◎「青葉の笛」の背景
一の谷の いくさ破れ 討たれし平家の 公達あはれ
あかつき寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛
【平家物語・巻九:「敦盛最期(あつもりのさいご)」】
平家の軍が合戦に敗れたので、熊谷次郎直実は、「平家の貴公子たちが助け船に乗ろうと、波打ち際の方に逃げなさるだろう。ああ、立派な大将軍と組み合いたいものだ」と思い、海岸の方へ馬を歩ませていくと、練貫に鶴の縫い取りをした直垂の上に萌黄匂の鎧を着て、鍬形をつけた甲の緒を締め、黄金作りの太刀を腰につけ、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖の船を目指して海へざっと乗り入れ、五、六段ほど泳がせたのを、熊谷は「そこにおられるのは大将軍とお見受けする。ひきょうにも敵に後ろを見せられるのか。お戻りなされ」と扇を上げて招いたので、その武者は呼ばれて引き返してきた。
波打ち際に上がろうとするところを、馬を押し並べて、むんずと組んでどっと落ち、取り押さえて首をかき切ろうと甲を無理にはぎ取って見れば、年十六、七ほどで、薄化粧をしてお歯黒に染めている。わが子の小次郎の年齢ほどで顔かたちがまことに美しかったので、どこに刀を突き立てたらいいかわからない。熊谷が「いったいあなたはどのようなお方でいらっしゃいますか。お名乗りください。お助けしましょう」と言えば、「お前は誰か」とお尋ねになった。熊谷は、「物の数に入る者ではありませんが、武蔵野国の住人、熊谷次郎直実と申します」と名乗った。「それではお前に向かっては名乗るまいぞ。お前にとってはよい敵だ。自分が名乗らなくとも首を取って人に尋ねよ。誰か見知っている者があろうぞ」とおっしゃった。熊谷は、「ああ、立派な大将軍だ。しかし、この人一人を討ち取ったとしても、負けるはずの戦に勝てるわけではない。また、討ち取らなかったとしても、勝つはずの戦に負けるはずもなかろう。小次郎が軽傷を負っても自分は辛く思うのに、この殿の父上はわが子が討たれたと聞いたら、どんなにか嘆かれるだろう。ああ、お助けしたい」と思って、背後をさっと見たところ、土肥と梶原が五十騎ほどで続いてやってくる。
熊谷が涙をおさえて申したのには、「お助け申し上げようと存じましたが、味方の軍勢が雲霞のようにやってきています。きっとお逃げにはなれないでしょう。他の者の手におかけ申し上げるより、同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのご供養をいたしましょう」と申したところ、「ただもう早く早く首を取れ」とおっしゃった。熊谷はあまりにいたわしく感じ、どこに刀を立てたらよいかもわからず、目も涙にくもり心もすっかり失せて、どうしていいかわからなくなったが、そうしてばかりもいられず、泣く泣く首をかき切った。「ああ、弓矢をとる武士の身ほど情けないものはない。武士の家に生まれなければ、どうしてこのような辛い目に会うであろうか。情けもなく討ち取り申し上げてしまったものだ」と嘆き、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いていた。
ややしばらくして、熊谷はそうしているわけにもいかず、その武者の鎧直垂を取って首を包もうとしたところが、錦の袋に入れた笛を腰に差しておられた。「ああ、おいたわしい、この夜明け方、城内で楽器を奏しておられたのはこの方々だったのだ。今、味方には東国武士が何万騎かいるだろうが、戦の陣へ笛で笛を持つ者などおそらくいないだろう。高い身分の人はやはり優雅なものだ」と言い、九郎御曹司義経公のお目にかけたところ、これを見た人は涙を流さずにいられなかった。
後に聞くと、若武者は修理大夫経盛の子息で大夫敦盛といい、年齢十七歳になっておられた。
そのときから熊谷の出家の思いがますます強くなっていった。
◎敦盛と青葉の笛
『青葉の笛』
作詞:大和田建樹 作曲:田村虎蔵 (明治39年・1906)
一の谷の軍(いくさ)破れ
討たれし平家の公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨(すま)の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
『平家物語』のうち、一ノ谷の戦いを歌にしたもので、無官大夫平敦盛」「という副題がついている。
一ノ谷で、源氏の武将・熊谷次郎直実(なおざね)は、海に逃れようとしていた若武者を呼び返し、組み敷きした。顔を見ると、自分の息子と同年配の少年(14歳)だったので、見逃そうとしたが、味方が近づいてきたので、やむなく首をはねた。それが平敦盛だった。あとになって、熊谷直実はこのできごとに世の無常を感じて出家したと伝えられる。