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「兵法書③」

2018-04-18 06:36:46 | 日本

【孫子 (書物)】



孫子の兵法書


孫子の著者とされる孫武の像。鳥取県湯梨浜町の燕趙園に立つ
『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。
『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。


◎構成

以下の13篇からなる。

計 篇 - 序論。戦争を決断する以前に考慮すべき事柄について述べる。
作戦篇 - 戦争準備計画について述べる。
謀攻篇 - 実際の戦闘に拠らずして、勝利を収める方法について述べる。
形 篇 - 攻撃と守備それぞれの態勢について述べる。
勢 篇 - 上述の態勢から生じる軍勢の勢いについて述べる。
虚実篇 - 戦争においていかに主導性を発揮するかについて述べる。
軍争篇 - 敵軍の機先を如何に制するかについて述べる。
九変篇 - 戦局の変化に臨機応変に対応するための9つの手立てについて述べる。
行軍篇 - 軍を進める上での注意事項について述べる。
地形篇 - 地形によって戦術を変更することを説く。
九地篇 - 9種類の地勢について説明し、それに応じた戦術を説く。
火攻篇 - 火攻め戦術について述べる。
用間篇 - 「間」とは間諜を指す。すなわちスパイ。敵情偵察の重要性を説く。

現存する『孫子』は以上からなるが、底本によって順番やタイトルが異なる。
上記の篇名とその順序は、1972年に中国山東省臨沂県銀雀山の前漢時代の墓から出土した竹簡に記されたもの(以下『竹簡孫子』)を元に、 竹簡で欠落しているものを『宋本十一家注孫子』によって補ったものである。
『竹簡孫子』のほうが原型に近いと考えられており、 『竹簡孫子』とそれ以外とでは、用間篇と火攻篇、虚実(実虚)篇と軍争篇が入れ替わっている。


◎全般的特徴

非好戦的 - 戦争を簡単に起こすことや、長期戦による国力消耗を戒める。この点について 老子思想との類縁性を指摘する研究もある。「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(謀攻篇)

現実主義 - 緻密な観察眼に基づき、戦争の様々な様相を区別し、それに対応した記述を行う。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」(謀攻篇)

主導権の重視 - 「善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず」(虚実篇)


◎戦争観

孫子は戦争を極めて深刻なものであると捉えていた。それは「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない)と説くように、戦争という一事象の中だけで考察するのではなく、あくまで国家運営と戦争との関係を俯瞰する政略・戦略を重視する姿勢から導き出されたものである。それは「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」といった言葉からもうかがえる。

また「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」(多少まずいやり方で短期決戦に出ることはあっても、長期戦に持ち込んで成功した例は知らない)ということばも、戦争長期化によって国家に与える経済的負担を憂慮するものである。この費用対効果的な発想も、国家と戦争の関係から発せられたものであると言えるだろう。孫子は、敵国を攻めた時は食料の輸送に莫大な費用がかかるから、食料は現地で調達すべきだとも言っている。
すなわち『孫子』が単なる兵法解説書の地位を脱し、今日まで普遍的な価値を有し続けているのは、目先の戦闘に勝利することに終始せず、こうした国家との関係から戦争を論ずる書の性格によるといえる。


◎戦略

『孫子』戦略論の特色は、「廟算」の重視にある。廟算とは開戦の前に廟堂(祖先祭祀の霊廟)で行われる軍議のことで、「算」とは敵味方の実情分析と比較を指す。では廟算とは敵味方の何を比較するのか。それは、

道 - 為政者と民とが一致団結するような政治や教化のあり方
天 - 天候などの自然
地 - 地形
将 - 戦争指導者の力量
法 - 軍の制度・軍規

の「五事」である。より具体的には以下の「七計」によって判断する。

敵味方、どちらの君主が人心を把握しているか。
将軍はどちらが優秀な人材であるか。
天の利・地の利はどちらの軍に有利か。
軍規はどちらがより厳格に守られているか。
軍隊はどちらが強力か。
兵卒の訓練は、どちらがよりなされているか。
信賞必罰はどちらがより明確に守られているか。

以上のような要素を戦前に比較し、十分な勝算が見込めるときに兵を起こすべきとする。
守屋洋は、孫子の兵法は以下の7つに集約されるとしている。
彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。
主導権を握って変幻自在に戦え。
事前に的確な見通しを立て、敵の無備を攻め、その不意を衝く。
敵と対峙するときは正(正攻法)の作戦を採用し、戦いは奇(奇襲)によって勝つ。
守勢のときはじっと鳴りをひそめ、攻勢のときは一気にたたみかける。
勝算があれば戦い、なければ戦わない。
兵力の分散と集中に注意し、たえず敵の状況に対応して変化する。
また、ジョン・ボイド は孫子の思想を以下のように捉えて機略戦を論考している。


◎現代戦略理論との関わり

現代の戦略理論であるゲーム理論で、以下のことが証明されている。すなわち、二人零和有限確定完全情報ゲームの解は、ミニマックス理論である。
孫子が主張するように勝利を目的に敵対する双方が、情報の収集をできるだけ行う・戦力の集中などの工夫で戦闘結果の必然性を増す・冷徹な判断を行う・中立する組織への対応の工夫、などの戦争の合理性をとことん追求していくと、ミニマックス理論が成り立つような状況に限りなく近づいていく。そしてミニマックス法は、最善を尽くしながら相手の失着を待つ手法であり、孫子の主張することとの類似性を指摘する意見も多い。
『ウォートンスクールのダイナミック競争戦略』において、ゲーム理論の淵源が『孫子』などにあったとテック・フーとキース・ワイゲルトらは指摘している。孫子の兵法はゲーム理論の本でもしばしば引用されるほど、ゲーム理論との共通性があると言われている。
このように、孫子は現代戦略理論でも注目されている。


◎日本への伝来

『孫子』が日本に伝えられ、最初に実戦に用いられたことを史料的に確認できるのは、『続日本紀』天平宝字4年(760年)の条である。当時、反藤原仲麻呂勢力に属していたため大宰府に左遷されていた吉備真備のもとへ、『孫子』の兵法を学ぶために下級武官が派遣されたことを記録している。吉備真備は23歳のとき、遣唐使として唐に入国し、41歳で帰国するまで『礼記』や『漢書』を学んでいたが、この時恐らく『孫子』・『呉子』をはじめとする兵法も学んだと推測されている。数年後に起きた藤原仲麻呂の乱では実戦に活用してもいる。
律令制の時代、『孫子』は学問・教養の書として貴族たちに受け入れられた。大江匡房は兵学も修めていたが、『孫子』もその一つであり、源義家に教え授けている。積極的に実戦において試された例としては、源義家が前九年・後三年の役の折、孫子の「鳥の飛び立つところに伏兵がいる」という教えを活用して伏兵を察知し、敵を破った話(古今著聞集)が名高い。ただし古今著聞集が発行されたのは後三年の役の約170年後のことであり、この兵法が『孫子』であるとの記載も存在しない。


◎武士の受容

平安貴族に代わって歴史の主役に躍り出た武士たちも、当初は前述の源義家のような例外を除き『孫子』を活用することは少なかったと考えられている。中世における戦争とは、個人の技量が幅をきかせる一対一の戦闘の集積であったためである。『孫子』のような組織戦の兵法はまだ生かされることはなかった。しかし足軽が登場し、組織戦が主体となると、『孫子』は取り入れられるようになっていく。幾人かの戦国武将には容易にその痕跡を見出すことができる。中でも、武田信玄が軍争篇の一節より採った「風林火山」を旗指物にしていたことは有名である。ただし全般的に見て鎌倉から室町、戦国期において孫子はそれほど重視されていたわけではなく、中国兵書としては『六韜』や『三略』の方がより重視されていた。


◎兵学の隆盛―近世―

徳川家康は江戸時代初頭に伏見版と呼ばれる木活字の印刷本を発行させるが、その一環として1606年には閑室元佶によって『孫子』が出版された。これはそれまで写本しかなかった『孫子』の初めての印刷であり、江戸期を通じて覆刻され、孫子の普及に大きな役割を果たした。

徳川幕府が天下を治めるようになる時期と、兵学と呼ばれる学問が隆盛を迎える時期は合致する。天下泰平の世には実戦など稀であるが、かえって戦国時代に蓄積された軍事知識を体系化しようとする動きが出てきた。それが兵学(軍学)である。それに比例して、『孫子』を兵法の知識体系として研究する傾向が復活する。そのため江戸時代には、50を超える『孫子』注釈書が世に出るのである。これには中国からの刺激も影響している。たとえば中国で明代から清代に出た注釈書が日本に伝わり、覆刻されている。劉寅の『武経七書直解』や趙本学の『孫子校解引類』(趙注孫子)が有名である。また、日本人の手になるものも多く出た。この嚆矢となるものは1626年に出版された林羅山の『孫子諺解』であり、以降代表的なものだけでも山鹿素行『孫子諺義』(1673年)、新井白石『孫武兵法択』(1722年)、荻生徂徠『孫子国字解』(1707年ごろ)、佐藤一斎『孫子副註』、吉田松陰『孫子評注』など多数の注釈が著され、このうちでも素行と徂徠のものは特に有用といわれている。また『孫子国字解』は1750年に出版され、わかりやすい日本語の仮名交じり文によって広く読まれ、孫子の普及に大きな役割を果たした。


◎近代以後

明治以降、日本は近代的兵学としてプロイセン流兵学を導入し、それに基づき軍事力を整えていった。しかし『孫子』の研究は途絶えることなく、個人レベルで読み継がれていった。たとえば日露戦争においてバルティック艦隊を破った東郷平八郎の丁字戦法採用の背後には、『孫子』の「逸を以て労を待ち、飽を以て飢を待つ」(軍争篇)の言葉があったと言われる。
しかし時代が下るにつれ、海軍・陸軍ともに『孫子』が学ばれることは少なくなっていく。近代的兵学に圧倒されていったためである。武藤章陸軍中佐が「クラウゼヴィッツと孫子の比較研究」(『偕行社記事』1933年6月)を発表しているものの、研究が盛んであるとはいえない状況であった。しかも武藤はクラウゼヴィッツを「戦争の一般的理論を探求して之を演繹し或は帰納して二三の原則を確立せんとす」と結論づけ、普遍性があると批評するのに対し、『孫子』に対しては、その書かれている内容は遙か以前の、中国国内のみを対象としているため「普遍性に乏しき憾あり」と述べ、前述のリデル・ハートとは逆の感想を抱いていることが読み取れる。
学問的世界では近代的な考証が積み重ねられ、『孫子』の真の著者は誰かといったテーマが日中共に上記のように論じられた。そんな中で1972年に山東省銀雀山から、『竹簡孫子』や『孫臏兵法』が発見されたことは大きなニュースであり、これにより大きく研究が進展した。またこの発見によって、「孫子兵法」は現存する「孫子」とほぼ対応するものであったのに対し、「孫臏兵法」がそれと独立して発見されたことで、孫子の著者が孫武であることがほぼ確定的となった。

戦後は『孫子』が復権し、教養ブームに乗って広く読まれるようになり、現代でも(ビジネスなどの戦略においても)通用するとされ、解説書が数多く出版されている。
戦後、自衛隊では第二次世界大戦敗因への批判的分析から孫子の兵法はクラウゼヴィッツの『戦争論』と対比される形で研究されてきた。杉之尾宜生防衛大学教授らによる一連の研究がある。












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