加茂町四川を遡ると正面にかなり険しい山があり、その山頂(標高:396m)の山
城を巡って、今から456年前に激しい攻防戦があったそうだ。
(下流の四川ダム堰堤から見た志川滝山城跡)
備後南部・神辺平野での覇権を失いつつあった宮入道光音が、一族を糾合し尼子氏
を後ろ盾に、失地回復を狙って安芸の毛利氏を迎え撃ったものらしい。
(更に上流にある大谷池の堰堤に立つ説明板)
戦いは、城の弱点である西方の尾根続き(画像の後方)で主に行われ、毛利方にも
226名にも達する戦死傷者が出たという。
戦には石礫なども多く使われたそうで、府中市歴史民族資料館に展示してある資料
によれば、阿曾沼廣秀の部隊の負傷者17人の内10人が石礫によると報告されて
いるほどだ。
毛利勢の攻撃で志川滝山城は落城し、敗走した宮入道光音は現在の郷分町で討ち取
られたという。
備後地方では、今から約450年前に至る所で毛利・尼子の合戦があり、多くの死者
が出たようだ。 ひょっとして、今でもその怨霊達が出没しているかもしれない?
(郷分町・山陽道高架下にある宮入道光音の首塚→拡大)
城を巡って、今から456年前に激しい攻防戦があったそうだ。
(下流の四川ダム堰堤から見た志川滝山城跡)
備後南部・神辺平野での覇権を失いつつあった宮入道光音が、一族を糾合し尼子氏
を後ろ盾に、失地回復を狙って安芸の毛利氏を迎え撃ったものらしい。
(更に上流にある大谷池の堰堤に立つ説明板)
戦いは、城の弱点である西方の尾根続き(画像の後方)で主に行われ、毛利方にも
226名にも達する戦死傷者が出たという。
戦には石礫なども多く使われたそうで、府中市歴史民族資料館に展示してある資料
によれば、阿曾沼廣秀の部隊の負傷者17人の内10人が石礫によると報告されて
いるほどだ。
毛利勢の攻撃で志川滝山城は落城し、敗走した宮入道光音は現在の郷分町で討ち取
られたという。
備後地方では、今から約450年前に至る所で毛利・尼子の合戦があり、多くの死者
が出たようだ。 ひょっとして、今でもその怨霊達が出没しているかもしれない?
(郷分町・山陽道高架下にある宮入道光音の首塚→拡大)
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