霊界へ霊魂が肉体を脱して行くとき、我々現世に住む人の方から言うと「臨終でございます」 と言う訳で、悲しいのでありますが、霊界から言うと霊界への出産予定日だという訳で、霊界へ誕生することなのでありまして、霊界の祖先の霊魂たちが、その予定日を迎えるために待機しているわけであります。
ところが、本人が悟りを開かないで、「人間は肉体である、これがなくなったら、元も子もない」と思って、肉体の存在に執着している霊魂でありますと、霊魂が肉体にしがみついているから、出産予定日が来ても、なかなかすらすらと産道を通って霊界に誕生できないから、霊界への難産なのです。それが所謂る断末魔の苦しみという状態になっているのです。
余り断末魔の苦しみがひどい難産でありますと霊魂は目をまわして人事不省で霊界に生れる、こうして霊魂が霊界に誕生して意識を失っている間に、戒名をつけ、死骸を焼いてしまう。 そしてお坊さんがお経を誦げて拝んでくれる。けれども霊界で意識を失っている人事不省の霊魂は、それを知らないのです。
それから、暫く後、または或る期間の後、その霊魂は目をさます。併しながら其の霊魂は死骸を焼いたことも知らず、戒名づけてくれてお葬式があったことも知らないから、目が覚めて周囲のものが見えると、「ああ私は肉体のままで生きとった」と、こう思うのであります。
すると、その霊魂には自分が無意識に陥る前の記憶が浮び上って来るのです。「ああ、さっき心臓が苦しかった」 と思うと、肉体の心臓はもう火葬場で焼いて了って無いのだけれども、霊界は、唯心所現が速かに行われる世界ですから、『心臓も持たざるに心臓病にて苦しめる霊あり』と聖経『甘露の法雨』に書いてある通りに、肉体としての心臓は‘ない’けれども、心で思い出された心臓が自覚の上では存在して、心臓が苦しくなるのです。
こうして霊界で心臓病で苦しんでいる霊魂もあるし、肺病で苦しんでいる霊魂もあるというように、色々の病気の霊魂があるわけなのであります。ですから吾々の霊界の祖先の中には、まだまだ病気で苦しんでいる霊魂が沢山あるのです。
既に20年も前から生長の家に入信して、祖先のために聖経を誦げていましても、最近になって、やっと意識を恢復した霊魂は、今まで読誦して貰った聖経の恩恵に俗していないで、病念で苦しんでいるのもあるのです。そして最近やっと目を覚ましたら、生前の病気の記憶が甦って病気の自覚で苦しんでいる。そして自分には医者がどうして来てくれないのだ、と思ったりするのですが、死骸は焼いてしまったのだから、医者が来るはずはないのです。
だから、その霊魂は「医者がどうして来てくれないんだ」と思って、親類の人や家族の名前を一所懸命に呼ぶと、その病気の念が家族や親族の人に放送されて、現実世界にいる家族や親族の中の波長の合う人に、その病苦の念波がパッと感受される。そうすると、本来自分の病気でない病気が霊界から放送されて、こちらがテレビ受信機になって、放送された通りの病気を自分の肉体に現しているということになるものなのです。
ですから、そう云う病人に対しては、そう云う病念の霊魂の迷いを解いてやるために、霊前で聖経『甘露の法雨』を読誦してあげることも必要なんです。
然し、すべての病気をみんな迷える霊魂の病念の感受であると還元してしまうと、間違いであって、必ずしも霊界の影響が来ないでも、本人自身の心の間違いで病気をあらわしている実例も随分あるのであります。
だから指導者たるものは『“甘露の法雨”さえ祖先に読んだら治るんだ』と一概に言ってしまってもいけないのであります。
けれども、ともかく祖先の霊魂は数が多いことでもあり、その霊魂のうちに最近意識を恢復して病念が消えないで苦しんでいるのもあるのですから、祖先に対して『甘露の法雨』を読んであげるのは、病気を治すために読むというより、「今まで祖先に感謝したことがなかって申訳がないから、御礼のために聖経を読んであげましょう」と、祖先の霊魂に対して、感謝するという積りで聖経を読むように、病人に勧めてあげるとよいのです。
『甘露の法雨』を読むのは、病気を治そうと思って読むよりも、ただ祖先に感謝の気持で読む方が却って功徳があって治る率が多いのであります。ただ素直に読みながら、自分もその意味を体得するつもりで読むとよいのです。
何故、聖経『甘露の法雨』を“病気治そう”と思って読むと功徳が少ないかと言いますと、聖経を一ぺん読んだら、“もうどれだけ治っているだろうか”と思って、現象の病気の状態を振り返ってみて、現象の症状がその時まだ消えていないと、“やっぱり治っとらん” と思う。そして、それを繰返して「治っとらん、治っとらん」と念ずる。 こうして我々の感覚によって見える病気の有様を 「ある」と見て「病気は‘ある’、‘ある’」と云う念を積み重ねて行ったら、「想うことは現れる」と云う原則によって、ますます、病気は消えないことになり、新たに自分の想念によって病気は繰り返し造ることになるのであります。
だから、「病気を治そう」と思っては『甘露の法雨』を読まないで、「ただ祖先に対して感謝の念を起しなさい、感謝の念によって病気が治るのです。その感謝の念の一貫として、祖先に対して『甘露の法雨』その他の聖経をお読みなさい」と云うように指導するのがよいのです。その感謝の実践が徹底すれば病気が治るのです。
祖先の霊魂というものは、物質の食物を食べて発達するものではないのであって、真理の言葉の念によって放送されると、真理の念を吸収して、霊界に於て神通力を得るようになるのであります。すなわち霊魂の霊力が殖えるのです。これを“魂(みたま)のふゆ”というのです。
霊魂の肥立ちがよく発達してゆくということは、物質の食物によるのではなくて、“真理の言葉”を送って貰うことによって、霊魂は益々発達して神通力を増加するのであります。祖先が自己の神通力を増加してきましたら、祖先というものは、子孫を守って、子孫を繁栄させてやりたい、子孫を健康にしてやりたい、というのが其の念願なのですから、祖先に神通力がふえるようにさえしてあげたら、祖先の守りが多くなり、凡ゆる点に於いて子孫が護られ、自然に病気も治るようになるのであります。
そういう意味に於いて『甘露の法雨』を読みなさいとお勧めするのです。“『甘露の法雨』 を読んだら治る”というのではなくて、『甘露の法雨』は祖先に対する感謝行であって、その祖先が『甘露の法雨』に説かれている真理を吸収して、神通力が増したら自然に祖先の守りが充分になるから、病気が治るようになる。だから、病気が治ったら読むのを止める、と云うのでは見当ちがいであります。先祖の霊魂は愈々益々向上するほどよいのですから、これだけ誦んだから、もう止めると云うのでは先祖に対して感謝が足らぬことになります。
従って、『甘露の法雨』を読むのも、“何回読んだら治る”ということは、その人の精神状態にもよるし、祖先から来ている念波〈精神の波〉の強弱によるし、業の多い少いにもよるのであり、祖先の心境如何にも関係するのであって、1回で治る場合もあれば、何ヶ月もかかる場合もある。例えば 田口精亮さんが指導した例では、神奈川県高座郡の大和村〈今は大和市になっていると思う〉あそこで生れつきの聾唖があったのです。
生れつきの不具、又は病気と云うものは、祖先の業又は、自分が生れ変りの前世に犯した業が形に現われているのだから、『甘露の法雨』を読みなさい、と言って田口精亮さんが導かれたのです。その聾唖者の母親は6ヶ月『甘露の法雨』を毎日、霊前で読んだら治ったのです。
こんな場合、3ヶ月だけ読んで、治らないと、もう諦めて、“先生は『甘露の法雨』読んだら治ると仰言ったが、3ヶ月も読んだけれども治らなんだ”と言ってやめてしまったら、6ヶ月で治る筈の‘それ’も治らんことになってしまう。この場合は6ヶ月読んで始めて、功徳が円成して治ったのであります。
だからそういう場合に、自分勝手の考えで 「何ヶ月読んだらよい」と決めるわけにはゆかないのです。しかも祖先に対する感謝は永久にすべきものですから、“何ヶ月だけ病気治すためにやって、治ったらもう放っといても宜しい”と、いうわけにはゆかないのであります。 そう云うことを心に留めて、人をお導きになればよいのであります。
(昭和36年 生長の家新春特別教修会)
「生長の家となる人のために」
霊界へ霊魂が肉体を脱して行くとき、我々現世に住む人の方から言うと「臨終でございます」 と言う訳で、悲しいのでありますが、霊界から言うと霊界への出産予定日だという訳で、霊界へ誕生することなのでありまして、霊界の祖先の霊魂たちが、その予定日を迎えるために待機しているわけであります。
ところが、本人が悟りを開かないで、「人間は肉体である、これがなくなったら、元も子もない」と思って、肉体の存在に執着している霊魂でありますと、霊魂が肉体にしがみついているから、出産予定日が来ても、なかなかすらすらと産道を通って霊界に誕生できないから、霊界への難産なのです。それが所謂る断末魔の苦しみという状態になっているのです。
余り断末魔の苦しみがひどい難産でありますと霊魂は目をまわして人事不省で霊界に生れる、こうして霊魂が霊界に誕生して意識を失っている間に、戒名をつけ、死骸を焼いてしまう。 そしてお坊さんがお経を誦げて拝んでくれる。けれども霊界で意識を失っている人事不省の霊魂は、それを知らないのです。
それから、暫く後、または或る期間の後、その霊魂は目をさます。併しながら其の霊魂は死骸を焼いたことも知らず、戒名づけてくれてお葬式があったことも知らないから、目が覚めて周囲のものが見えると、「ああ私は肉体のままで生きとった」と、こう思うのであります。
すると、その霊魂には自分が無意識に陥る前の記憶が浮び上って来るのです。「ああ、さっき心臓が苦しかった」 と思うと、肉体の心臓はもう火葬場で焼いて了って無いのだけれども、霊界は、唯心所現が速かに行われる世界ですから、『心臓も持たざるに心臓病にて苦しめる霊あり』と聖経『甘露の法雨』に書いてある通りに、肉体としての心臓は‘ない’けれども、心で思い出された心臓が自覚の上では存在して、心臓が苦しくなるのです。
こうして霊界で心臓病で苦しんでいる霊魂もあるし、肺病で苦しんでいる霊魂もあるというように、色々の病気の霊魂があるわけなのであります。ですから吾々の霊界の祖先の中には、まだまだ病気で苦しんでいる霊魂が沢山あるのです。
既に20年も前から生長の家に入信して、祖先のために聖経を誦げていましても、最近になって、やっと意識を恢復した霊魂は、今まで読誦して貰った聖経の恩恵に俗していないで、病念で苦しんでいるのもあるのです。そして最近やっと目を覚ましたら、生前の病気の記憶が甦って病気の自覚で苦しんでいる。そして自分には医者がどうして来てくれないのだ、と思ったりするのですが、死骸は焼いてしまったのだから、医者が来るはずはないのです。
だから、その霊魂は「医者がどうして来てくれないんだ」と思って、親類の人や家族の名前を一所懸命に呼ぶと、その病気の念が家族や親族の人に放送されて、現実世界にいる家族や親族の中の波長の合う人に、その病苦の念波がパッと感受される。そうすると、本来自分の病気でない病気が霊界から放送されて、こちらがテレビ受信機になって、放送された通りの病気を自分の肉体に現しているということになるものなのです。
ですから、そう云う病人に対しては、そう云う病念の霊魂の迷いを解いてやるために、霊前で聖経『甘露の法雨』を読誦してあげることも必要なんです。
然し、すべての病気をみんな迷える霊魂の病念の感受であると還元してしまうと、間違いであって、必ずしも霊界の影響が来ないでも、本人自身の心の間違いで病気をあらわしている実例も随分あるのであります。
だから指導者たるものは『“甘露の法雨”さえ祖先に読んだら治るんだ』と一概に言ってしまってもいけないのであります。
けれども、ともかく祖先の霊魂は数が多いことでもあり、その霊魂のうちに最近意識を恢復して病念が消えないで苦しんでいるのもあるのですから、祖先に対して『甘露の法雨』を読んであげるのは、病気を治すために読むというより、「今まで祖先に感謝したことがなかって申訳がないから、御礼のために聖経を読んであげましょう」と、祖先の霊魂に対して、感謝するという積りで聖経を読むように、病人に勧めてあげるとよいのです。
『甘露の法雨』を読むのは、病気を治そうと思って読むよりも、ただ祖先に感謝の気持で読む方が却って功徳があって治る率が多いのであります。ただ素直に読みながら、自分もその意味を体得するつもりで読むとよいのです。
何故、聖経『甘露の法雨』を“病気治そう”と思って読むと功徳が少ないかと言いますと、聖経を一ぺん読んだら、“もうどれだけ治っているだろうか”と思って、現象の病気の状態を振り返ってみて、現象の症状がその時まだ消えていないと、“やっぱり治っとらん” と思う。そして、それを繰返して「治っとらん、治っとらん」と念ずる。 こうして我々の感覚によって見える病気の有様を 「ある」と見て「病気は‘ある’、‘ある’」と云う念を積み重ねて行ったら、「想うことは現れる」と云う原則によって、ますます、病気は消えないことになり、新たに自分の想念によって病気は繰り返し造ることになるのであります。
だから、「病気を治そう」と思っては『甘露の法雨』を読まないで、「ただ祖先に対して感謝の念を起しなさい、感謝の念によって病気が治るのです。その感謝の念の一貫として、祖先に対して『甘露の法雨』その他の聖経をお読みなさい」と云うように指導するのがよいのです。その感謝の実践が徹底すれば病気が治るのです。
祖先の霊魂というものは、物質の食物を食べて発達するものではないのであって、真理の言葉の念によって放送されると、真理の念を吸収して、霊界に於て神通力を得るようになるのであります。すなわち霊魂の霊力が殖えるのです。これを“魂(みたま)のふゆ”というのです。
霊魂の肥立ちがよく発達してゆくということは、物質の食物によるのではなくて、“真理の言葉”を送って貰うことによって、霊魂は益々発達して神通力を増加するのであります。祖先が自己の神通力を増加してきましたら、祖先というものは、子孫を守って、子孫を繁栄させてやりたい、子孫を健康にしてやりたい、というのが其の念願なのですから、祖先に神通力がふえるようにさえしてあげたら、祖先の守りが多くなり、凡ゆる点に於いて子孫が護られ、自然に病気も治るようになるのであります。
そういう意味に於いて『甘露の法雨』を読みなさいとお勧めするのです。“『甘露の法雨』 を読んだら治る”というのではなくて、『甘露の法雨』は祖先に対する感謝行であって、その祖先が『甘露の法雨』に説かれている真理を吸収して、神通力が増したら自然に祖先の守りが充分になるから、病気が治るようになる。だから、病気が治ったら読むのを止める、と云うのでは見当ちがいであります。先祖の霊魂は愈々益々向上するほどよいのですから、これだけ誦んだから、もう止めると云うのでは先祖に対して感謝が足らぬことになります。
従って、『甘露の法雨』を読むのも、“何回読んだら治る”ということは、その人の精神状態にもよるし、祖先から来ている念波〈精神の波〉の強弱によるし、業の多い少いにもよるのであり、祖先の心境如何にも関係するのであって、1回で治る場合もあれば、何ヶ月もかかる場合もある。例えば 田口精亮さんが指導した例では、神奈川県高座郡の大和村〈今は大和市になっていると思う〉あそこで生れつきの聾唖があったのです。
生れつきの不具、又は病気と云うものは、祖先の業又は、自分が生れ変りの前世に犯した業が形に現われているのだから、『甘露の法雨』を読みなさい、と言って田口精亮さんが導かれたのです。その聾唖者の母親は6ヶ月『甘露の法雨』を毎日、霊前で読んだら治ったのです。
こんな場合、3ヶ月だけ読んで、治らないと、もう諦めて、“先生は『甘露の法雨』読んだら治ると仰言ったが、3ヶ月も読んだけれども治らなんだ”と言ってやめてしまったら、6ヶ月で治る筈の‘それ’も治らんことになってしまう。この場合は6ヶ月読んで始めて、功徳が円成して治ったのであります。
だからそういう場合に、自分勝手の考えで 「何ヶ月読んだらよい」と決めるわけにはゆかないのです。しかも祖先に対する感謝は永久にすべきものですから、“何ヶ月だけ病気治すためにやって、治ったらもう放っといても宜しい”と、いうわけにはゆかないのであります。 そう云うことを心に留めて、人をお導きになればよいのであります。
(昭和36年 生長の家新春特別教修会)