里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

芦田川砂土手の話

2008年09月25日 | 歴 史
(御幸町郷土史研究会の「備後福山御幸町の昔話(2)」から引用)

江戸時代に芦田川の堤防を築いた時、福山城と城下町を芦田川の洪水から守る為に
様々な工夫(?)がされたらしい。

先ず、東岸(城側)の堤防を西岸の堤防より高くして洪水の際には水が西岸の郷分
や山手村の方へ溢れるようにし、
そして、決め手としては、上流の芦田川が大きく蛇行する羽賀付近で堤防を一箇所
だけ94mにわたって水面よりやや高い程度の“乗越堤”と呼ぶ低い堤防(赤丸
にしてこの場所で洪水を溢れさせる事で福山城と城下町を守ったのだ!


当然の事ながら、一旦大雨が降って水かさが増えると洪水は乗越堤を越え、放水路
(昔の川の跡)を抜けて森脇・中津原・岩成の平野は水浸しになる訳で、何とこの
地域の住民は江戸時代を通じて洪水の苦難を強いられたという!

しかし、明治10年頃に至りこの地域の住民もようやく自衛手段として、乗越堤へ
砂を盛って砂土手を築くようになったが、それに対し羽賀で堤防が決壊してくれた
方が都合が良い下流の郷分・山手村の人達との間で争いが絶えず、明治38年に
なって「3尺の高さの砂土手までは認める。その基準となる石柱を設ける」という条
件で何とか決着したという。

嘗て砂土手があった一帯は今や福山ゴルフクラブのゴルフ場に変わっていて、砂土
手の痕跡は全くないが、砂土手があった事を示す説明板のみが埋め込まれている。

(上流から見た砂土手跡の遠景→近景、説明板) 
<>

又、「砂堰(せき)高三尺」と刻まれた砂土手の高さの基準となる石柱は、

「我々芦田川沿岸地方住民の命を守るための多年悪戦苦闘の古戦場の羽賀砂土手
の由緒あるこの標柱、めまぐるしく変わる世の中、あとかたもなく消えてなくなる事を
おそれ、ここに移築して、祖先の恩を感謝する材料とする」
という意味の言葉を刻んで、昭和8年に森脇八幡神社の境内に移されている。

(石柱→先端部分)
<>

さて、この砂土手の話から私はつい、派遣やパートなどの非正規社員として働かさ
れている現代の若者達と相通じるものを感じてしまった。
 
この1700万人を超える若者達、低賃金の為に結婚する事も出来ないばかりか、景気
が悪くなると一番に首を切られてしまう、まるで企業を守る為の砂土手のように見
える! ここに来て、サブプライムローンに端を発した金融不安から世界中の景気
が停滞し、若者達の先行きが非常に心配でたまらない!