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龍の声

龍の声は、天の声

「唯我独尊な人は謙虚?について学ぶ」

2020-05-30 13:49:05 | 日本

「天上天下唯我独尊」というと、よく夜中にバイクを乗り回している元気な若者たちが、橋の下にスプレーで書いたり、特攻服の背中に書いたりしてますよね。
大変仏縁深い若者だと思います。
それというのも、「天上天下唯我独尊」という言葉は、世界の三大聖人といわれてもトップにあげられるお釈迦さまのお言葉だからです。
ただ、「唯我独尊」というのは、お釈迦さまのお言葉であることからも分かるように、「オレが一番偉いんだ」とか、「オラオラおめーら、虫けらどもめー」という意味ではないので、若者たちは、何か誤解している可能性もあります。
まず、「天上天下唯我独尊の意味」は、どのように読むのでしょうか?

◎天上天下唯我独尊の読み方

「天上天下唯我独尊」の読み方は「てんじょうてんがゆいがどくそん」と「てんじょうてんげゆいがどくそん」の2通りあります。
これはどちらでも構いません。
「上下」の場合は「じょうげ」と読みますから、「てんじょうてんげゆいがどくそん」とも読みますし、
聞いたときのイメージのしやすさは、「てんじょうてんがゆいがどくそん」のほうが分かりやすいという人が多いようです。
ではお釈迦さまは、このお言葉をどんなときに言われたのでしょうか?
お釈迦さまはいつ言われたの?
このお言葉は、お釈迦さまがお生まれになられたときのお言葉です。
ルンビニー園という花園で、この世にお生まれにられたお釈迦さまは、つぶらな瞳をはっきり見開かれ、よちよちと東西南北に7歩ずつ歩かれます。
そしてもみじのような右手で天をさし、左手で地を指さされ、はっきりと「天上天下唯我独尊」と言われたと説かれます。
これを「七歩の行人」ともいいます。
あの花祭りのときに甘茶をかける右手で天を、左手で地を指さされた、生まれたばかりのお釈迦さまが言われたお言葉です。
でも、お釈迦さまのお言葉ということは、もし天上天下唯我独尊が「この世でオレが一番偉いんだ」という意味なら、お釈迦さまが言われたことと合わなくなります。

◎普通、自分で自分を偉いという?

普通、「自分は偉い」と自画自賛する人は、あまり偉い人ではありません。
「実るほど頭をたれる稲穂かな」という歌もあります。
稲も、まだ若くて青いときは、ツクンツクンと天に向かって突っ立っていますが、だんだん秋になって実ってくると、頭が下がってきます。
それと同じように人間でも、まだ若くて青二才といわれるときは、自惚れて頭が高く、反り返って虚勢を張っているものですが、だんだん円熟してくるほど、頭が低く、腰が低くなるということです。
「自分で自分が偉い」という人は、まだそんなに人格を高めているとはいえないのです。
ところがお釈迦さまといえば、世界の四大聖人、三大聖人といわれてもトップにあげられる方です。
こんな、大人なら誰でも知っているようなことが分かられないはずはありません。
「天上天下唯我独尊」は、「オレがこの世で一番偉いんだ」という意味ではないのです。
ではどんな意味でしょうか?

◎天上天下唯我独尊の意味

「天上天下唯我独尊」はどんな意味かといいますと、まず「天上天下」とは、天の上にも天の下にも、ということで、大宇宙広しといえども、ということです。
次に「唯我独尊」ですが、「我」は、オレとか私という意味ではありません。
我々とか私たちということです。
なぜそんなことが分かるかというと、このあとお釈迦さまは、「三界皆苦 吾当安此」(三界は皆苦なり。吾まさに此に安んずべし)といわれて、この一節では、ご自分のことを「吾」と言われているからです。
ですから「唯我」とは、ただ、私たち人間だけに、ということです。
人間以外には何があるのかというと、仏教では、私たちは、果てしない遠い過去から、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの迷いの世界「六道」を、生まれ変わり死に変わり、輪廻転生を繰り返していると教えられています。
「唯我」とは、その六道の中で、ただ私たち人間に生まれたときだけ、ということです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命がある、ということです。
「使命」とは、「命を使う」と書きますように、「命の使い道」のことで、究極の目的のことです。
「独尊」とは、たった一つの究極の目的があるということですから、「唯我独尊」とは、「私たち人間に生まれなければ果たすことのできない、たった一つの究極の目的がある」ということです。
ですから、「天上天下唯我独尊」とは、犬や猫、虫けらに生まれたら果たすことのできない、私たち人間に生まれたときしか果たすことのできない、たった一つの目的がある」という意味です。
だから、「どんなに苦しくても自殺してはいけませんよ、その目的果たすまで、生き抜きなさいよ」とお釈迦さまは教えられています。
ではそれはどんな目的でしょうか?

◎唯我独尊の目的とは?

それは、お釈迦さまがお生まれになって、「天上天下唯我独尊」といわれるとき、7歩ずつ歩かれたことに関係があります。
7歩とは、6歩+1歩です。
「6歩」は、「六道」を表しています。
私たちが果てしなく遠い過去から、生まれ変わり死に変わり輪廻転生を繰り返している地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の「六道」です。
その苦しみ迷いの「六道」を出て離れることを6歩+1歩の7歩で表されています。
この六道輪廻から離れることは、仏教を聞かなければできませんが、仏教は人間に生まれたときしか聞けませんので、人間に生まれた目的は、仏教を聞いて果てしない苦しみ迷いの輪廻を離れ、未来永遠の幸せになることなのです。
それが本当の生きる意味なのです。
では「天上天下唯我独尊」の次の「三界皆苦(さんがいかいく)吾当安此(ごとうあんし)」とはどんな意味でしょうか?

◎どこかに幸せな人はいますか?

「三界皆苦 吾当安此」の「三界皆苦(さんがいかいく)」は「三界は皆苦なり」と読みます。
「三界」とは「欲界(よくかい)」「色界(しきかい)」「無色界(むしきかい)」のことで、いずれも迷いの世界です。それぞれどんな意味でしょうか?
まず「欲界(よくかい)」は、五欲のみで生きている世界です。
五欲とは、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五つの代表的な欲をいいます。
食べたい飲みたい楽がしたい、どうすれば楽に儲かるか、人から褒められるか、愛されるかと欲望のままに生きている世界です。
次の「色界(しきかい)」の「色」とは物質のことです。
色界に生きる人とは、絵画や彫刻、書道や華道などの芸術に生きる意味を求める人です。
欲界で、お金や名誉、愛情を求めて努力しているうちに、欲望を満たす快楽は、やはり刹那的で続かないと分かってきます。すると、芸術を求めたらいいのではないかと、芸術にも興味を持ちます。五欲のみで生きるより高尚な世界です。
ところがこの世は諸行無常の世界です。それは色界も変わりません。
形あるものはいつかは必ず滅びますので、芸術の感動も続きません。
どんなにすばらしい芸術を残した芸術家の人たちでも、やはり人生に満足できてはいないのです。
芸術もやはり、これ一つ果たせば、人間に生まれてよかったと大満足できる本当の生きる意味にはならない、ということです。
最後の「無色界(むしきかい)」は物質を超越した世界です。
無色界に生きる人とは、哲学や思想など、精神的なことに生きる人です。
諸行無常の世界では、形あるものは必ず崩れるとすれば、形のない、精神的なことに生きる意味を見いだせるのではないか、と考えます。
ところが哲学や思想の世界にも、結局、本当の生きる意味は見つかりません。哲学者の人たちも、みんな生きる意味は分からないと言っています。
三界はみな迷いの世界ですから、「三界は皆苦なり」とは、どんな人の人生も苦しみである、ということです。

◎お釈迦さまの宣言

次の「吾当安此(ごとうあんし)」は「吾、まさにここに安んずべし」と読みます。
「吾(われ)」とはお釈迦さまのこと、「此(ここ)」とは三界のことです。
「三界はみな苦しみの世界だから、ここでは幸せになれない、どこかへ行って幸せになろう」というのではなく、「この釈迦は、この三界にいながら仏のさとりを開こう。そして、苦しみ悩む人々を本当の幸せに導こう」ということです。
いまだかつて誰も行ったことのない前人未踏の道を自ら開拓し、すべての人が救われる道を切り開くぞ、という確固たる決意を示されたのです。
これをお釈迦さまはお生まれになられてすぐに言われたと聞くと、「生まれてすぐ歩いたりしゃべったりできるの?」と思う人がありますが、そんなことができるかどうかは別として、お生まれになられたときのこととして説かれたのは、仏教にお釈迦さまは、そのような「苦しみ悩むすべての人を本当の幸せに導く教えを説くぞ」という一大宣言なのです。












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