二宮尊徳について学ぶ。
二宮尊徳(にのみや たかのり)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、有職読みで「そんとく」と読まれることが多い。
経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。
◎生涯
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれる。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。
尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻とするが、離縁。次いで20歳若いが貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみ(波子)を娶った。後者は賢夫人と称される。子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいる。
◎幼少時代
当時の栢山村は小田原藩領であった。父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。そこに、金治郎が5歳の時の寛政3年(1791年)8月5日、南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失した。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する。
寛政9年(1797年)、父が眼病を患う。金治郎12歳の時、酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めるが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、自ら夜に草鞋を作って配布して献じた。この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻った。寛政12年(1800年)、父の病気が悪化し、9月に没する。母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けるが、乳張りがひどくて家に戻す。14歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てた。
享和2年(1802年)、貧困の中で母が亡くなった。まだ幼い2人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父)萬兵衛の家に身を寄せることとなった。しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった。
金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「灯油の無駄使い」として嫌い、しばしば口汚く罵られた。そこで金治郎は策を講じ、堤防にアブラナを植え、それで菜種油を取って燈油とした。また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得た。
文化元年(1804年)、萬兵衛の家を離れ、同村の親族・岡部伊助方に寄宿。この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿。さらにここで余耕の20俵を得て、文化3年(1806年)に家に戻り、20歳で生家の再興に着手する。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図った。しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなった。
生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。また体重は94kgあったと言われている。小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた。
◎青年時代
文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げた。その頃、小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼した。金治郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化11年(1814年)に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった。
文化13年(1816年)、前年に家に戻った友吉(常五郎)を萬兵衛の長男・三郎左衛門の養子とし、自らも最初の妻を娶った。文政元年(1818年)、藩主大久保忠真が孝子節婦奇特者の表彰を行った時に、その中に金治郎の名もあった。
文政2年(1819年)、生まればかりの長男が夭折。家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁した。翌年、34歳の金治郎は16歳のなみと再婚した。同年、忠真公が民間の建議を求めた際に、金治郎は貢米領収桝の改正を建言。これが採用されて斗量を改正した。また小田原藩士のための低利助貸法及び五常講を起こした。
文政4年(1821年)、二度目の伊勢詣でから戻った金治郎は、小田原藩主大久保家の分家・宇津家の旗本知行所であった下野国芳賀郡桜町が荒廃しているということで、その再興救済を藩主より命じられた。文政6年(1823年)、金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されて、桜町に移住して再建に着手した。
文政9年(1826年)には宇津家家臣・横山周平が同役勤番となって江戸に行ったため、金次郎が組頭格に昇進して桜町主席となった。再建は村民の抵抗にあって難航していたが、天保2年(1831年)には正米426俵を納める成果を上げるに至り、同5年には1,330俵を返納し、同7年には封地4,000石租900石の所を実収3,000石にまで増やしたので、分度(支出の限度)を2,000石に定めて再建を成し遂げた。その方法は報徳仕法として他の範となる。但しこれらの復興政策は必ずしも上手く行ったというわけではなく、村人らに反感を持たれたときは突然行方不明になった。間もなく成田山で断食修業していることが判明し、修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていたという。
◎晩年
天保3年(1832年)には桜町より三里先の常陸国真壁郡青木村の旗本川副勝三郎より依頼を受けて伝授。天保4年(1833年)には天保の大飢饉が関東を襲ったため、藩命で下野烏山の大久保領の領民を救済。天保5年(1834年)には谷田部細川家の家政を中村玄順を介して改善。
天保7年(1836年)、重病の忠真公により小田原に呼ばれ、功績を賞されると共に、飢饉にある小田原の救済を命じられる。駿河・相模・伊豆の三州の救済は緊急を要するということで金千両を与えられる。金次郎は小田原家臣と協議し、蔵米を放出して村々を救急。
天保9年(1838年)、石川氏の下館の所領1万3,000石が三分の一に減収していたのを復興し、3万金の借金を償却して、分度外の余剰500俵を出す。天保11年(1840年)、伊豆の代官江川氏の招きを受けて、田方郡多田弥次右衛門家を再興。
天保13年(1842年)、幕府に召し抱えられ、普請役格となって印旛沼開拓・利根川利水について二件の提案を行ったが、結局、それは採用されなかった。翌年、幕府直轄領(天領)下総大生郷村の仕法を命じられ、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられる。翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住。日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたが、3度目の病を発し、安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没した。
戒名は誠明院巧誉報徳中正居士。明治24年(1891年)11月16日に従四位が追贈されている。
◎逸話
尊徳に関しては多くの逸話が残っている。事実かどうか確認できないものも多いが、伝記などに多く記述される代表的な逸話には次のようなものがある。これらの逸話の多くは、弟子の富田高慶が著した尊徳の伝記『報徳記』を由来とする。ただし、尊徳自身は幼少期の頃について全く語らなかったため、高慶は村人から聞いた話を記したに過ぎず、これらの逸話については高慶自身も信憑性は保証できないとしている。
◎小田原時代
一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領していたのをこれで防いだ。
倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻した。
◎桜町時代
ナスを食べたところ、まだ夏の前なのに秋のナスの味がしたことから、その年は冷夏になることを予測。村人たちに指示して冷害に強いヒエを大量に植えさせた。尊徳が予測した通りその年は冷夏となり、天保の大飢饉が発生したが、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったおかげで餓死者が出なかったばかりか、余分のヒエを周辺の村々にも分け与えることができたという。
開墾して間もない田畑は、既存の田畑と比べて租税負担が軽いことに注目し、新しい田畑の開墾を積極的に奨励した。
村人たちの開墾作業を見回っていた時、一人の男が他の村人の何倍も激しい勢いで仕事をしている様子を見て、「そのような勢いで一日中働き続けられるはずがない。お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをして、陰では怠けているに違いない」と怒鳴り、村人たちの前で男の不正を厳しく叱ったという。
その一方で、年老いて無力ながらも陰日向なく真面目に働き、他の村人たちがやろうとしない木の切り株を掘り起こす面倒な作業を毎日地道に続けてきた出稼ぎの老人に対しては、開墾に邪魔な木の切り株を彼が全部取り除いてくれたおかげで他の村人たちの作業が容易になり開墾がはかどったという理由から、通常の賃金のほかに慰労金として15両もの大金を与えたという。