♪夕焼け小焼けの赤トンボ、止まっているのは♪
夕やけ小やけの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を
小篭に摘んだは まぼろしか
十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた
夕やけ小やけの 赤トンボ
とまっているよ 竿の先
ー作詞 三木露風 作曲 山田耕作(さくはたけかんむり)-
子供のころ、何気に歌っていたこの有名な童謡。大体「負われた」は
悪童のボクなぞはてっきり「追われた」だと思ってた(笑)
そして「小焼け」ってなんだと。辞書を引いても意味が分からない。
多分単に調子を整える言葉じゃないかと思うんだけど。この歌の発表は
1921年(大正10年)。同じく有名な「夕焼け小焼け」という中村雨紅
の作詞は1919年なので、彼の作に倣ったものかしら。少なくとも「小焼け」
と単体で使われる言葉じゃないので、詩人の韻踏みと考えたほうがいいの
かも。
さて、年食ってこの歌を改めて読み返すと、なんとも凄い詩であります。
詩の主人公は「私」なんだろうと思いますが、竿の先に止まったトンボを
見て、突然幼き頃が走馬灯のように頭を過った。それは古里の思い出。
これってまるであのプルーストの「失われた時を求めて」じゃありませんか。
あの巨大な長編小説はマドレーヌ菓子を紅茶に浸して食べた時に起想
された主人公の心象を捉えたものですが。三木露風はそれと同様の
効果をこんな短い詩で表現した。
(因みにプルーストの小説を読んでマドレーヌを紅茶に浸して若い頃
何回か食べましたが、全然美味しくない。そのまま別々で食べて飲むに
限ります。爆)
それにしても、この詩の主人公は姐やの背に負われたというのだから
結構な家の出自。きっと養蚕で財を成した素封家の息子ということで
しょうか。「小篭に摘んだは幻か」という表現も気になります。露風の
生い立ちを調べると彼の父は相当な放蕩児であったようで、彼の7歳の
時に母は家出、祖父の家で育てられています。姐やに背負われたという
のはいくらなんでもその前でしょうね。幻となった風景は、きっと未だ
母が家にいた頃の楽しき思い出でしょう。そんな幸せな時代が赤トンボ
と共に脳裏にさっと浮かんできた。でも、
「15で嫁に行った姐や」「お里の便りも絶え果てた」。なんとも怖い表現
です。露風の生まれは兵庫県ですが、上京して大学は早稲田と慶応を
中退。
夫婦仲の宜しくない両親とあって、この背におぶってくれた姐やは彼に
とって母代りであったのかも。更にこのお里の便りは姐やからのものでは
なくて、自分のばらばらになった家庭、実家からの便りではないだろうか。
全ては幻と化した古里。居なくなった母への憧憬・・・
はたまた姐やは露風のキタ・セクスアリスであったのかも、なんて色々
想像を逞しくして。
やはり、秋ですわ(笑)
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Phoenix 東北&関東
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気がしているのは私だけでしょうか?
何気なく歌っていた童謡もこうして解説付きと
歌詞を見ると勝手に思い込んで歌っていたと
思うこと多々ありますね、
意外と残酷な内容を含んでいる歌詞もあって
びっくりすることがあります。
詩人が書いたものだけに奥が深そうに
思われます。
この歌の場面転換の技法は素晴らしいですね。