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「中朝事実とは、」

2018-10-19 06:01:24 | 日本

『中朝事実』を何故、われわれが学ぶ必要があるのか?

(荒井 桂先生)
山鹿素行が「中朝事実」を現わしてから、400年経った現在もまた、日本は中国の台頭、膨張政策の脅威に直面している。日本と言う国の本質や未来に向けた方向性が問われているいまのこの時に、「中朝事実」を改めて紐解いてみるのは大変に意義があることである。
さらに、戦後、日本人の心に弊害をもたらしたものの一つはGHQによる占領政策であった。GHQによる占領政策によって押し付けられた、いわゆる「自虐史観」によって日本の歴史を醜悪に歪曲して国民の誇りや自信、使命感を喪失させるに至った。ここにGHQによる占領政策の本来の狙いであったのである。
日本人自身が誇りと自信、民族としての使命感を取り戻し、しかもそれを健全で中正なものにするには、どうしてもこの自虐史観の誤りを正し、日本人としての姿勢を確かなものにしていく必要がある。
将来の展望と活路を見出す要諦は、まさに日本の歴史を正しく学び、知ることにある。その意味では、日本はいま精神的に大きな変革期を迎えていることは間違いない。



『中朝事実』(ちゅうちょうじじつ)は、山鹿素行が記した尊王思想の歴史書。寛文9年(1669年)に著わした。全2巻。付録1巻。山鹿素行は儒学と軍学の大家である。


◎『中朝事実』の内容

当時の日本では儒学が流行し、中国の物は何でも優れ日本の物は劣る、という中国かぶれの風潮があった。また、儒教的世界観では、中国の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。素行はこの書で、この中華思想に反論した。当時中国は漢民族の明朝が滅んで、万里の長城の北の野蛮人の満州族が皇帝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。ただ、朝鮮の小中華思想は、中華から朝鮮への継承権の委譲とでも言えるものだが、素行の主張は攘夷や国粋といったスタンスである。


◎『中朝事実』は全13章から成り立つ。

第1章 天先章 
天孫降臨をはじめとする神話が皇室への結びついていく歴史が記されている。

第2章 中国章
日本こそが中華と称すべき優秀な国だと強調。

第3章皇統章
天照大神が孫の瓊瓊杵尊に下した神勅(天壌無窮の神勅)から連綿と続いている皇室の徳を称えている。理想の国を目指した孔子の説いた精神は外朝ではなく、太古からわが国に存在していると素行が述べるのは、まさにこの皇室の伝統にはかならない。
さらに日本が無窮の国体を維持する根底には、民の心を心としてきた皇室の至誠の精神があると述べ、その上で易姓革命によって王朝が消滅を繰り返した支那との根本的違いを明確にしていくのである。

さらに、
神器章 神道の三種の神器(勾玉、鏡、剣)が知、仁、勇の象徴であること。
神治章 人材の任用の在り方。
禮儀章 治平や外交の要は礼にあること。
化功章 わが国固有の政治の大道は外国人をも引きつけ数多く帰化していること。
等々、
様々な視点で他国にはない日本の優位性が綴られている。

このように江戸時代初期の時点で、早くも日本人の民族的主体性の確立を促すという先駆的役割を果たしたのが、素行であった。

 
◎山鹿素行の「万世一系」論

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、天皇家の大変な古さと不変性という「万世一系」を強調した。山鹿素行は、神武天皇に先立つ皇統の神代段階は200万年続いたと主張している。『中朝事実』で下のように論じている。

ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。 — 山鹿素行、『中朝事実』


◎「中朝事実と乃木希典大将」

国を磨き西洋近代を超える!

元治元年 (一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩
で起き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。ところが、文之進は乃木
が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、「武士にならないのであれば農民
になれ」と害って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木は
まず文之進の農作業を手伝うことになった。そして、慶應元 (一八六五)年、乃木は晴
れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の 「士規七
則」に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。
乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘が『中朝事実』であった。実は、父希次は
密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許さ
れたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。以
来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行してい
た。

日露戦争後の明治三十九年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝すると、山悪有明は、明治天皇に児玉の後任として乃木を参謀総長に任命されるよう内奏した。ところが、天皇は、「乃木については朕の所存もあることりやから、参謀総長には他のものを以て補任することにせよ」と仰せられた。そこで、参謀総長には奥保筆が任命された。
他日、山懸が天皇に拝謁すると、天皇は「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじやが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした」こうして、明治四十年一月、乃木は学習院長に任ぜられた。明治天皇は、就任に際して、次の御製

「いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ」

乃木は、学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって
指導しようとした。この時代、乃木は自宅へは月に一、二度帰宅するだけで、それ以外
の日は寮に人って生徒たちと寝食を共にした。寮の談話室で、乃木は素行と『中朝事実』について、生徒たちに次のように語った。

「この本の著者は山鹿素行先生というて、わしの最も欽慕する先生じや。わしは少年時
代、玉木文之進という恩師から山鹿先生を紹介せられ、爾来先生の思想、生活から絶大
な感化指導を受け、わしが日本人としての天職を悟るに非常に役立つたというもの
じや」

乃木は『中朝事実』の真価について、「要はわが日本国本然の真価値、真骨髄をじや
な、よくよく体認具顕しその国民的大信念の上に日本精神飛躍の機運を醸成し、かくし
て新日本の将来を指導激励するということが、この本の大眼目をなしておるのじや」と
述べ、その序文については、次のように語っていた。 「人は愚かな者で幸福に馴れると幸福を忘れ、富貴に馴れると富貴を忘れるものじや。
高潔なる国土、連綿たる皇統のもとに生を享けても、その国土、その人愛になれると自
主独往すべき根本精神を忘却し、いたずらに付和雷同して卑屈な人間と堕する者が頻々
として続出する。これが国家存立の一大危機というものじや」 「どうじやな、ここの中華とは中朝と同じく日本国家の事じや。これは決して頑迷な国
粋論を主張しているものではない。

「よきをとりあしきをすてて外国におとらぬ国となすよしもがな」

と御製にもある通り、広く知識を求め外国の美風良俗を輸入して学ぶことは国勢伸張の
秘鍵ではあるが、。それは勿論皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。

盲滅法に外国人に盲従し西洋の糟を舐めて随善し、いたずらに自国を卑下し罵倒すると
いうのは、その一事すでに奴隷であって大国民たるの資格はない。国家興亡の岐路はそ
こにあるのじや。個人でも国家でも要は毅然たる独立大精神に生き、敢然と自主邁進す
るにある」 (岡田幹彦氏「乃木希典」展転社、平成十三年)

明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され、大正元年九月十三日に御大喪が行われ
ることとなった。殉死のこ目前の九月十一日、乃木は午前七時に参内して皇太子と淳
宮、光宮の三人が揃うのを待って、人ばらいをした。そして、「私がふだん愛読してお
ります書物を殿下に差上げたいと思いましてここに持って参りました。いまに御成長に
なったら、これをよくお読みになって頂きたい」とお願いし、自ら写本した 『中朝事実』を差上げたのだった。



※宗参寺(そうさんじ)は、東京都新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院である。
ここに『中朝事実』を著わした山鹿素行の墓(国の史跡)がある。