺に出て、文西洞仁の門下に入った。その文西が慶長8年(1603年)に亡くなった後は南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった慶長9年(1604年)8月4日、遂に大悟し、沢庵の法号を得た。


◎大徳寺出世入院と隠棲

慶長12年(1607年)、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入った。


◎紫衣事件

江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなる。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられた。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を江戸幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められた。

寛永4年(1627年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反発した沢庵は京に上り、玉室宗珀、江月宗玩と共に大徳寺の僧をまとめた後、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行い、寛永5年、抗弁書を書き上げて幕府に提出した。
この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われることとなり、その問責のため、寛永6年(1629年)、江戸へ召喚されることとなった。江戸城内での弁論の結果、同年7月に幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵を出羽国上山に、また玉室を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。時に沢庵57歳のことである。
配流先である上山藩主の土岐頼行は、沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇した。沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれている。配流中、頼行は藩政への助言を仰ぐなど沢庵を遇すること実の祖父の如くといい、沢庵赦免後も二人の交流は続いたという。


◎赦免から家光への近侍まで

寛永9年(1632年)、沢庵60歳の年に、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。
沢庵もいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、同年冬より駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、寛永11年(1634年)夏までここに留まった。そして玉室と共に大徳寺に戻った時、将軍・徳川家光の上洛に際し、天海、堀直寄、柳生宗矩の強い勧めにより、沢庵は家光に拝謁した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになったという。同年、郷里出石に戻ったが、翌寛永12年(1635年)、幕命により再び江戸に下った。その後、寛永13年(1636年)に玉室、江月らと共に家光に拝謁したところ、二人は帰されたが、沢庵のみ江戸に留まるよう求められ、家光に近侍することとなった。


◎国師号辞退から寺法旧復まで

江戸においては、柳生宗矩の下屋敷(この一室を「検束庵」と名付けている)に逗留し、家光の召しに応じて登城して禅を説いた。度々上方へ戻ったが、寛永15年(1638年)には後水尾上皇に「原人論」の講義などを行った際、上皇より国師号授与の内示があったが、沢庵はこれを断り、代わりに大徳寺一世・徹翁義亨へ追諡を願っている。また同時期に柳生宗矩の頼みを受け、大和国柳生庄に赴き、後に柳生家の菩提寺となる芳徳寺を開山している。翌寛永16年(1639年)、67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなった。

寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡された。これにより両寺は従前通りの出世入院が認められ、また幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣奪還も行われている。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのである。


◎晩年

その後、正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵は江戸で没した。享年74。死に際し、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂したという。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡も残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。


◎人物

当時の代表的禅僧として知られる。また、受け答えも当意即妙で、禅の教えを身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から慕われ、徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けている。しかしながら、沢庵自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことはなく、あくまで自らは一禅僧に過ぎないと述べている。国師号辞退の際は一糸文守が賞賛の詩を書いている。

名利を求めぬ反面、宗門の為に権門に交わることも厭わなかった。大徳寺・妙心寺の寺法旧復のために家光に近侍し、また乞われれば政治的助言も与えている。この態度を以って、沢庵は大名好きだという批判を受けることもあったが、寛永18年(1641年)に寺法旧復が成った際に、批判したことを恥じる者が多かったという。
柳生宗矩の求めに応じ、剣禅一味(剣禅一如)の境地を説いた。この境地を記した『不動智神妙録』は、禅を以て武道の極意を説いた最初の書物であり、武術から武道への流れを開く端緒のひとつになった。なお、宗矩とは若い頃から交流があり、時には諫言し、時には頼るなど、その親交は深いものがあった。また宗矩の息子である柳生三厳(十兵衛)からも慕われ、こちらにも様々に教授したという。

詩歌を好み、細川幽斎や烏丸光広と交わり、自らの歌の添削などを依頼している。
自身の禅を自分一代で断絶させている。嗣法を家光や後水尾上皇から求められてもこれを拒否し、最後まで嗣法の弟子を定めず、遺戒においては、自身の禅を継いだと称する者は法賊であるとまで言っている。また、自らの事蹟を残さないようにも命じているが、後に門人・武野宗朝が『東海和尚紀年録』を記している。


◎史実での逸話

隠棲時、豊臣家や様々な大名家、浅野幸長、黒田長政などから招かれたが、これらの招きを全て拒否した。その他、高松宮好仁親王が弟子入りのために自ら投淵軒を訪れた際も決して会おうとしなかったという。

大悟後、かつての師である春屋と問答をした際、その受け答えが当意即妙だったため、「伶牙利舌(れいがりぜつ)の漢」と称賛された。またこれを聞いた師の一凍は「真の跨竈児(こそうじ)」と賞賛したという(沢庵大和尚行状)。

細川忠興に茶に招かれた際、かけられていた大燈国師(宗峰妙超)の墨蹟を一目で贋作だと喝破した。これにより、贋作偽造を行った大徳寺の松岳紹長が破門されている。
元和6年(1620年)頃、鬱病になったことがあるという(「東海百首」末尾)。

紫衣事件の時、幕府に提出した抗弁書は自分一人が書いたものであり、処罰は自分一人にして欲しいと述べた。この態度に感銘を受けた天海は、沢庵を賞賛し、刑の軽減を主張している(細川家記)。

柳生三厳(十兵衛)が最初に書いた伝書を父・宗矩に「焼き捨てよ」と命じられた際、十兵衛にその真意を教え諭し、伝書に一筆加えて宗矩へ取り成したことで、十兵衛は柳生新陰流の印可を得ることができたという(「昔、飛衛といふ者あり」(柳生十兵衛伝書))

寛永19年(1642年)、日蓮宗と浄土宗の宗論に立ち合い、家光に「何故両宗は仲が悪いのか」と尋ねられた際、「両宗とも、末法の世に教えを説くために仏法を分かりやすく引き下げてしまったために、引き下げた教えに食い違いが生じ、それ故に宗論が自宗の正しさを示すものになるためです。他宗の場合は同じところに教えがあるので、そうはならないのです」と答え、家光も納得したという。

家光から屋敷や寺を与えると言われても頑なに断り続け、最終的に柳生宗矩に説得され、ようやく東海寺住持となることを引き受けたという(沢庵和尚書簡集)。

家光が東海寺を訪れた際、「東海寺と言えど海近し」と問われた時、即座に「大君と言えど将軍と称するがごとし」と返したという(徳川実記)


◎真偽が明らかではない逸話

見張っていないとすぐに外に出て行ってしまうので、東海寺では「沢庵番」と呼ばれる見張りを立てたという。
家光の命により虎をなでるように言われた際、虎の檻にするりと入って、たちまちのうちに虎を手懐けてしまったという。


◎沢庵漬け

ダイコンの漬物であるいわゆる沢庵漬けは一伝に沢庵が考えたといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたともいう。
後者の説によれば、徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられるが伝承の域を出ない。


◎宮本武蔵との関係

フィクション上では、しばしば宮本武蔵と結び付けられる。例えば、吉川英治作の小説『宮本武蔵』では武蔵を諭すキーパーソン的な役割を担っているが、史実において武蔵と沢庵和尚の間に接触のあった記録は無い(吉川自身も「武蔵と沢庵和尚の出会いは、自身による創作である」と明言している)。











「ホーキング博士の業績」

2018-04-08 07:26:16 | 日本

小谷太郎さんが、ブラックホールからビッグバンまで、博士の描いた宇宙像「ホーキング博士の業績」について掲載している。
以下、要約し学ぶ。


⇒ 
イギリスの宇宙物理学者、スティーブン・ウィリアム・ホーキング元ケンブリッジ大教授(1942年1月8日~2018年3月14日)が亡くなりました。ホーキング博士は、次第に筋力が低下する筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、病気と戦いながら研究に取り組みました。しばしば「車椅子の宇宙物理学者」などとセンセーショナルに取り上げられるホーキング博士ですが、では彼の物理学への貢献はどのようなものだったのでしょうか。


◎ホーキング、ホーキング放射を発見する
 
ブラックホールは、強い重力のために光さえも脱出できない「物体」です。重力の物理学理論である相対性理論から、その存在が予想されます。
 
そんな奇妙な代物が、果たしてこの世に実在するのでしょうか。その性質は、他の物理法則と矛盾しないでしょうか。ブラックホールがまだ1個も見つかっていなかった1960年代から、ホーキング博士などのブラックホール研究者は、紙とペンを使ってブラックホールの性質を調べてきました。
 
1972年、プリンストン大の大学院生だったヤコブ・デヴィッド・ベッケンシュタイン(1947年~2015年)は、大量の紙とインクを消費した末に、ブラックホールが「エントロピー」を持つという珍説を博士論文として発表します。ブラックホールという奇妙な存在を受け入れた研究者にとってさえ、ベッケンシュタイン博士の主張は常識外れに思えました。
 
エントロピーとは何かという詳しい説明は略しますが、それは熱と温度に関係する物理量だと述べておきます。もしもブラックホールがエントロピーを持つならば、必然的に温度も持つことになり、温度を持つ物体は温度に応じた光を放射(黒体放射)するはずです。そんな莫迦な、とホーキング博士も最初は考え、ベッケンシュタイン博士のアイディアを否定しようとしました。
ホーキング博士は、「量子力学」をブラックホールのエントロピーに応用し、少々計算をしました。そして驚くべき結果を得ました。

ベッケンシュタイン博士の言う通り、ブラックホールはエントロピーと温度を持つのです。そして、温度を持つブラックホールは微弱な光を放射するのです。
 世界を驚かせた「ホーキング放射」の発見です。


◎ホーキングとベッケンシュタイン、ブラックホール熱力学を創始する
 
ブラックホールからのホーキング放射は、異常な性質を持っていました。通常の物体は、放射することによって温度が下がり、次第に放射が弱まります。そして周囲と同じ温度になったところで安定します。
 
ところがブラックホールは放射することによって、かえって温度が上がるのです。ホーキング放射をするブラックホールはどんどん高温になり、それにつれて放射が強まり・・・しまいには強烈な光を放って消滅してしまう。これがホーキング放射から帰結されるブラックホールの最期です。
 
1974年、ホーキング博士はこの研究結果を『ブラックホール爆発?』という、科学論文にしてはずいぶん刺激的な題の論文として発表しました。世間は驚愕しました。それまでの「なんでも吸い込む真っ黒なブラックホール」というイメージは塗り替えられました。
 
世の研究者は、新しいおもちゃを与えられた子供のように、ブラックホールのエントロピーや温度や放射といった熱力学的性質に取り組みました。ホーキング博士とベッケンシュタイン博士(後にヘブライ大教授)による、「ブラックホール熱力学」という新しい学問分野の創始です。

 ちなみに、ブラックホールのエントロピーには「ベッケンシュタイン・ホーキング・エントロピー(Bekenstein-Hawking entropy)」と名前がついていますが、この略称「BHエントロピー」は、「ブラックホール(BH)・エントロピー」の洒落にもなっています。


◎ホーキング、ビッグバンが計算不能であることを証明する
 
相対性理論から導かれるブラックホールですが、このブラックホールの中心を、相対性理論にしたがって計算しようとすると、時間や空間のゆがみなどに無限大がでてきて計算不能になります。このような計算不能な箇所を「特異点」といいます。ブラックホールの中心は特異点なのです。

一方、この宇宙は138億年前にビッグバンという大爆発で生まれたと考えられています。どうやって考えたかというと、これもやっぱり相対性理論を用いて考えられています。宇宙全体も、相対性理論の方程式の解なのです。
 
そしてホーキング博士は、宇宙の始まりビッグバンの瞬間もやはり特異点であることを証明しました。ブラックホールもビッグバンも、相対性理論から導かれるにも関わらず、計算を進めていくと、あるところで相対性理論が使えなくなってしまうのです。
 
どういうことかというと、相対性理論はまだ不完全な理論で、ブラックホールやビッグバンをきちんと計算するには、新しい完全な物理学理論が必要なのです。
 
その新しい完全な物理学理論を見た人はまだいませんが、二つのことは分かっています。一つは、その理論は相対性理論と量子力学を組み合わせたものになるということ、もう一つは、それが「量子重力理論」という名前だということです。それ以外は、まあ、あまり分かってないと言っていいんじゃないですかね。

ホーキング博士が研究を始めたころには、ブラックホールが実在するかどうか誰も知りませんでした。「ブラックホール」という言葉さえありませんでした。そんなふざけたものがあるはずがない、机上の空論に過ぎないという研究者も大勢いました。
 現在では、ブラックホールから放射された「重力波」をはじめとするさまざまな証拠がそろっています。ブラックホールの実在を疑う人はほとんどいません。
 そしてホーキング博士は、1960年代から1970年代にブラックホール研究をリードした、世界最高の研究者だったのです。


◎ホーキング、タイムマシンを否定する
 
相対性理論は、ブラックホールやビッグバンを調べるための道具ですが、タイムマシンの研究にも応用できます。タイムマシンは(実現するとしたら)時間と空間をひん曲げるはずで、ひん曲げられた時間と空間は相対性理論で記述されるからです。

ただし研究者は、タイムマシンという言葉は使わず、「閉じた時間的曲線」という一見なんのことだか分からない専門用語で呼びます。「我々は閉じた時間的曲線が存在する条件を調べました」という具合です。
 
そういう隠語を使う理由はおそらく、タイムマシンの語感が気恥かしいためと、「素人」の耳目を惹きつけるのを防ぐためでしょう。カリフォルニア工科大のキップ・S・ソーン教授(1940年~)は、論文*4に「タイムマシン」という言葉を使ったら、マスコミに騒がれてえらい目にあったので、以後「閉じた時間的曲線」と書くようにしたそうです。
 
相対性理論の研究者はタイムマシンの専門家ともいえるのですが、タイムマシンに対する態度は人によって違います。ホーキング博士は強硬な否定派で、タイムマシンが不可能であることを証明する論文『時間順序保護仮説』を書いています。

『時間順序保護仮説』は、「高度に進んだ文明は時空を曲げて閉じた時間的曲線を作り、過去への時間旅行を可能にするかもしれないといわれている」という、SFのような書き出しで始まります。読者は、ホーキング博士がガチでタイムマシンの実現可能性を議論するものと期待しますが、論文の結論は、トポロジー的手法でも量子力学的手法でも、閉じた時間的曲線は実現できない、というものです。期待した読者はがっかりです。
 
しかもこの恰好いい書き出しは、実は、タイムマシンの製作方法を提案している論文『ワームホール、タイムマシン、弱いエネルギー条件』*4の書き出しをそっくり真似たパロディーになっています。こんな洒落を盛り込んだ否定論文を出されたら、もうタイムマシン支援派は涙目です。


◎ホーキング、宇宙を語る
 
このように、ホーキング博士は堅苦しい科学の記述にユーモアを紛れ込ませる希有(けう)な才能を持っていました。博士の論文には、こういうユーモアや言葉遊びが盛り込まれていて、思わず笑わされます。笑える科学論文を書ける人なんて他にはめったにいません。

博士の文才は論文だけに発揮されたのではありません。博士は多くの一般向け科学解説書を執筆し、1988年の『ホーキング、宇宙を語る』は世界で2500万部も売り上げた超ベストセラーになりました。
 
しかもこの目も眩むような才能を収めているのは、車椅子に乗ったか弱い肉体なのです。ここまで超人的な活躍をされると、まるで神話か伝説の人物のように思えてきます。
 ところで、ホーキング博士の初期からの共同研究者であり、相対性理論のもう一人の大家であるオックスフォード大のロジャー・ペンローズ教授(1931年~)が、ガーディアン紙に追悼文を寄せています。ここにはホーキング博士の不屈の性格や素晴らしい業績と共に、人間的な欠陥についても述べられています。博士は学生にとってミステリアスで怖い師で、怒ると学生の足を車椅子で轢いたことなど、貴重なエピソードも記されています。
 
博士は無神論者だったので、天国に行くことを祈られるのは不本意でしょう。一つの偉大な頭脳が失われたことを悼(いた)みます。













「中国軍首脳、3日で台湾を占領できると豪語」

2018-04-07 06:07:46 | 日本

北村 淳さんが「中国軍首脳、3日で台湾を占領できると豪語」について掲載している。
以下、要約し記す。


トランプ政権は「国家安全保障戦略」や「国防戦略概要」などによって、中国との対決姿勢すなわち「中国封じ込め」へと戦略を変針した。そしてトランプ大統領はティラーソン国務長官を解任し、強硬派といわれているポンペオCIA長官を新国務長官に据えた。引き続き陸軍中将マックマスター国家安全保障担当大統領補佐官を解任し、後任に対中強硬派かつ新台湾派のボルトン前国連大使を据えた。さらに、アメリカ政府高官による台湾訪問を解禁するための「台湾旅行法」を制定した。

このような動きに対して中国人民解放軍首脳は、中国軍は3日間で台湾を占領することができると台湾と米国を恫喝している。


◎全面攻撃による軍事占領は現実的ではない

南京軍区副司令員、王洪光中将によると、中国軍は6種の戦い方(火力戦、目標戦、立体戦、情報戦、特殊戦、心理戦)を駆使することにより、台湾を3日で占領してしまうことができるという。
 
王洪光の主張が掲載された「環球時報」は中国内外の一般向けプロパガンダ色が強い中国政府系メディアであるため、王洪光は「中国軍が台湾を占領する」という単純なシナリオをぶち上げたものと考えられる。
 
しかしながら、王中将が豪語するように中国軍が3日で台湾を軍事的に制圧できる能力を保持しているとしても、そうした全面的な台湾侵攻作戦を実施するとは考えにくい。

実際には、中国軍が侵攻占領部隊を台湾に送り込む「立体戦」の準備段階として、大量のミサイル攻撃や砲爆撃(「火力戦」)によって台湾側の軍事的・戦略的拠点を徹底的に破壊(「目標戦」)した段階で、台湾軍には組織的反撃能力がなくなってしまう。中国政府はこの機を捉えて台湾政府に降伏勧告を突きつけ、台湾島内での地上戦を回避しようとするだろう。
 中国政府にとっては、台湾を併合することが究極目的である。将来統治する土地で地上戦を繰り広げるのが得策でないことは、古今東西の歴史が物語っている。


◎「戦わずして勝つ」が中国の伝統
 
現時点でも、中国軍は中国本土から台湾に打ち込める短距離弾道ミサイルを800~1000発、長距離巡航ミサイルを1000発以上は保有している。また、それらに加えてミサイル爆撃機や駆逐艦、それに潜水艦などから発射する対地攻撃用ミサイルも数百発保有している。
そのため、米軍関係戦略家たちの間で「短期激烈戦争」と呼ばれる、中国軍による敵(台湾や日本)に対する各種ミサイル集中連射攻撃により、3日といわず半日で敵の軍事拠点や戦略拠点は徹底的に破壊されてしまうだろう。

台湾には、中国による短期激烈戦争を跳ね返すだけの軍事力は備わっていない。また、「台湾関係法」によって台湾が侵攻された場合に備えて軍事的対抗能力を用意することを公言している米国といえども、そして、対中封じ込め戦略に転じたトランプ政権といえども、米中戦争を前提とした対中国軍事行動を即座に発動することは考えにくい。したがって、現状では、中国が台湾に対して短期激烈戦争を発動した場合、台湾は数時間にわたるミサイル集中攻撃によって中国の軍門に降る確率が極めて高いといわざるを得ない。
 
ということは、中国側にとっては、なにも実際にミサイルを発射する必要はない。「短期激烈戦争を発動する」と台湾政府を脅して、中国側の要求(とりあえずは「台湾の軍事外交権を中国共産党に明け渡せば、そのほかの自治的統治権と資本主義経済システムの維持は保証する」という要求)を台湾政府に呑ませることが可能になりつつあるのだ。「孫子」の伝統に立脚する中国軍事戦略にとって、「戦わずして勝つ」ことこそ最優先事項である。


◎台湾の危機は日本の危機
 
中国政府にとっては、もちろん台湾を完全に併合してしまうことが理想である。だが、古今東西の数多くの事例から、軍事侵攻を経た後の占領統治が容易ではないことは明らかだ。
 
そこで、「短期激烈戦争を発動する」という脅しによって台湾の軍事外交権を手中にし、香港マカオのような一国両制に持ち込めば、軍事的には「戦わずして勝つ」ことになる。

なんといっても、台湾に中国人民解放軍の航空基地や海軍基地を設置するとともに各種ミサイル部隊を配備すれば、南西諸島とりわけ先島諸島は中国軍の各種ミサイルの射程圏内にすっぽり収まり、台湾から飛来する中国軍爆撃機や攻撃機のほうが沖縄から飛来する自衛隊機よりも「距離の優位」を手にすることになる。また、台湾東部に中国海軍基地を設置し、潜水艦や水上戦闘艦を直接太平洋に送り出せるようになれば、沖縄周辺海域の日米海軍艦艇を東シナ海側と西太平洋側から挟撃することも可能になる。中国海軍は直接太平洋に出動できるようになる
 
日本の国防にとっては、台湾が中国人民解放軍に占領されて完全に中国に併合されてしまおうが、台湾政府が「短期激烈戦争」発動の脅しに屈して中国政府に軍事外交権を明け渡してしまおうが、いずれにしても極めて深刻な状況に直面することになる。王洪光中将のメッセージは、台湾とアメリカに対してだけではなく、日本にも向けられているのだ。













「ベトナムが韓国の戦争犯罪を今も黙殺する理由」

2018-04-06 06:01:39 | 日本

中野亜里(大東文化大学国際関係学部教授)が「ベトナムが韓国の戦争犯罪を今も黙殺する理由」について掲載している。
以下、要約し記す。



ある国が他の国をどのような名称で呼んでいるか、というところに国家同士の関係性が表れることがある。ベトナムが韓国に対して用いてきた国名の表記は、その典型的な例だろう。
 
ベトナムと朝鮮半島は、いずれも冷戦期に2つの陣営に分断され、北に共産主義(社会主義)政権、南に親米政権が成立し、同じ民族の間で悲惨な戦争が繰り広げられたという共通の歴史をもつ。ベトナムでは、1975年に北が南を武力制圧する形で戦争が終結し、ハノイを首都とする北ベトナムの共産党政府主導の下、現在のベトナム社会主義共和国が成立した。ベトナム共産党政府は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と1950年に国交を樹立しており、一貫して同国を朝鮮半島の正統な国家と認めてきた。したがって、ベトナムにとって「朝鮮」とは北朝鮮を意味し、「北」を付けて呼ぶことはない。一方、韓国を指すときの名称は、ベトナムの対外政策とともに変化してきた。
 
ベトナム戦争期の1963年から1973年までに、米国の同盟国である韓国からも30万人を超える兵士が南ベトナムに派遣された。韓国軍の戦死者は約5000人とされているが、韓国兵に虐殺されたベトナムの民間人は、5000人とも9000人とも伝えられている。韓国兵は「ダイハン(大韓)」と呼ばれ、米兵以上に勇猛で残虐なことで知られていた。
 
韓国兵とベトナム人女性との間に生まれた子供は「ライダイハン(大韓との混血児)」と呼ばれ、正確な数は不明だが、数千人に及ぶとされている。中には韓国兵による性的暴行の結果、生まれた子供もいるという。そのような背景からも、南北統一後にベトナム政府がかつての敵の呼称「大韓」を用いることはなく、韓国は「南朝鮮」と呼ばれていた。

その韓国は、今やベトナムにとって最大の友好国の1つである。政治・安全保障面では、韓越の関係は2009年に「戦略的協力パートナー」と認定された。両国間では、2012年から国防次官級対話が定期的に開催され、軍事・防衛協力が進められている。中国が南シナ海で軍事的行動を拡大している現在、ベトナム共産党政府にとって韓国は、日本と並ぶ重要な戦略パートナーである。経済面では、2015年12月に両国の自由貿易協定(VKFTA)が発行したことを契機に、貿易が著しく増加した。

2016年のベトナムから韓国への輸出は114億1900万ドルで、米国、中国、日本に次ぐ第4位、全体の6.5%を占める。輸出の伸び率は、中国へのそれに匹敵する27.8%に及んでいる。韓国からの輸入は320億3400万ドルで、中国に次いで第2位、全体の18.4%である。輸入品目の第1位である機械設備も、第2位のコンピューター・電子製品も、韓国からの輸入が20%を超える。同年のベトナムへの直接投資でも、韓国は1263件、68億9600万ドルで第1位(日本は第2位)で、投資件数全体の32.7%、金額全体の30.8%に及ぶ(JETRO世界貿易投資報告、最終アクセス2017年12月17日)。

このような韓越の関係は、両国の公的な歴史認識にも影響を及ぼしている。伊藤正子の研究によれば、1990年代末から、韓国のメディアや非政府組織(NGO)によって、韓国兵によるベトナム人に対する虐殺・暴行の事実が明らかにされ、両国の市民レベルで歴史を見直し、和解と平和をめざす活動が進められた。しかし、両国の政府は、過去の歴史が韓越関係の障害になることを避けるため、国内の報道や市民活動を規制する措置をとった(伊藤正子『戦争記憶の政治学─韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』平凡社、2013年より)。

2017年9月、イギリスの市民活動家ピーター・キャロル氏の呼びかけにより、ロンドンで市民団体「ライダイハンのための正義」が設立され、ライダイハンへの支援や事実関係の調査が行われることになった。韓国の国内、特に軍関係者の間では、ベトナム戦争への派兵は、共産主義に対して自由世界を守った正義の行為であり、「武勇伝」として語られている。ベトナム共産党政府も韓国との関係を重視し、それに影を落とすような過去の事実は黙殺する態度をとっている。
 
韓国では、市民が国家の方針と異なる意見を発信したり、政府に批判的な活動をしたりすることは自由だが、ベトナムで共産党の指導に異を唱えることは難しい。党の公的な歴史認識から外れる言論や行動は、「敵の諸勢力」と結託した「反国家宣伝」「人民政権転覆の陰謀」として、刑法による処罰の対象となることもある。このような形での市民権の制限が欧米諸国から批判されると、ベトナム共産党政府は、社会主義体制の崩壊をもくろむ「和平演変」とみなして反発する。
 
現在のベトナムの公的史観は、「共産党の常に正しい指導」による社会主義革命と民族解放闘争の歴史に沿ったものであり、勝者の側から語られる物語である。一方、韓国軍に虐殺・暴行された人々は、共産党の敵であった南ベトナム地域の住民で、党の「輝かしい勝利」には貢献しなかった人々である。南北統一後、ベトナム共産党政府は南部の市民、宗教者、少数民族などによる、党から独立した活動を警戒し、厳しく統制してきた。韓国軍による虐殺・暴行についても、諸外国の働きかけで南部の人々が自発的に史実を検証し、その情報が国内と国際社会で共有されることは、ベトナム共産党政府にとって警戒すべきことなのである。

現在のベトナム共産党政府は、もはや過去の民族解放の実績だけでは支配の正当性を主張できない。経済発展の実績のみが共産党支配の正当性のよりどころであり、体制維持に不可欠の条件である。そのため、韓国を含む資本主義諸国との経済関係を拡大することが、自国民の意思よりも優先されるのである。「南朝鮮」を敵視する路線から、「韓国」と歩み寄る路線に転換した国家は、「ライダイハンのための正義」に対してどのような態度をとるのだろうか。




 










「ベトナムの韓国大使館前に「ライダイハン母子像」建立計画」

2018-04-05 05:56:30 | 日本

『NEWSポストセブン』 週刊ポスト 2017年10月6日号が「ベトナムの韓国大使館前に「ライダイハン母子像」建立計画」について掲載している。
以下、要約し記す。

誰もが加害者にもなり、被害者にもなり得る、それが戦争だ。その二面性に、あらゆる国家が苦しんできた。その本質に目を背け、ただ被害者だけを装い続ける隣国の矛盾が、ついに露呈した。
 
「最終的かつ不可逆的な解決」を謳った慰安婦問題の日韓合意を「国民の大多数が受け入れられない」と蒸し返す韓国の文在寅・大統領。その文氏を巨大な“ブーメラン”が襲った。
 
 この9月12日、イギリスの市民活動家、ピーター・キャロル氏の呼びかけで、ロンドンで民間団体「ライダイハンのための正義」が設立されたのだ。
 
「ライ」はベトナム語で「混血」、「ダイハン」は「韓国」を意味する。韓国はベトナム戦争(1960~75年)当時、アメリカを支援して延べ34万人の兵士を送り込んだ。だが、彼らは現地で多くの強姦事件や民間人虐殺を繰り広げた。ライダイハンとは、韓国兵による強姦などによって生まれた子供たちのことであり、ベトナム戦争終結後、ほとんどが置き去りにされた。その数は推計で数千~3万人とも言われる。
 
韓国政府はこれまで、この問題に関する公式の謝罪や賠償は一切行なってこなかった。それどころか、これに触れること自体、韓国ではタブーとされてきた。それが今、支援団体の設立によって国際社会に晒されようとしているのだ。
 
ロンドン市内で開かれた同団体の設立イベントにはジャック・ストロー元外相も出席した。公式サイトには、設立趣旨としてこう書かれている。
 
〈混血の子供たちはライダイハンとして知られ、今日でも日陰の生活を送っている。われわれは、このような形で食い物にされたすべてのベトナム人女性のため、ライダイハンの子供たちのため、そして、彼らが当然受けるべき存在の認知と尊重のために戦う〉
 
さらに、同団体のメンバーで英国人ジャーナリストのシャロン・ヘンドリー氏は、レイプ被害者やライダイハンの子供たちへの聞き取り調査を英インディペンデント紙(9月11日付)に寄稿した。そこでは韓国軍司令官の家で食事を作る手伝いをしていた10代の女性がレイプされた事例や、子供たちが学校で“犬の子”と呼ばれて差別を受けている実態をレポートしている。
 
ヘンドリー氏は、〈韓国政府は決して韓国兵が行なった行為を認めず、調査すらしない〉と、韓国政府の姿勢を批判している。
 
韓国の戦争犯罪を糾弾する市民団体が、まさかイギリスで誕生するなど、文大統領は夢にも思わなかったのではないか。
 
韓国での報道は一切なし
 
韓国の国際的地位を揺るがしかねないこのニュースを、韓国メディアはどう報じたのか。新聞等の主要メディアを確認した限り、驚くことに取り扱ったメディアは1つもなかった。文大統領はじめ政府側も、一切コメントを出していない。それだけこの問題のタブー性は強いということだ。
かつて韓国のリベラル系週刊誌「ハンギョレ21」が、ベトナム戦争でのレイプや虐殺の実態を告発するキャンペーンを行なったところ、退役軍人団体の「枯葉剤戦友会」が激怒し、2000年6月にメンバーらがソウルのハンギョレ本社を襲撃、印刷施設や自動車、パソコンを破壊するという事件が起き、韓国社会を震撼させた。
 
枯葉剤戦友会は、ベトナム戦争で米軍の撒いた枯葉剤の被害を受けたと称する退役軍人の組織で、全国に16支部、会員数約13万人を誇る韓国でも有数の圧力団体である。彼らにとってベトナム戦争での韓国軍はあくまで「被害を受けながら立派に戦った国家の英雄」でなければならず、蛮行の歴史などあってはならない。だからこそ、ライダイハンの問題には徹底した言論弾圧を行なう。
 
こうした団体が存在しているために、韓国メディアは、韓国軍によるベトナム民間人虐殺をタブーとして扱い、ほとんど報じてこなかった。しかし、今回の市民団体の設立は、その状況を変える可能性がある。韓国問題に詳しいジャーナリストの前川惠司氏はこう言う。

「今まで慰安婦問題で日本を批判し続けてきたのに、実はベトナムで韓国軍は、韓国がいうところの慰安婦の強制連行に、中国がいうところの南京大虐殺を一緒にしたような残虐行為を繰り広げていたということが分かってしまった。しかも、日本の慰安婦問題には強制連行の証拠が見つからなかったのに対し、レイプ被害者と数千人から数万人のライダイハンという証拠が存在するので否定しようがなく、“いままで慰安婦で騒いでいたのは何だったのか”となりかねない。
 
韓国はこれまで、加害者としての側面を隠しながら被害者の側面だけを強調するという危ない橋を渡ってきたわけですが、国際社会に見つかったことによって、ついに足を踏み外しかけているという状況ではないか」
 
しかも韓国はこれまで、日韓の慰安婦問題を国連などに訴え、国際社会を巻き込もうとしてきた。いまも韓国政府は中国と連携して慰安婦関連の資料をユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録しようと働きかけ、アメリカでも在米韓国人を通じて、各地に慰安婦像を建立している。
 
だが、韓国が訴えようとした国際社会は今、韓国のライダイハンに目を向け始めた。これに対処しなければ、慰安婦を国際問題化してきたこれまでの姿勢と矛盾することになる。文大統領が慰安婦問題を蒸し返したことが、自らを窮地に追い込んでいるのだ。
 
イギリスの市民団体では、被害女性とその子供たちをモデルにした「ライダイハン像」を制作し、在ベトナム韓国大使館前などに設置することを検討しているという。韓国政府はどう対応し、韓国メディアはどう報じるか。














「米韓両大統領を手玉に取とる金正恩の腹の内②」

2018-04-04 07:44:37 | 日本

●金委員長は、「やり手の成熟した政治家」である。
 
2018年1月11日、ロシアのプーチン大統領は、金委員長について「やり手の成熟した政治家」であると、ロシアの記者団との会合で語った。
 
また、龍谷大学社会学部の李相哲教授は、金体制を支える側近の存在について次のように述べている。
 
「北朝鮮の外交現場で働く実務者はここ30~40年、顔ぶれがほとんど変わっていない。これは、金委員長が外交ラインを粛清していないためで、トランプ大統領の発言や中国の動向なども、その真意は何かということが彼らには手に取るように分かる」
 
「大国に対して先手を打つような外交ができるのである。外交素人のトランプ大統領や韓国の文大統領などに比べて、北朝鮮が最もうまく立ち回れているのはこのためである」


●トランプ大統領の「ディール外交」は北朝鮮に通用しない。
 
トランプ大統領が展開する交渉術は「相手のペースを乱し不安に陥れ、自分を強者であると印象づける」ことであると言われる。
 
トランプ大統領は貿易相手の日本や中国などに対しては独特な外交術を駆使してきた。ところが北朝鮮は厄介な相手である。
 
なぜなら、北朝鮮は対外経済規模が小さいうえに米国との貿易は皆無である。さらに、1990年代の北朝鮮は未曽有のエネルギー難、食糧難に陥ったが、それに打ち勝った歴史を持っているように、北朝鮮は「制裁慣れ」している。
 これまでのところ、トランプ大統領の「ディール外交」は北朝鮮に通用していないようである。


●北朝鮮の「非核化」などの約束は裏切りの歴史である。
 
歴史は繰り返すという。情報分析に際して留意すべきことは、「歴史は繰り返すのか」とい疑問を自分自身に投げかけることである。
 
1992年、北朝鮮は韓国との間で「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」に署名し、核兵器を保有しないことを確認した。
 
しかし、北朝鮮は翌年に核開発を疑った国際原子力機関(IAEA)による特別査察を拒否し、核拡散防止条約(NPT)脱退を表明した。
 
1994年10月の米朝枠組み合意では、北朝鮮が核施設を凍結・解体することを約束したが、2002年10月、ウラン濃縮による核開発を秘密裏に進めていることを認めて、同合意を破棄した。

2012年2月、食糧支援と引き換えに核実験と長距離弾道ミサイル発射、ウラン濃縮活動をオバマ政権と合意したが、2か月後に人工衛星と称してミサイル発射を強行などして一方的に合意を破棄した。
 
我が国においても、拉致問題に関して、これまで北朝鮮には何度も煮え湯を飲まされてきた歴史がある。
 

次に、金委員長が豹変した“狙い”を推定する。上記のピース(断片情報)から次のことが推測される。

●金委員長の究極の目標は核を保有した北朝鮮主導による南北統一である。従って、今回の事象は南北統一に向かっての環境整備である。

●北朝鮮に宥和的である文氏が政権にある今がチャンスである。

●米韓同盟(米韓相互防衛条約)が存在する限り、文政権の政策選択の自由度は制約される。従って、米朝の関係正常化を図り、米国の朝鮮半島への関与を弱めさせる。
 
米朝の緊張関係が改善すれば、南北統一は内政問題であると主張することにより米国をはじめ諸外国の介入を阻止することができる。

●歴代の大統領の中で最低の支持率を記録し、国民に不人気なトランプ大統領は、11月の中間選挙を控え、実績を作りたいと躍起である。そこで、金委員長はトランプ大統領に「非核化」という餌を与えれば簡単に食いついてくると考え、今回の会談を仕かけた。
 
また、北朝鮮は、米国内の北朝鮮に対する非核化政策が一枚岩でないことに乗じて、自国が核保有国であるという立場を主張し、非核化交渉を北朝鮮の思惑通りに進める。例えば、米国に届く弾道ミサイルの破棄というレベルで合意する。

●南北関係の改善、米朝関係の正常化が達成したとしても、48倍もの経済格差のある韓国に対し、民主的なプロセスによる北朝鮮主導による南北統一は困難である。
従って、武力(核兵器を含む)による威嚇やサイバー攻撃(SNSによるプロパガンダを含む)、工作員による破壊活動などにより韓国社会の混乱を作為し、北朝鮮に優位な立場を構築しつつ、統一プロセスを有利に進める。
 
以上の推測から金委員長の狙いを推定すれば、「韓国との関係改善と米国との関係正常化を図り、その先に核を保有した北朝鮮主導の祖国統一を目指している」ということである。
 
筆者の全くの憶測であるが、金委員長の目論む統一プロセスとは次のようなものであろう。
 
初めに、2つの体制を当分の間維持したまま「高麗連邦共和国」創設のための2つの政府代表からなる最高民族委員会を組織する。
 
次に最高民族委員会を北朝鮮の支配下に置く。そして、連邦国家でなく一気に「高麗共和国」という単一国家を創設するのである。元首は当然金正恩ということになる。
 
日本とって最悪なシナリオは核を保有した統一朝鮮の出現である。北朝鮮の核保有が「朝鮮半島の統一が目的」であるとすれば、北朝鮮は統一まで核を決して放棄しないであろう。
 
そして、統一を達成した後に、統一朝鮮に核放棄の圧力をかける米・中国・ロシアのような強大国がいなければ統一朝鮮が核を放棄する可能性は極めて少ない。
 
核を保有した統一朝鮮は、日本にとって大きな軍事的脅威であるとともに、国内外に日本の核武装を巡る議論が巻き起こり、国論が二分される可能性が極めて大きい。
 
現時点においては、日本政府には朝鮮半島からすべての核兵器(核弾頭・弾道ミサイル)の破棄をトランプ政権に頼るしかすべがない。しかし、トランプ政権の閣僚の辞任・罷免が後を絶たずその政権運営は不安定である。
 
このため、トランプ政権が北朝鮮の核武装容認を前提とした対話に転じる可能性や日本の同意なしで先制攻撃に踏み切る可能性も否定できない。
 
それゆえ、日本は米国と協力し、時には米国を粘り強く説得し朝鮮半島の「完全かつ検証可能、そして不可逆的な非核化」を求めていく外交を成功させなければならない。
 
今まさに日本外交の真価が問われているのである。













「米韓両大統領を手玉に取とる金正恩の腹の内①」

2018-04-03 05:59:33 | 日本

横山恭三さんが「米韓両大統領を手玉に取とる金正恩の腹の内」と題して掲載している。
なかなか興味深いので、要約し学ぶ。



北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が1月1日、平昌冬季五輪への参加に前向きな意向を示し、対話姿勢に転じて以来、わずか2カ月余りで南北首脳会談、米朝首脳会談の開催が立て続けに決まった。

北朝鮮は、国際社会の警告を無視して核実験やミサイル発射を強行してきた。新型弾道ミサイル「火星15」型の発射成功を発表した2017年11月29日の声明の中で、金委員長は、米国本土全域が攻撃可能だと主張し、「核武力完成」を宣言した。
 その金委員長は、韓国の文在寅大統領の特使団に対して、北朝鮮への軍事的脅威が解消されて体制が保証されれば、「核を保有する理由がない」との考えを明言し、非核化や関係改善に向けて米国と「虚心坦懐に対話する用意がある」とした。

そのうえで、米朝対話が継続する間は新たな核実験や弾道ミサイル発射などの軍事挑発をやめる方針を明確にした。また、韓国側に軍事行動を起こさないことも確約した。
 金委員長があれほど強硬な態度を転換した理由について、経済制裁が功を奏したとする「見立て」が一般的だが、ほかにも米軍の武力攻撃を恐れた(辺真一氏)、中国の北朝鮮への軍事介入を恐れた(寺島実郎氏)などの見立てがある。
 
どの見立てが当たっているかは金委員長本人に聞かなければ分からないが、いずれの見立ても大きな間違いを起こしていることを筆者は指摘したい。
 
それは、いずれの見立ても金委員長が何かを恐れて態度を転換したとしていることである。
経済制裁が功を奏したという見立てにしても、つまるところ経済制裁を受け困窮した民衆や軍部の反乱・抵抗を金委員長が恐れているということであろう。
 
ちなみに筆者の見立ては、何かを恐れて受動的に態度を転換したのでなく、核保有国としての立場を背景に親北文政権との南北関係の改善および外交での実績を渇望する米ドナルド・トランプ政権との米朝関係の正常化交渉の好機と見て、能動的に態度を転換した、というものである。
 
脳科学者の中野信子氏の著書『サイコパス』には、「サイコパスには、感情を伴う共感はない、恐怖・不安を感じにくい、ハイリスク・ハイリターンを好む」などのサイコパスの特徴が記載されている。
金委員長のこれまでの言動・行為を見れば、金委員長がサイコパスの典型であることは自明である。金委員長が、ウサマ・ビンラディンの殺害作戦のような斬首作戦を警戒しているのかもしれないが、恐れてはいない。

かつてNHKが放映した「ハノイ対話」の中で、ベトナム戦争当時国防長官だったマクナマラ氏は、北爆を続ければ、北ベトナム政府は多数の犠牲者に耐えきれず交渉に応じると思っていたが、かえって抵抗が強くなったという主旨のことを語っていたと筆者は記憶している。
 
情報分析に際して留意すべきことは、「相手(ここでは金委員長)が我々と同じ考え方をするのであろうか」という疑問を自分自身に投げかけることである。
 
ここで「北朝鮮に対する米軍の武力攻撃」について述べてみたい。


◎東京とソウルで210万人が被害に
 
日本・韓国も、ある意味で米軍の北朝鮮への武力攻撃を恐れている。トランプ米大統領の行動は予測できない。トランプ大統領は、米議会に諮らず、日本・韓国の同意を得ずに、いきなり北朝鮮を攻撃しかねない。
 
その結果、北朝鮮の反撃により日本・韓国が大きな被害をこうむることになる。 昨年10月に米ジョンズ・ホプキンス大の北朝鮮分析サイト「38ノース」が公表した予測では、北朝鮮が核ミサイルで反撃したら「東京とソウルで計210万人が死亡」というものだった。この被害の大きさが、北朝鮮に対する最大限の圧力を弱める要因ともなっている。

さて、金委員長が豹変した狙いは何であるか。それを探るには様々な方面(情報源)から得られるジグソーパズルのピースをつなぎ合わせて真相にたどりつく作業が必要となる。
 
筆者が接することができる情報は公刊情報(オープンソース)だけに限られている。公刊情報だけでどれだけ真相に近づけるかということはあろうが、批判覚悟で、この課題に取り組んでみたい。以下、いくつかのピースを述べる。


●北朝鮮の核保有は「朝鮮半島の統一が目的」

2018年1月23日、ワシントン市内の政策研究機関「アメリカン・エンタープライズ政策研究所」で講演した米中央情報局(CIA)のポンペオ長官(当時)は北朝鮮の金正恩体制による核・弾道ミサイル開発の目的について、米国からの抑止力確保や体制維持にとどまらず、「自らの主導による朝鮮半島の再統一(原文ではreunification)という究極の目標に向けて核兵器を活用しようとしている」との認識を明らかにした。
 
この情報は、諜報に接することができない筆者には極めて貴重なものである。
また、同長官は、米情報機関による北朝鮮関連の情報収集能力がこの1年間で大幅に向上していると強調した。これは、上記の情報が北朝鮮内部からもたらされた可能性を示唆している。


●北朝鮮は草の根を食べることになっても、核プログラムを中断しない。
 北朝鮮の「朝鮮中央通信」は、2016年1月8日、国際社会の圧力で核開発を放棄したイラクのフセイン政権とリビアのカダフィ政権について「制度転覆を企図する米国と西側の圧力に屈し、あちこち引きずられ核開発の土台を完全に潰され、自ら核を放棄したため破滅の運命を避けることができなかった」と言及した。
 
また、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、2017年9月5日、記者会見の中で、「北朝鮮は草の根を食べることになっても体制が安全だと感じられない限り、核プログラムを中断することはないだろう」、「北朝鮮が、このこと(フセイン政権とカダフィ政権の悲惨な最期)をよく知っている状況で、いかなる制裁も効果がなく非効率的」であると述べた。


●祖国統一は金日成主席の遺訓
 
儒教の影響が強い北朝鮮では、先代の指導者が残した遺訓を徹底して貫徹することを、後継者や継承者の最高の徳目としている。
 
金日成、金正日が残した最大の遺訓は、北朝鮮主導による祖国統一である。そして、北朝鮮は,「在韓米軍」が朝鮮半島の統一に対する最大の障害であると見ている。
 
一方、韓国にとって統一は「民族の悲願」である。
文氏は、かつて金大中氏の命日である8月18日に演説し、「なぜ、金大中氏の目指した南北朝鮮の連邦政府は実現していないのか。私は絶対に実現させて御意志に応えます」と述べた。


●「新北勢力」が青瓦台(大統領府)を占拠
 
元駐日韓国大使館公使の洪ヒョン氏は、政務職はもちろん、中央省庁の局長・課長級に該当する秘書官とその他の行政官のほとんどは金日成主義である「主体思想」を学習した者であり、彼らは、「韓国そのものを平壌に捧げよう」という強い信念を持つ親北勢力であると述べている。
 
また、文政権は、金大中、盧武鉉政府の対北朝鮮政策(太陽政策と対北朝鮮抱擁政策)を継承することを明言している。


●米国の北朝鮮の非核化政策は一枚岩でない。
 
トランプ政権は「核・ミサイル開発の放棄」を対話の前提条件としているが、現・元政府高官からはこれと異なる発言がなされている。
 
レックス・ティラーソン前国務長官は昨年12月12日、ワシントンでの講演で「前提条件なしで北朝鮮との最初の会議を開く用意がある」と述べた。この発言は直ちに取り消されたが、北朝鮮の核武装を容認するとも取れる発言である。
 また、米バラク・オバマ政権で大統領補佐官をつとめたスーザン・ライス氏は、昨年8月10日付米ニューヨーク・タイムズ紙への寄稿で「必要であれば、我々は北朝鮮の核兵器を容認できる」「歴史的に見れば、冷戦時代に旧ソ連の何千という核兵器の脅威を容認したのと同様だ」と述べた。
 
さらに、「金正恩氏が政権存続のために不可欠と考えていることから、北朝鮮が保有する兵器を放棄する見込みはほとんどない」と記述している。











「仮想通貨以外のブロックチェーン応用例が動き出す」

2018-04-02 05:56:00 | 日本

栗原 雅さんが「仮想通貨以外のブロックチェーン応用例が動き出す」と題して掲載している。
以下、要約し学ぶ。



利用した電力のうち、風力や太陽光などの再生可能エネルギーの内訳がわかるサービスにもブロックチェーン技術が利用されている

「ブロックチェーン」は、主に仮想通貨を支える技術として知られているが、金融とはまったく別の領域でブロックチェーンを応用する取り組みが動きはじめている。
 
ブロックチェーンは、分散情報処理技術の一つである。「分散型台帳技術」とも呼ばれ、ある程度まとまった件数の処理(トランザクション)の履歴を「ブロック」と呼ぶ台帳に記録し、その台帳をネットワーク上に分散した複数のコンピュータが持ち合って管理する。新たな台帳を作成する際、それまでの履歴を記録した台帳の内容を完全に引き継ぎながら、数珠つなぎで台帳を連結していく。

一部のコンピュータに障害が発生しても他のコンピュータに台帳が残るので、正常に処理を継続できる。また、台帳の内容を次々と引き継ぎ、たくさんのコンピュータが台帳間の整合性を保った状態で分散管理するため、データの改ざんは事実上不可能だとされる。このようなブロックチェーンの利点は、仮想通貨以外にも幅広く活用できるもので、数多くの企業が実用化に向けて実証実験やサービス開始に乗り出している。


◎公正で透明性の高い投票システムが可能に
 
ソフト開発のインフォテリアは投票システムにブロックチェーン技術を導入しようとしている。同社は2017年6月の定時株主総会で、ブロックチェーンを使った株主投票システムを用意。定款の一部変更と取締役選任の議案について、実験に参加した株主と模擬株主が、各々の議決権を行使して賛否を投票する実証実験を実施した。
 
あくまで実験という位置付けなので投票結果を議決に反映しなかったが、いったん記録した情報の改ざんが難しいというブロックチェーンの技術的な特徴を生かし、総会主催者であるインフォテリアでもデータを改ざんできない公正かつ高い透明性を備えた投票システムの確立が可能なことが確認できたという。投票期間を設けて24時間投票を受け付ける、票数をリアルタイムで集計する、などが可能な利点もあり、将来的には上場企業の株主総会の投票だけでなく、国政選挙や地方選挙への展開も見込んでいる。


◎誤配送や商品紛失を防ぐ
 
ファッションビル大手パルコが2017年5月末から6月上旬にかけて、セゾン情報システムズなどと共同で実施したのが、本人認証や施錠・解錠をブロックチェーンでコントロールする宅配ボックスの実証実験である。パルコが運営するネット通販の商品受け渡しを想定したものだ。

宅配業者などが宅配ボックスに商品を納めて施錠すると、受取人の情報がブロックチェーンに記録される。その後、記録された「本人」だけが宅配ボックスを解錠できる、という仕組みで、誤配送や盗難による商品の紛失を防ぐことができる。注文から宅配ボックスへの収納・施錠、解錠・受け渡しまで一連の処理の情報を、改ざんが困難なブロックチェーンに記録することで、取引の正確性や安全性を高めやすくなると期待している。


◎消費した電力の発電元を利用者が確認できる
 
ブロックチェーンを活用した新たな挑戦として目を引くのは、小売電気事業者(新電力)であるみんな電力の取り組みだ。既存の手続きやビジネスにブロックチェーンを適用した上述の例と異なり、従来できなかったことをブロックチェーンで実現する。具体的には、電気に“色付け”して、再生可能エネルギーの取引に役立てようとしている。
 
多くの新電力が新規の契約獲得を目指して料金競争を繰り広げる中、みんな電力は「価格競争終了宣言」を打ち出すなど異彩を放っている。同社は「日本一透明な電気料金」をうたい、電気料金の根拠となる基本料金や従量料金の内訳を、自社のWebサイトで明らかにしている。
 
そんなユニークな戦略を採るみんな電力が今、急ピッチで開発を進めているのが、ブロックチェーンで仮想的に電気に色付けする電力取引プラットフォーム「ENECTION 2.0」である。
 
当たり前のことだが、電力会社からオフィスや工場、家庭に届く電気に色はない。つまり、電線を通って送られてくる電気が火力発電所のものか、太陽光発電や風力発電など再生可能エネルギー(再エネ)電源に由来するものかは、区別できない。それを区別できるようにするのがENECTION 2.0だ。
 
ENECTION 2.0では、発電事業者が発電した電気の量を証明する電子証書「電気トークン」を発行する。たとえば50kWhの電気に対し、50単位分の電気トークンを発行するイメージだ。
発行した電気トークンは、みんな電力が用意するバーチャルな電力取引所で発電事業者と需要家が取引し、ブロックチェーンに記録する。その記録を基に電気トークンの取引履歴をたどっていくと、どの発電事業者の電気かと、最終的な行き先(需要家)が1対1で特定できるようになる仕組みである。
 
みんな電力はENECTION 2.0を活用したサービスの第1弾として、環境意識が高い企業や地方自治体向けに、再生可能エネルギー(再エネ)電源由来の電気を供給する発電事業者と需要家を1対1で紐づける「電源トラッキング」を、2018年秋にも始める。発電事業者の電源と、オフィスや工場、店舗のスマートメーターからそれぞれ発電量と使用量の実績データを取り込む。そして企業や自治体が実際に使った電気の量に相当する電気トークンを、発電事業者から自動で振り分ける。
 
再エネ電源に由来する電気が、電線の中で他の電源の電気と一緒になってオフィスや店舗に届けられることには変わりがない。しかし、みんな電力がブロックチェーンに記録された電気トークンの取引履歴に基づいてENECTION 2.0で発行する月間の取引実績を参照することで、企業や自治体は再エネの使用状況を仮想的に把握できる。
企業と個人が余剰電力を直接取引できるサービスも
 
2019年にはENECTION 2.0のサービス第2弾として、再エネ電源由来の余剰電力シェアリングサービスを計画している。家庭用太陽光発電の固定価格買い取り制度(FIT)が2019年度末に終了し、約50万世帯が余剰電力の価格を自ら決めて売り先を探さなければならなくなる見通しだ。みんな電力はFIT期限切れになる電気に対して、ENECTION 2.0で「みんでんトークン(仮称)」を発行。企業と個人が余剰電力を直接取引できるようにする考えだ。

翌2020年を想定した第3弾では、海外で脚光を浴び始めている「バーチャルPPA(Power Purchase Agreement)」と呼ぶサービスの提供を視野に入れている。発電事業者の再エネ電源に投資した企業へ、ENECTION 2.0で「電源トークン(仮称)」を発行。企業は当該電源から、電源トークンに見合う量の電気を中長期的に使用する権利を得る。発電事業者は設備投資の資金調達がやりやすくなり、企業は環境負荷低減に向けた取り組みを促進しやすくなる。









「同居と一人暮らしはどっちが得? 生活者の損得意識」

2018-04-01 07:12:01 | 日本

三矢正浩さんが「同居と一人暮らしはどっちが得? 生活者の損得意識」について掲載している。
以下、要約し記す。



◎高齢男女で温度差・・・「一人暮らし」の損得

生活がいろいろと変化するこの季節に合わせて、住まいや働き方などにスポットを当て、調査結果を紹介したいと思います。
 
まずは、この季節に大きく変化することが多い住環境について。
親元を離れたり、単身赴任があったりと、住まいの変化は生活単位の変化に結びつくことも。そこで、「家族との同居」「一人暮らし」の損得についてみてみます。家事の手間や生活費負担の度合い、生活の自由度などなど、さまざまな尺度が入り混じっての判断になるかと思いますが、結果はこうなりました。

・家族との同居は・・・
 得だ:80.6%
 損だ:19.4%

・一人暮らしは・・・
 得だ:46.7%
 損だ:53.3%

出典:博報堂生活総合研究所「お金に関する生活者意識調査」
(2017年11月、全国20〜69歳男女3600人、インターネット調査 ※以降出典同じ)
 
「家族との同居」では8割近くが得と答えているのに対して、「一人暮らし」ではスコア差は小さいですが、若干損が上回っています。損得意識の上では「家族と同居>一人暮らし」となりました。同居によって実現できる生活上の助け合いや費用軽減などのメリットと、自由さが多少損なわれるデメリットとを天秤にかけつつ、得だと感じている生活者が多いということでしょうか。
 なお「一人暮らし」のスコアについては、性年代でブレイクダウンすると、少し興味深い結果が見えてきました。男性では、20代から60代へと年代が上がっていくにつれて、一人暮らしを得だと思う割合が急激に下がっていきます。が、その一方で、女性は年代が上昇しても損得のスコアはあまり大きく変化していません。男女の60代を比較するとその差は大きく、

男性60代 得だ:29.5% 損だ:70.5%
女性60代 得だ:43.6% 損だ:56.4%
 
となっています。

若い男性には「得なもの」だった一人暮らしが、歳とともにだんだんと「損なもの」へと変わっていく。その要因には、加齢とともに、家事など日常生活のさまざまな部分で、配偶者など同居者に依存する気持ちが強まっていることなどが推察されます。世代的に「男性の片働き+専業主婦」の世帯が多いことの影響もあるでしょう。
 かたや女性のスコアが年代によって大きく変わらない要因には、「家事などは一通りできるし、やろうと思えば自分一人でも生きていける」と、そんな意識を持っている人が一定数いるということがうかがえます。
 ある一組の夫婦。夫は歳とともに「一人では生きられない」との気持ちを増していく一方で、妻は「一人で暮らしても構わない」との冷静さをずっとキープし続けている・・・。そんなことをイメージすると、「自分の妻はどうだろうか・・・」と、少しゾワゾワするものを覚えます。
 かつて、妻が定年後の夫に対して「粗大ごみ」「濡れ落ち葉」と揶揄する言い回しが話題になり、最近も「熟年離婚」の増加が報じられています。すれ違う高齢男女の内面が、「一人暮らし」の損得意識差からもなんとなく垣間見える、そんな調査結果となりました。


◎住まいの損得、生活者は「持ち家>賃貸」
 
さて住まいの変化にあたっては、「どこに住むのがよいのか?」に加えて、「家を買うべきか? 買わずに借りるべきか?」も大きな問題です。「持ち家は住宅ローン完済後に資産が残る」「いやいや、資産価値の乏しい古い物件が残るだけ」・・・と、この手の議論は尽きることがありません。
 
もちろん答えはその時々、置かれた状況によっても変わってくるかと思いますが、生活者の昨今の認識はどうなっているのでしょうか。

●持ち家VS賃貸

・家を買うことは・・・
 得だ:74.4%
 損だ:25.6%

・家を借りることは・・・
 得だ:33.4%
 損だ:66.6%
 
それぞれの損得意識をみると、「家を買う」については得との認識が大きく上回っているのに対して、「家を借りる」では正反対の結果。実に3分の2の人が損という認識を示しました。損得意識の上では「家を買う>家を借りる」という状況のようです。
 
戦後の高度成長期には、不動産価格が上昇を続けたこともあり、「住宅を所有することが将来の資産形成につながる」といういわゆる“マイホーム神話”が生まれ、住生活にも大きな影響を与えました。が、その後のバブル崩壊で土地の価格は大きく下落。さらに個人個人の働き方や人生設計が多様化していることもあり、近年では「持ち家はむしろリスク」という論調もよく目にするようになりました。
 
それでも「持ち家」に軍配を上げている生活者。かつての“マイホーム神話”が今も根強く残っているのか。あるいは昨今の低金利によって、住宅ローンを借りるメリットを感じやすくなっているのか。興味深いところです。


◎「働」の損得、「副業」は9割弱が得
 
新社会人、転勤、転職などなど、春は働くことについても大きな変化がある季節。ということで、働く・仕事に関する事柄についても、生活者の損得意識をみてみましょう。

●「働」の損得

・就職は・・・
 得だ:90.7%
 損だ:9.3%

・起業は・・・
 得だ:59.1%
 損だ:40.9%

・転職は・・・
 得だ:60.7%
 損だ:39.3%

・副業は・・・
 得だ:85.8%
 損だ:14.2%
 
まず、企業等で働き口を得る「就職」については9割が得との認識。一方で自ら立ち上げる「起業」については、得との回答は6割となりました。起業後にうまく行かなかったときのリスクの大きさを心配してか、損との回答がだいぶ高くなっています。
 
同様に「転職」も得が6割、損が4割との回答。「人生100年時代」「働き方の多様化」が盛んに言われる時勢ではありますが、心理的には皆が皆、働き方の変化やリスクを受け入れられるわけではない実態が見えてきます。
 
年代別にみていくと、「起業」では全年代を通じて損得スコアの変動はそれほど大きくありませんが、「転職」では年代が上がるにつれて得のスコアがゆるやかに低下(=損のスコアが上昇)。その結果、50代から60代にかけて、得のスコアで「起業」が「転職」を逆転します。転職市場での年齢的な有利不利や、現職での立場などを勘案すれば、歳とともに「転職=損」の意識が高まるのも自然なことなのでしょう。
 
ただ上述の「人生100年時代」の考え方にのっとれば、歳を重ねても「転職=得」の意識がキープされたり、むしろ高まっていったりするような働き方の枠組みづくりが求められるのかもしれません。
 
さてそんな中、得との回答が損を大きく上回っているのが「副業」。実に9割弱が得との認識で、全年代を通じて高い水準を保っています。本業を継続した状態で収入増につなげられるという“低リスク”イメージによるものからか、転職や起業よりだいぶ肯定的に捉えられている様子がうかがえます。
 
副業の形態は多岐に渡りますが、最近はフリマアプリをはじめとして、個人が自分のさまざまな“資産”を生かしてお金を得られるサービスが広がりを見せ、身近なものになってきています。
 
どの年代にも精神的ハードルの低い副業を通じて、一人ひとりが自分の“資産”に自覚的になり、かつそれを高めていく。そしてそのうちハードルの高い転職や起業などにも臆することなく向き合えるようになっていく・・・。と、やや理想論的かもしれませんが、そんな「人生100年時代」の描き方も、現実味を帯びてきているような気がします。