あちこち散歩みち

近畿圏内を小さくあちこち歩き・たまに寺社めぐり・日々のとりとめない暮らしなどを書いています

位階を剥奪

2021年01月25日 | 

いま読んでいる本の中に、びっくりするような内容があります。

司馬遼太郎は一冊の本を書き上げるために、

膨大な資料や本を集めて、読み込んで文章をおこすそうです。

 

気になる一節をここに記載します。

少々長文ですが、悪しからず願います。

 

このころまだ奈良にいた桓武天皇は、しきりに新都の造営をいそがせ

藤原種継はこのため昼夜兼行の作業を各現場に強いていた。

各現場では無数の篝火が焚かれ、山崎のあたり、

林も水も毎夜火あかりに映えていた。

 

9月23日の夜10時ごろ、種継はそれらの現場を巡視していて

朝堂院の付近まできたとき、にわかに暗がりから飛んできた

矢に胸をつらぬかれ、絶命したのである。

 

下手人はすぐあがった。

大伴氏の一族で、継人(つぐと)という男だった。

下手人はかって藤原種継の下僚をつとめて種継に私怨があり、

その私怨を利用した勢力があったらしい。

その勢力はいまとなればどうやら藤原一門の別な系統に

属する者であろうと推測ができるが、

この当時は継人の自白のほうが信じられた。

 

その自白というのはなんと、暗殺を命じたのは

大伴氏の長者(うじのかみ)大伴家持であるという。

万葉集の編纂に参加したといわれるこの高名な歌人が

そういうことを命じたかどうかはべつとして、

当の家持はすでに死者であった。

 

事件発生より二十数日前に病没したが、

桓武天皇はこれを深く詮索することなく家持の罪であるとし、

故人ながらその生前の位階を剥奪し、

その所有地も没収した。

桓武は桓武なりにこの事件を利用して、

家持と親しかった皇太子早良(さわら)親王もとらえ、

長岡の乙訓寺に幽閉した。

事は陰惨であった。

 

このように混沌とした世の中では、お決まりの陰謀や

裏切りや、派閥争いに明け暮れていたのでしょう。

 

大伴家持さんに同情しています。

 

 

コメント
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