江戸時代に山陽道を東進する場合、現在の大渡橋の少し北の郷分側から芦田川を東
岸に向けて渡っていたそうだ。
当時は現在のような大きな橋は架けられていなくて、普段は川の中を歩いて渡り、
冬季になると1枚板の仮橋が架けられ、大水の時は渡し舟で渡っていたという。
今は、当時の名残りは何も残っていないが、大渡し跡を示す立て札のみが立てられ
ている。
(下流側から見た山陽道脇の大渡し跡→立て札)
その場所の直ぐ西側の丘の中腹には神社があり、境内には渡し舟の安全を守る為の
灯台の役目をする“帰帆燈籠”が今も残されている。
(丘の中腹の神社→帰帆燈籠)
国防の為に大きな橋を架けなかったのか、或いは技術やお金が無かったのかは分か
らないが、ここまで大真面目に「下にー! 下に!」とやって来た大名行列も、ここで
一斉に尻はしょりして褌まる出しで渡ったのだ。
当時のお百姓さんも「ざまを見ろ! 間抜けな姿だ!」と溜飲を下げたのだろうか?
岸に向けて渡っていたそうだ。
当時は現在のような大きな橋は架けられていなくて、普段は川の中を歩いて渡り、
冬季になると1枚板の仮橋が架けられ、大水の時は渡し舟で渡っていたという。
今は、当時の名残りは何も残っていないが、大渡し跡を示す立て札のみが立てられ
ている。
(下流側から見た山陽道脇の大渡し跡→立て札)
<> |
その場所の直ぐ西側の丘の中腹には神社があり、境内には渡し舟の安全を守る為の
灯台の役目をする“帰帆燈籠”が今も残されている。
(丘の中腹の神社→帰帆燈籠)
<> |
国防の為に大きな橋を架けなかったのか、或いは技術やお金が無かったのかは分か
らないが、ここまで大真面目に「下にー! 下に!」とやって来た大名行列も、ここで
一斉に尻はしょりして褌まる出しで渡ったのだ。
当時のお百姓さんも「ざまを見ろ! 間抜けな姿だ!」と溜飲を下げたのだろうか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます