いま読んでいる本の中に、びっくりするような内容があります。
司馬遼太郎は一冊の本を書き上げるために、
膨大な資料や本を集めて、読み込んで文章をおこすそうです。
気になる一節をここに記載します。
少々長文ですが、悪しからず願います。
このころまだ奈良にいた桓武天皇は、しきりに新都の造営をいそがせ
藤原種継はこのため昼夜兼行の作業を各現場に強いていた。
各現場では無数の篝火が焚かれ、山崎のあたり、
林も水も毎夜火あかりに映えていた。
9月23日の夜10時ごろ、種継はそれらの現場を巡視していて
朝堂院の付近まできたとき、にわかに暗がりから飛んできた
矢に胸をつらぬかれ、絶命したのである。
下手人はすぐあがった。
大伴氏の一族で、継人(つぐと)という男だった。
下手人はかって藤原種継の下僚をつとめて種継に私怨があり、
その私怨を利用した勢力があったらしい。
その勢力はいまとなればどうやら藤原一門の別な系統に
属する者であろうと推測ができるが、
この当時は継人の自白のほうが信じられた。
その自白というのはなんと、暗殺を命じたのは
大伴氏の長者(うじのかみ)大伴家持であるという。
万葉集の編纂に参加したといわれるこの高名な歌人が
そういうことを命じたかどうかはべつとして、
当の家持はすでに死者であった。
事件発生より二十数日前に病没したが、
桓武天皇はこれを深く詮索することなく家持の罪であるとし、
故人ながらその生前の位階を剥奪し、
その所有地も没収した。
桓武は桓武なりにこの事件を利用して、
家持と親しかった皇太子早良(さわら)親王もとらえ、
長岡の乙訓寺に幽閉した。
事は陰惨であった。
このように混沌とした世の中では、お決まりの陰謀や
裏切りや、派閥争いに明け暮れていたのでしょう。
大伴家持さんに同情しています。