龍の声

龍の声は、天の声

「法華三部経のあらましと要点③」

2020-02-11 18:08:02 | 日本

〈よいできごとも、わるいできごとも、すべて悟りを深める因として受けとり、それに感謝する〉という徹底したご精神は、われわれが深く学ばなければならない。


「この世のすべての現象は、因と縁によって 生じた仮りのあらわれにすぎない。その因と縁がなくなれば現象もなくなり、ちがった因と縁とが和合すれば、かならずそれにふさわしい現象があらわれる」。


恋慕渇仰(れんぼかつごう)の思いとは、大切な人が亡くなった時、廻りの者や身内の者は、こころ細くなり、失った大指導者を恋い慕う感情が猛烈に起こってきます。のどの渇いた人が水を求めるような切実さで、仏を求める心が湧いてくるのです。そういう痛切な思いが生ずれば、人間はかならず本心にたちかえります。目が覚めるのです。
とにかくほんとうに自分を救ってくれるものを、のどが渇いた人が水を求めるように求め、恋いあこがれる思いがあってこそ、その人の心は清められ、救われるのです。宗教が、哲学や道徳の教えとちがうところは、その一点にある。この〈かくれた心〉までも清めなければ、人間は救われないのですが、それをしてくれるのが宗教であり、信仰なのであります。


空気でも、太陽でも、水でも、ふだんはほとんどその存在を忘れています。
ほとけさまは不生不滅であり、一瞬たりともわれわれのそばから離れられることはないのです。いや、〈そば〉ということばもほんとうは正確ではなくて、仏さまはつねにわれわれの内にも外にも満ち満ちておられるのです。われわれは仏さまと一体なのです。

※わが内に神が、今ここに神が!


われわれは無始無終・不生不滅の久遠実成の本仏に生かされているのだという、信仰の根本さえつかむことができれば、その信仰をますます深めていく力も、それを他へおしひろめていく 力も、ともに無限に湧いてくることを教えられている。


死ぬ間際に一生をふりかえってみると、それらがみんな〈我執〉に踊らされ、影を追ってあくせくしたにすぎないことがわかり、いいしれぬ空虚感をおぼえるにちがいありません。ところが、形のうえではそれと似たような苦しみや悲しみや喜びのくりかえしの一生でも、その人生をつらぬく〈信仰〉という一本のつよい背骨があったならば、そして、形のうえでは浮きつ沈みつしながらもつねに仏の境地へ一歩一歩上ってゆきつつあるのだという〈確信〉があったならば、どんな苦しい生涯でも、楽しく生きていくことができ、楽しく死んでいくことができましょう。


真の信仰をもちえたものは、つねに一歩ずつでも仏の境地へ近づいていくという自覚がありますから、どんな長い旅路でも、けっして飽きることがないのです。いつも希望に満ち、充実した生きかたができるわけです。これこそ、真の信仰者のみが得られる大功徳というべきでありましょう。
しかも、真の信仰者の努力というものは、ただ自分だけが 仏の境地にたっすることを目的とするものではなく、できるだけおおくの人を道連れにしてあげたいという努力をともなっているのですから、真の信仰者がふえればふえるほど、人類全体が向上してゆき、この世界が理想の寂光土に近づいていくのです。


「正信仰をもち、身に行なえば、現実にこういうふうに向上していくのだ」と説かれてある経典を、つねに読誦すれば、ゆるもうとする信仰心が、そのたびにひきしまってくるのです。


仏さまの寿命が不生不滅であれば、それと一体であるわれわれの仏性も不生不滅である。ただ、われわれの仏性はいろいろと迷いの雲にとざされているために、仏さまとはちがった存在と考えられるだけのことである。


仏の無量寿を聞いて、頭のうえで理解するだけでなく、「ああ、ありがたい」という歓喜の念を起こすことです。これが信仰というものです。


教えに随喜する、すなわち 心から「ありがたい」とおもうその感激と歓喜こそが、信仰にとって欠くことのできない、大きな根本要素である。