疾風怒濤の80年代

日本中が熱い風に包まれていた1980年代
そのころの音楽・映画・テレビなどを語る30代のための
広場です!

本田美奈子と、1985年・ボンド

2005年11月07日 20時50分54秒 | 歌謡曲
すでに報じられたとおり、本田美奈子さんが亡くなられましたね。

彼女は多くの逆境を必ず乗り越える、不屈の人でした。

彼女のデビューは85年。当時所属していた事務所ボンドでは、
本名の工藤美奈子でデビューさせるつもりでしたが、同期、というか
84年12月に『30億円プロモーションにかけた』という触れ込みの
少女『お湯をかける少女』こと工藤夕貴が一足早くデビューしたために、
本田という芸名で出ることになりました。

ボンドは岡田奈々のマネージメントから始まり、当時は82年組の松本伊代の
成功で、原宿に事務所を構えて、上り調子でした。その象徴が本田美奈子でした。
85年といえば、賞レースが最後の盛り上がりを見せた年。ホリプロが社運をかけてプッシュした井森美幸『99粒の涙』・小泉今日子で当ててのし上がりつつあったバーニングからは芳本美代子『白いバスケットシューズ』、さらにはサンミュージック最終兵器といわれた岡田有希子、中森明菜で大当たりした、当時の弱小プロ
研音からは斉藤由貴、他にも欽ちゃんの浅井企画から佐野量子など、82年以来では最高の豊作の年でした。

賞レースは基本的に事務所の大きさで決まります。特にその年一番本気で事務所が押していた岡田有希子の「くちびるネットワーク」が賞を取っていく中、
本田美奈子の「誘惑~temptation~」も楽曲のよさも加わって、第二グループに
位置していました。

しかし85年という年は、歌謡史的に見ると、最後の賞レースということができます。つまりその年の夏におニャン子クラブがデビューして、以降3年間に渡って
ティーンズ市場を独占してしまうことになるからです。

1986年になると、さらにオリコンチャートはほぼおニャン子勢で独占されます。今では考えられないことですが、10曲中6曲はおニャン子勢で占めるという
ことが、半ば当然になりました。
そんな中、それまでの清純路線から突如セクシー路線に転換した本田美奈子は
『1986年のマリリン』で敢然と挑みかかり、独自の立ち位置を確保する
こととなり、「Oneway generation」は、有名話ですが秋篠宮殿下妃紀子様から
「いつも『oneway generation』を好きで良く聞いています」とのお言葉を
頂く栄誉も受けたのでした。

しかしそんな彼女もセクシー路線がたたり、さらにボンドが原宿に出したスクールが赤字を計上して、苦しくなったこともあり、89年ごろは不遇で、ヌード一歩手前まで行きました。

そんな彼女にとって起死回生のホームランとなったのが、「ミス・サイゴン」の
キム役でした。これはサイゴンの清純な娘が売られて売春宿に身を落とします。
そこで米軍の男性と恋に落ちるのですが、彼はアメリカに帰ってしまい、息子を抱えたまま苦難の日々を過ごすという内容で、彼女の人生と重ね合わせたようなミュージカルでした。
そこでそれまでアイドル歌手としてのボイストレーニングをうけていた彼女は
本格的にミュージカル女優としての訓練を受けました。実は当時「東宝はアイドル歌手を使って、媚びている」みたいなことも言われたのですが、彼女は実力でその陰口を跳ね返し、キムといえば本田美奈子という風に定着させました。

そんな彼女だったのに・・・・。

私はそんな中、新聞報道を見て一つの発見をしました。
葬儀委員長に高杉敬二氏の名がありました。彼こそがボンドの総帥で、
一度はドンに君臨しながらバブルで落ちぶれた、その人でした。
彼が、本田美奈子の所属事務所BMIのエグゼクディブ・プロデューサーの
肩書きを持っている・・・。「ボンド・ミュージック・インスティテュート」でしょうか?
会社が多大な借金を抱えながらも最後まで彼女を支えた高杉氏の姿に
ちょっと、芸能界の「人でつながる」人情の面を見ました。


コメント
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