疾風怒濤の80年代

日本中が熱い風に包まれていた1980年代
そのころの音楽・映画・テレビなどを語る30代のための
広場です!

NHK 紅白 『スキウタ』に異議あり!

2005年11月22日 08時27分25秒 | 歌謡曲
今日、NHKが紅白の参考資料として発表した『スキウタ』200曲のリストが
新聞紙上に掲載されていました。
確かにそこには各世代にまたがった名曲が並んでいるように見えます。

しかし!80年代者としては、見過ごすことの出来ない事実があります。
それは白組のところで、田原俊彦・近藤真彦の名前が全然ないのです。

そんなわけないでしょう?80年の代表曲は「哀愁でいと」だし、83年は
「ハイティーン・ブギ」ですよ!この二人の曲が一曲もないのは、どう考えても
おかしいし、まあ、ジャニーズ事務所他、このリストにどういう圧力がかかったかが良く分かります。
だって少年隊があってシブがき隊ははいっていないし、それに
とっくに解散したレベッカが入っていて、チェッカーズが0ですよ!

まあ、それにおニャン子系も全く入っていないですが、まあそれは仕方ないかも
しれませんね。
そうそう、キャンディーズも入っていないんですよ!

いやはやおかしいおかしい!変ですよ!
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お江戸日本橋亭

2005年11月21日 13時35分55秒 | 演芸
昨日、青二プロ主催の朗読劇があったので、初めてお江戸日本橋亭に入りました。
その朗読劇自体は、声優さんたちの勉強会のようなもので、私はグローバーとアーサーに会いに行ったのですが・・・。(分かる人だけクスリとしてください)
なんと永井一郎さん(波平であり、ガンダムのナレーションとしても有名)の
実物を拝見して、驚嘆しました。

それはそうと、お江戸日本橋亭のロビーで、チラシを見ていたのですが、
落語の回も円楽党の楽太郎・好楽一門会のパンフが一番メジャーどころで、
後は快楽亭の弟子達が立川流にもどったのを記念して行われる会とか、
志らくの弟子志ららの会とか、かなりのマイナーどころで、
さらに、講談の会が多いのにはビックリしました。
そうか、木馬亭のほかにここでやっているのね、という感じでした。
中には講談にも若い人がいるらしく、ジャズピアノと講談の競演なんて
パンフもありました。
東京は足を運んでみると色々やってますね。
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なんと!イチローを!!

2005年11月21日 13時27分04秒 | 管理人の身辺雑記
昨日、東京世田谷 砧のコンビニで朝、おにぎりを買っていたんですね。
そしたら隣に、なにやら華奢な、しかし少し派手な眼鏡をかけた青年が
買い物をしていました。
一見、ちょっとゲイ風にも見える彼は、(平井堅似でした)
さりげなく買い物を済ませると、コンビニを出て行きました。

しかし、その彼はその脚で、向かいに止めてあった運転手つきのリムジンに乗り込みました。
そう、彼はイチローだったのです!!
なんでイチローだってわかったか?それはその日TMCで「古畑」の
撮影があったからです。
彼は今回のゲスト出演だそうですね。
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ミクロマン

2005年11月15日 11時23分45秒 | 社会
80年代の男の子の心を捉えたもの。それはテレビから聞こえてくる
「ミ・ク・ロ・マ~ン!」のCM。

ということでタカラから出ていたミクロマンシリーズは、私も集めましたね。
今思えば何が良かったのか分からないのですが、
「ミクロマン」「フードマン」
「アクロイヤー」といったキャラクターを集めて
人形遊びに浸っていた時期は確かにありました。

あれは今思えば設定が非常にしっかりしていて、「惑星探査の最中に
その過酷な任務に耐えうるようにフードに入った」などといった
文章に、なぜかワクワクしたことを思い出します。

私は子供だったので、敵役のアクロイヤーの青がとてもお気に入りで
よく砂場とかで遊んでいたのを思い出します。

アクロイヤーかな?もしかしたもっと別の
もっと、甲冑の騎士みたいなシリーズがなかったですか?それの青が
お気に入りだったのですが・・・。
それでまた、それが肩のジョイントが良く取れるんですよ、遊んでいると。
だから砂場でよくパニックになってましたね。

数年前に復刻版が出たそうですね。ちょっと買ってみようかしら。
まんだらけとかに行ったら、当時のものがいい値段で売っていそうですね。
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名物編集長の存在

2005年11月15日 11時05分36秒 | 雑誌
80年代に非常に特徴的だったのが、サブカル系雑誌の存在でした。

そしてまた、雑誌の編集長というのが、今よりももっとかっこよく、
さらに有名で、若者達の憧れでした。

たとえば80年代の雑誌を象徴するのが「週刊サンケイ」の「SPA!」への
リニューアルですが、それを先導したのは、後に「PANJA」「週刊アスキー」を立ち上げる渡辺編集長でしたし、「SPA!」中興の祖は、ゴーマニズムを始めて、宅八郎に追い出された3代目ツルシ編集長でした。

また、「宝島」はVOW隊長こと渡辺タスク編集長
「ビックリハウス」は高橋惠子ですね。
「Hot dog press」は山田五郎ですよね。

さらにもう少し別のところでは、
「噂の真相」岡留編集長、「週刊文春」花田編集長、
「朝日ジャーナル」筑紫編集長、「サンデー毎日」牧編集長、

どうです?ちょっと挙げただけでもこんなにいっぱい!
あ、「写真時代」の白夜の末井昭編集長もいますね。

いやもちろん自販機本の話まですると、「Heaven」の話もしなくてはいけない
のですが、あれは当時の中学生には手に取れない雑誌でした。
手に取れる雑誌に限ってもこんなに多士錚々の時代でした。

今はあんまりそういう名物編集長っていないですね。
「新潮45」の中瀬編集長とか「GON ナックルズ」久田編集長
「BUBKA」寺田編集長ぐらいですかね?
どうなんでしょう?ゲーム雑誌とかにはいまでも若者に影響のある編集長って
いるんですかね?




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なめ猫 その後

2005年11月15日 10時52分49秒 | 社会
以前なめ猫のことについて書きました。
その後、実はこのブログで一番検索される
ワードであることもあり、反響が大きく、
いまさらながらあの「なめんなよ」ブームの大きさに
気づかされます。

そんな事を思いながら今月発売の雑誌
『散歩の達人』・・・80年代東京特集を
読んでいたら、なんとなんと!なめ猫特集をやっていて、
しかもな・な・なんと!今でもお台場のデックス東京ビーチ
4Fに「なめ猫」オフィシャルショップがあるというじゃないですか!!

しかもその記事に映っていたのは、私が以前掲載した、後追いのフェイク版ではなく当時の復刻版の免許書でした!!!!

みなさん!行くべきです!デックス東京ビーチ4Fですよ!

最寄り駅  お台場海浜公園  (ゆりかもめ線)
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渡辺プロについて

2005年11月12日 11時43分05秒 | 歌謡曲
渡辺プロ 通称ナベプロが50周年を迎えたパーティーがやってましたよね。

渡辺プロといえばやっぱり戦後のジャズクラブやらナイトクラブの興行から
テレビ興行へとのし上がったプロダクションのハシリだったわけですね。
多分平尾昌昭やミッキーカーチスらの、ロカビリーのころにのし上がったわけですよ。

その後、ザ・ピーナッツや3人娘 クレージーキャッツ・ドリフターズ
キャンディーズらを輩出した、大プロダクションでした。
有名な話ですが、フジテレビの新春かくし芸大会は渡辺プロ仕切りですので、
クレージーキャッツやらスパイダーズやらが出ていたのです。

ところが私のような80年代ものとしては、あまり大きな印象がありません。
花の82年にも、特筆すべき人材を輩出できず、
その後もアイドル路線に出遅れました。

しかしそれを一気に取り戻すべく、85年に一人のスーパーアイドルを
獲得したのです。

それが、河合その子でした!!
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ハッスル?

2005年11月11日 07時49分08秒 | プロレス
先日、横浜アリーナで「ハッスル・マニア」が開かれました。
これは和泉元弥が出たり、インリンが出たりしたので、
お客さんも入って、成功のように伝えられています。

しかし、昔からのプロレスファンとしてはかなりさびしい気がします。
確かに最近のプロレスはネタ中心だったりします。
しかし、昭和のプロレスだったり、90年代までのプロレスには
実際に鍛えたレスラー達が、林檎を握りつぶしたり、バスを引っ張ったり、
ラリアットで相手を一回転させたり、と地に足が着いたアナログの
ファンタジーがありましたよ。

WWEだって、お芝居が中心とはいえ、それでリムジンをぶっ壊したり、
「なんかごっつい男達が暴れてる」みたいな高揚感は大切にしている
わけですよ。でもそこを芸能人にさせると、どうしようもないとおもいますけどね・・。
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本田美奈子と投稿雑誌

2005年11月09日 08時50分52秒 | 雑誌
本田美奈子について、南野陽子が「堀越の同級生だ」と言っていたことで、
1986年ごろの男子中学生向け雑誌を色々と思い出しました。

当時アイドル雑誌は「明星」「平凡」を筆頭に
「ボム」(学研)「Dunk!」(集英社)「近代映画」(近代映画社)
「デラックスマガジン(後のOre)」(講談社)「Momoko」(学研)
などがありました。

その中で、彼女は良く「Dunk!」に出ていたような気がします。
ちなみに「ボム」「Momoko」は菊地桃子や西村知美などを
「デラックスマガジン」はミスマガジンの斉藤由貴や南野陽子を
推していて、「Dunk!」はおニャン子クラブが中心でしたね。

で、1986年ごろ、一冊の革命的な雑誌がサン出版から発売されました。
それが「投稿写真」でした。これは一般の人々が取ったアイドル写真を掲載する
というもののハシリで、当時流行りつつあった生写真を投稿させようというのが
当初の目的だったようですね。
そこで盛んに取り上げられていたのが堀越学園の運動会やら修学旅行の図でした。
トップアイドルの南野陽子・本田美奈子・井森美幸は確か同級生なんですよ!
それと、桃子ちゃんのいる目黒の日出女子の写真は、毎週のように掲載されていたのを思い出します。

時を同じくして「台風クラブ」「スーパー写真塾JR」(白夜書房)なども創刊され、アイドルは「撮られるもの」へと変化を遂げていくわけです。

またそのころ、ミノルタからαー7000というオートフォーカス一眼レフカメラが発売になり、素人が簡単に望遠レンズを使いこなせるようになったのも、大きかったですね。そのミノルタがカメラ事業から撤退するとの報道がありましたが、
当時を知るものとしてはさびしいですね。
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ミュージカルにおいての本田美奈子

2005年11月09日 08時30分12秒 | 演劇
本田美奈子についての話を続けます。

1989年に「ミス・サイゴン」に合格したとき、正直言って
「東宝のお家芸の、アイドルをミュージカルに出して話題を作る
やり方か」と思った人は多いでしょう。なぜなら「レ・ミゼラブル」の
初演を思い出すと、コゼットは斉藤由貴(東宝芸能)だったからです。

さらに、「ミス・サイゴン」のプロモーションがらみで写真集の撮影のために
行ったホーチミンで、エロティックな撮影をしたという理由で拘束されたりと
舞台が始まる前は散々でした。

しかし、実際には「ミス・サイゴン」のキムは彼女しか考えられないほどの
はまり役となったのです。一つにはライバルとなる宝塚出身の女優達
(一路真樹などでしょうか?)にはない、下積みの、いい意味でのドロ臭さが彼女にはあったのです。さらにやせっぽちで顔の小さい彼女は、ベトナム難民の貧しさと力強さを体現できる人でもあったのです。
その意味で今の松たか子は、ちょっとまだ足りない感じがしますね。

ただ、それゆえどうしても「お姫様」というわけにはいかなくなります。
その後「王様と私」などにもでていましたが、なにより合ったであろうは
「レ・ミゼ」のエポニーヌでしょう。彼女こそは島田歌穂以来のエポニーヌを作りえる人だったわけです。

さらに東宝では「ベガーズ・オペラ」も控えていたわけで、これからさらに活躍の場があったのに、大変残念でした。
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本田美奈子と、1985年・ボンド

2005年11月07日 20時50分54秒 | 歌謡曲
すでに報じられたとおり、本田美奈子さんが亡くなられましたね。

彼女は多くの逆境を必ず乗り越える、不屈の人でした。

彼女のデビューは85年。当時所属していた事務所ボンドでは、
本名の工藤美奈子でデビューさせるつもりでしたが、同期、というか
84年12月に『30億円プロモーションにかけた』という触れ込みの
少女『お湯をかける少女』こと工藤夕貴が一足早くデビューしたために、
本田という芸名で出ることになりました。

ボンドは岡田奈々のマネージメントから始まり、当時は82年組の松本伊代の
成功で、原宿に事務所を構えて、上り調子でした。その象徴が本田美奈子でした。
85年といえば、賞レースが最後の盛り上がりを見せた年。ホリプロが社運をかけてプッシュした井森美幸『99粒の涙』・小泉今日子で当ててのし上がりつつあったバーニングからは芳本美代子『白いバスケットシューズ』、さらにはサンミュージック最終兵器といわれた岡田有希子、中森明菜で大当たりした、当時の弱小プロ
研音からは斉藤由貴、他にも欽ちゃんの浅井企画から佐野量子など、82年以来では最高の豊作の年でした。

賞レースは基本的に事務所の大きさで決まります。特にその年一番本気で事務所が押していた岡田有希子の「くちびるネットワーク」が賞を取っていく中、
本田美奈子の「誘惑~temptation~」も楽曲のよさも加わって、第二グループに
位置していました。

しかし85年という年は、歌謡史的に見ると、最後の賞レースということができます。つまりその年の夏におニャン子クラブがデビューして、以降3年間に渡って
ティーンズ市場を独占してしまうことになるからです。

1986年になると、さらにオリコンチャートはほぼおニャン子勢で独占されます。今では考えられないことですが、10曲中6曲はおニャン子勢で占めるという
ことが、半ば当然になりました。
そんな中、それまでの清純路線から突如セクシー路線に転換した本田美奈子は
『1986年のマリリン』で敢然と挑みかかり、独自の立ち位置を確保する
こととなり、「Oneway generation」は、有名話ですが秋篠宮殿下妃紀子様から
「いつも『oneway generation』を好きで良く聞いています」とのお言葉を
頂く栄誉も受けたのでした。

しかしそんな彼女もセクシー路線がたたり、さらにボンドが原宿に出したスクールが赤字を計上して、苦しくなったこともあり、89年ごろは不遇で、ヌード一歩手前まで行きました。

そんな彼女にとって起死回生のホームランとなったのが、「ミス・サイゴン」の
キム役でした。これはサイゴンの清純な娘が売られて売春宿に身を落とします。
そこで米軍の男性と恋に落ちるのですが、彼はアメリカに帰ってしまい、息子を抱えたまま苦難の日々を過ごすという内容で、彼女の人生と重ね合わせたようなミュージカルでした。
そこでそれまでアイドル歌手としてのボイストレーニングをうけていた彼女は
本格的にミュージカル女優としての訓練を受けました。実は当時「東宝はアイドル歌手を使って、媚びている」みたいなことも言われたのですが、彼女は実力でその陰口を跳ね返し、キムといえば本田美奈子という風に定着させました。

そんな彼女だったのに・・・・。

私はそんな中、新聞報道を見て一つの発見をしました。
葬儀委員長に高杉敬二氏の名がありました。彼こそがボンドの総帥で、
一度はドンに君臨しながらバブルで落ちぶれた、その人でした。
彼が、本田美奈子の所属事務所BMIのエグゼクディブ・プロデューサーの
肩書きを持っている・・・。「ボンド・ミュージック・インスティテュート」でしょうか?
会社が多大な借金を抱えながらも最後まで彼女を支えた高杉氏の姿に
ちょっと、芸能界の「人でつながる」人情の面を見ました。


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12キロ ダイエットその後

2005年11月02日 14時42分03秒 | 管理人の身辺雑記
8月ごろに「12キロのダイエットに成功しました!」と書きました。

その後私はどうなったんでしょう?

その前におさらいすると
5月1日に83。5キロ体重がありました。
そこで、まず5月の頭に週末断食を行い、体質を改善した上で
1日1900カロリーを守り、その上でジムに週3日通い
ストレッチ 20分  エアロバイク系 25分
マシン系  20分  のコースを消化しました。

すると8月1日には71.5キロになっていました

それから2ヶ月。この2ヶ月はテレビマンにとっては忙しい 10月改変&12月特番時期でして、ジムには月に4~5回ペースに落ちてしまい、
さらに会議・打ち合わせが深夜に及ぶことも多く食生活も不安定でした。

で、昨日現在  73・5キロです。

とりあえずリバウンドは阻止している状態です。
その一つの原因には、炭水化物を食べる量が劇的に減りました。
ラーメンは、野菜を多くトッピングした上で、麺は半分のこし、
ロケ弁も米は3分の1は残すようにしています。

じゃあ、最初から少なめに?いやいやそういうわけには行かないんですよ。
なにせ食事は脳が採っていると言っても良い訳ですよ。
脳にはまずビジュアルで「ほらこんなに食べられるからおなかも満腹だね」と
語りかけておいて、残すから「俺はいまダイエットしている!」という感覚に
なれるのでしょうね?




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