疾風怒濤の80年代

日本中が熱い風に包まれていた1980年代
そのころの音楽・映画・テレビなどを語る30代のための
広場です!

万里沙ひとみさん 復帰

2007年04月22日 01時35分40秒 | 演劇
JR宝塚線の事故で、瀕死の重傷を負った元タカラジェンヌ 万里沙ひとみさんは
私の中学高校時代の先輩だったと言う事は、以前このブログで書いたことがありました。

私が高校1年生のときに、宝塚に入ってしまわれた万里沙さん・・というか川井先輩は物静かな美少女でしたが、確かスポーツは得意で、体育祭のときなど
確かなストライドで大地を蹴って走ってらした姿が印象的でした。

しかし彼女の両足は事故で完全に動かなくなり、車椅子での生活を余儀なくされて
この2年間を過ごしていたそうです。

ところが、今日の読売新聞に以下のような記事が載りました。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070421i506.htmめでたく歌手として復帰して、舞台に立たれたそうです。

本当に良かった。
先輩のこれからの人生が、いままでの人生に負けないぐらい
光り輝くようにお祈りしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝塚歌劇 「黒蜥蜴」「タキシードジャズ」

2007年04月16日 00時24分17秒 | 演劇
今日、宝塚歌劇 花組公演
『黒蜥蜴』と『タキシードジャズ』を見てきました。

『黒蜥蜴』はあの江戸川乱歩の原作ですが、有名な三島演出版で強調されていた
肉体への偏愛。企みへのゴシックな愛情と言うところをすっぱり無くして、
戦争孤児だった黒蜥蜴と明智の、人への純粋な愛情というところに重きを置いた
演出になっていました。

ただ、一言で言えば題材が宝塚向きでなないですね。木村信司さんは頑張っていましたが、宝塚座付きの作家さんが脚本と演出をかねるというスタイルは今回は
裏目に出ていた気がします。
やはりある程度、黒蜥蜴の神出鬼没なところは演出で見せていかなければ
いけないですし、逆にミステリーを支える脚本的な仕掛けもしっかり詰めないと
いけないと思いますが、とくに脚本が甘く、トリックのところでリアリティーが
無いので、心が離れてしまう気がしました。

今回はその芝居のほうがメインではなく、私はレビューを楽しみにしていました。
宝塚のレビュー作家として、新進気鋭と称される「荻田浩一」氏の演出作品には
以前から興味があり、今回やっと見る機会が出来たのです。

なるほど、みてみると宝塚の伝統に乗りつつも、レビューの新しい風を感じさせる雰囲気がありました。特に中詰めは見事な演出だったと思います。
選曲も、コールポーターや、ガーシュインばかりでない、大人の選曲で、
ベルエポックでないジャズの様子をしっかりと捉えていたと思います。
ただ、レビューの巨匠岡田敬二氏や、草野旦氏のような、ちょっと叙情性を感じさせる、いわゆる泣かせのところは、ちと弱いというか、そういうものを志向していない気がしました。
あと、中詰めが盛り上がった分、大階段はあっさりでしたね・・?

でも、非常に内容の濃い、なるほどと思わせる作品でした。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Noda map「ロープ」を見ました

2007年01月10日 23時53分54秒 | 演劇
今日 noda-mapの「ロープ」を見ました。
この作品は野田秀樹がプロレスを題材にした作品を作ったということで、
プロレスファン暦25年の私はかなり期待して見に行きました。

以降ネタばれ注意
内容は、プロレスが八百長だと知ってひきこもりになったプロレスラーが、
その「虚構の暴力」を演じているうちに、視聴率競争に巻き込まれ、
暴力がエスカレートして行き、その究極の行き着く先は戦争だった。
さらに、暴力を見たがる人がいて、それを演じているうちに、生身の演者は
傷ついていく。というような概要でした。

感想として、演劇の表現として、感心するところはいくつもありました。特に暴力が高まり行く中で、
舞台に張り巡らされる鉄条網のようなものが、空間を切り裂いて、非常に暴力を視覚的に見せていくところなどは本当に感心しました。

しかし、率直に言って脚本も、演出も、配役も、プロレスへの理解も
全ての面で大事なものが一つずつ抜け落ちた作品だと思いました。

まず脚本は、プロレスをメタファーとして使いながら「消費される暴力」と、「実際の痛み」の乖離を描きながら、いつしかベトナム戦争の狂気へと向かいます。
しかし、いまここにメディアと暴力の題材はもっと身近にあるじゃないですか?
でもそういうものに触れずに歴史へと向かうことへ、大きな違和感を感じました。

さらに宮沢りえが、自分を「コロポックル」と称するのですが、【コロポックル】に当然付随する【森・自然とアニミズムの思想】みたいなところは
ぜんぜん生かされず、単純に「不思議ちゃん」としてしか扱われないのが腑に落ちません。

配役は、とにかく藤原達也の身体にまったくプロレスラーらしいところがありません。いくらなんでもミスキャストです。

一番大きいのが、プロレスファンの私の目から見ると、
彼は実際にプロレスを見たことがないのが良く分かりました。
まあ、単純にメタファーとしてモチーフを借りるだけだから見る必要もないと思ったんでしょう。
プロレスとは、この物語で描かれている「八百長」「虚構の茶番」「だれかメディアに操られた操り人形」ではありません。

プロレスとは4面が観客で覆われた舞台の上で、大きな終着点(つまりどちらが勝つのか)だけ決めておいて、
ほかは2人の演者が肉体の動きのみで表現していく、インプロビジェイション演劇なのです。
しかもレスラーたちが織り成す暴力に、観客たちが興奮し罵声や完成を浴びせ、アドレナリンを放出することで、場の熱が高まり、観客も共犯関係に巻き込みながら、本人たちをはじめ誰も予想していない方向へと暴走するハプニング演劇なのです。
だから現在日本でもっとも優れたレスラーである武藤敬司は試合のことを
「作品」と表現しているのです。

だからファンなら『虚構の暴力』の先に見えているはずの
プロレスの本当の姿を一つも描いてないので、
「目に見えない何かに、暴力を強いられていく」というメタファーとしては
まったく効かなかったですね。

野田秀樹氏はプロレスが大嫌いだと聞きます。だったらどうしてこんなアウェーの題材を選んだんでしょうね?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マッスル・ハウス」を見ました!

2007年01月07日 17時40分17秒 | 演劇
皆さんは、「マッスル」というプロレス興業をご存知ですか?
もともとDDTというプロレス団体を、サムライTVで取材していたADの 坂井という人が、たまたま、185センチ・120キロもあったので、プロレスラーの練習生兼・映像主任という形で入団したのがきっかけでした。

その坂井氏が、自分の思う「プロレスの形」を追及して立ち上げたプロジェクトが
「マッスル」というイベントでした。

これは、基本的に、「超4流のプロレスラーたちが、成長していく物語」を演じるという演劇で、リングを4面から見られる舞台に見立てて、映像とともに
盛り上げていくという、新しい形の参加型演劇なのです。

プロレスの形態をとってますから、場外乱闘という形でバンバン舞台に演者が
乱入してきますし、映像とも合わさって、本当に実験的なことをしています。

坂井氏は、マッスル坂井というプロレスラーとして、さらに劇団「双数姉妹」の
今林氏や、俳優渡辺哲氏のご子息 アントーニオ本多氏など、俳優とプロレスラーの境界線にいるような人たちが、出演しています。

前回は、「プロレスのプロモーションビデオ風映像を、5分ノー編集で
中継スタッフとレスラーとで再現してみる」という実験をして、本当に5分で
プライドやらK-1の試合前煽り映像のパロディーをノーカットでやって見せました。

今回は、「悪役レスラーの乱入は、あるお題に対して即興で答える、『笑点』の
大喜利のようなものだ!」というコンセプトで、プロレスの聖地であると同時に
『笑点』の収録会場である後楽園ホールで、イベントが行なわれ、
プロレスをしながら、大喜利をやり、それがまた対抗戦というプロレスのギミックに消化されていくという、摩訶不思議なイベントになっていました。

基本的にコンテンツ(文脈)はパロディではあるのですが、その表現方法は、とても斬新で、昔寺山修二がハプニング演劇をやったような、そんな趣がありました。

次号の「Quick Japan」に出るそうです。要チェックですよ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マシュー・ボーン「シザーハンズ」を見ました

2006年08月17日 23時46分57秒 | 演劇
昨日 五反田ゆうぽうとにてマシュー・ボーン振付・演出のバレエミュージカル
「シザーハンズ」を見てきました。
映画版の「シザーハンズ」は非常にビジュアルイメージが豊かな作品ですが、
感情表現は、オフビート映画の手法で シンメトリー・動かない画面・タイミングの妙で
笑いや、其の奥にある悲しみを表現していたので、それをどうバレエにするのか?は
非常に興味がありました。

マシュー・ボーンは映画版そのままのあらすじではなく、
はさみの事故で死んだ子供の代わりに、博士が作り出した人造人間エドワードという風にして、
嵐の夜に、その博士が地元の悪がきギャング団によって殺されてしまい、エドワードは
一人残される。という風にすすみます。

其の後は似たような展開なのですが、転落のきっかけは、無理やり酒を飲まされて
コントロールを失うというようにしたりして、かなり図式化したお話にしてありました。

そうはいいながら、それでも結構いろいろな感情がわきあがる物語を、一言もしゃべらず
バレエで表現していく様子は、さすがマシュー・ボーンという感じでした。

ただ、「白鳥の湖」をはじめてロンドンのサドラーズ・ウェルズで見たときには、
「あの古典がこんなに分かりやすく、現代風に!!」と感動したのですが、「シザーハンズ」は
もともと映画なので、ちょっと分が悪かったかも?という気もしました。

あとダンサーのコンディションが必ずしも完璧でなかったのも悔やまれます。

とはいえ、良いお芝居でした。カーテンコールの際にマシュー・ボーン自身も出てきて
誇らしげに拍手を受けていたのと、会場に多くいたちびっ子バレリーナたちのキラキラとした
表情が印象的でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

演劇における松たか子考

2006年06月01日 01時16分29秒 | 演劇
端的に言って、松たか子という女優はちょっと過大評価されていると
私は思います。

というのは、彼女は松本幸四郎の次女であるという名門の出で、
さらに端正なルックスのせいで、テレビドラマでは透明感のある役を
やることが多いのですが、打って変わって、演劇になると
どうも汚れ役に抜擢されることが多いようです。

例えば「ミス・サイゴン」のキム 
「ラ・マンチャの男」の娼婦アルドンサ
そして今回「メタル・マクベス」ではマクベスの妻
どれも非常に強烈な個性の、悪女の役です。

しかしどうでしょう?彼女はその役を全うできているでしょうか?
彼女の現在のキャパシティーの中ではやり切っているほうだと思います。
しかしどれも、ほかにもっともっと適任の女優がいるのに、何故か彼女が
こういう役をやることが多いのです。

多分本人も、こういう強い役をやることを望んでいるのでしょう。
それは良く分かります。でも彼女が悪い女の役をやるときに絶対的に抜けているものがあります。

それは、同じ絶望でも「一度は他人を心から信頼したのに、裏切られた」という気持ちです。
彼女が演じているのは、そうではなく「誰も本当の私を分かってくれないお姫様」の孤独のほうなのです。

彼女は「わかって欲しいのに、ただちょっとしたぬくもりが欲しいだけなのに」という、「悪事・悪態の根源」に少しも触れていません。そのせいで、彼女が
悪ぶれば悪ぶるほど、相手役の姿やテンションに全く左右されず、ただ
形としての蓮っ葉なオンナ像へと突っ走ってしまうのです。

だから彼女が悪女をやる芝居は底が浅いのです。それは本当に罪なことだと
思います。

また彼女で気になるのは「カーテンコール」をいやいややることですよね。
何度見ても本当に嫌そうに、面倒くさそうにカーテンコールをやるのは
良くないことです。そこからも彼女が本当にコミュニケーションの欠落を抱えていることが良く分かります。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇団新感線「メタルマクベス」

2006年06月01日 00時51分27秒 | 演劇
いやはや初めて新感線のお芝居を見ました。
「メタルマクベス」は新感線の芝居と言いながら
原作はシェークスピアの「マクベス」でそれを
クドカン脚本 主演は文学座の内野聖陽・松たか子
他にも上條恒彦・森山未来などが出演した
新感線プロデュース公演に近い形式でした。

で、まあもともと劇団新感線はロックギンギンのミュージカルというか
ライブ形式のお芝居だということは分かっていたのですが、
まあ長い長い。3時間30分(さらに25分の休憩ありで、実際は3時間50分)
もある公演でした。
しかも、内容は2206年の未来の地球での武将達の争い(マクベスパート)に
1980年代のヘビメタバンドのお話が絡まって、まあ長いこと長いこと。

しかも何だかジョークもつまらないし、楽屋落ち風のコントが多いし、
クドカンの悪いときの脚本のようでした。

クドカンは、現代風俗に密接に結びつきながら、そこに人情のようなものを
絡ませるのが得意な作家ですが、決して奇想天外な大きな話を書ける人では
ありません。なんだかマクベスのような大きな話が、とにかく矮小化矮小化されて
行って、それが矮小化されればされるほど、長くなるという悪い循環で、
ちょっと私は苦手な芝居でした。

まあ、好きな人もいるんでしょうけれど、私はダメですね。内野氏・松氏が
宝のもちぐられのように思われました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文学座「アラビアン・ナイト」

2006年05月15日 02時46分19秒 | 演劇
先日 文学座の「アラビアン・ナイト」を見ました。
これは、「大人も子供も楽しめる演劇」をコンセプトにした
少し平易な言葉でつづった演劇ということもあり、
観客も子供さんが多く見受けられました。

中央には大きな周り舞台があり、その周りで『王の寝物語』を語る話と
その中で語られる物語とが、シンクロすると言う構成で、非常に
スピード感あふれる演出でした。
それに、まあビックリしたのは役者がだれもかれも非常にトレーニングされていて
さすがに文学座の、劇団としての実力の高さを感じました。

役者では特に女優さん 名越志保・目黒美奈・山田里奈氏
男優では木津誠之氏の好演が光りました。
特にパワー派の目黒さんと、可憐な山田さんのコンビは非常に充実していました。

ただ、演出家として、誉めるばかりでなく、考えるところもあるとするならば、
例えば、現実の寝物語のところはモノトーンで、物語はカラーでというところを
もっともっと推し進めて、色の布・幕・背景などを使って『物語の世界の中に
真実がある』というところを推し進めた上で、王が改心するところで
その色幕を象徴的に使って、王の内面を表現してもいいかと思いました。
とにかく役者がしっかりしているので、別に何も無くても見られるいいお芝居だったのですが、
それだけじゃあ、演出家としては面白くないでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アベニューQ

2005年12月16日 02時48分38秒 | 演劇
先日、ニューヨークへ出張へ出ていたので、
「アベニューQ」を見てきました。

これは基本的に「セサミストリート」のパロディーで、
マペットショーではあるんですが、マペティアが完全に顔出しをしていて
彼らが実際に歌いながら、文楽のように手元ではマペットを動かしている
という構図で話が進んでいきます。

私はマペットショーの専門家ですから、どんなもんだろうと思ってみましたが、
とにかくマペティア、特に主役の女性役のマペティアの技量の高さに度肝を抜かれました。

彼女が扱うマペットのちょっとした仕草や、ためらいの表情など、基本的に
マペットは本当は話をしないと口が開かないので表情が付かないのですが、
彼女はそこを非常に上手く、行間の演技をしていて感動しました。

内容は思ったほど、前衛的というわけでもなく、基本はセサミのパロディーで
セサミウェイを裏返しただけという感じで、話の構造的には同じでした。
つまり、セサミウェイとは、ある教育目標があって、それを混ぜ込んでいく形で、しかし大人が聞けばかなり直接的に芝居の中に入ってくるのが特徴で、
それを構造として変えた場合は、本当は言いたい目標がなんなのか、
世の中にはそんなスローガンのようなことでは割り切れないというような
だらだらした流れになるわけですが、そうではなく、「人生の目標ってなんだろう」と自問するマペット達の話という、ただ年齢を20歳引き上げただけの
セサミストリートといえる話になっていました。

まあ、でも楽しめましたよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミュージカルにおいての本田美奈子

2005年11月09日 08時30分12秒 | 演劇
本田美奈子についての話を続けます。

1989年に「ミス・サイゴン」に合格したとき、正直言って
「東宝のお家芸の、アイドルをミュージカルに出して話題を作る
やり方か」と思った人は多いでしょう。なぜなら「レ・ミゼラブル」の
初演を思い出すと、コゼットは斉藤由貴(東宝芸能)だったからです。

さらに、「ミス・サイゴン」のプロモーションがらみで写真集の撮影のために
行ったホーチミンで、エロティックな撮影をしたという理由で拘束されたりと
舞台が始まる前は散々でした。

しかし、実際には「ミス・サイゴン」のキムは彼女しか考えられないほどの
はまり役となったのです。一つにはライバルとなる宝塚出身の女優達
(一路真樹などでしょうか?)にはない、下積みの、いい意味でのドロ臭さが彼女にはあったのです。さらにやせっぽちで顔の小さい彼女は、ベトナム難民の貧しさと力強さを体現できる人でもあったのです。
その意味で今の松たか子は、ちょっとまだ足りない感じがしますね。

ただ、それゆえどうしても「お姫様」というわけにはいかなくなります。
その後「王様と私」などにもでていましたが、なにより合ったであろうは
「レ・ミゼ」のエポニーヌでしょう。彼女こそは島田歌穂以来のエポニーヌを作りえる人だったわけです。

さらに東宝では「ベガーズ・オペラ」も控えていたわけで、これからさらに活躍の場があったのに、大変残念でした。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エリザベート その2 小池修一郎氏とその演出

2005年09月16日 09時03分50秒 | 演劇
エリザベートの話を続けましょう。
演出の小池修一郎氏は、宝塚歌劇出身です。そして宝塚の座付き作家の
得意技として、【群舞による感情と、状況の説明】があると思います。

これはオリジナルで付け加えられたという、革命のシーンに顕著なのですが、
大人数で群舞をすることで、主人公が翻弄されている時代背景と、
どうしようもなく抗いがたい人生を表現する手法です。

宝塚歌劇は一組に80人の団員がいて、それを均等に使い切ることを要求される
そうで、そうした場合、群舞や大人数でのコーラスは、1公演に数回使う
ことになるわけです。
逆に普通の劇団なら、極力少ない人数でやりくりしたいわけですから、そういう
贅沢な人の使い方をしないで演出する方法を身につけていくので、これは
宝塚出身者の得意技となるわけです。

くわえて黒い服・紫と青の光というと、小池氏の師匠筋に当たる、宝塚随一の
レビュー作家 岡田敬二氏のロマンディック・レビュー シリーズを想起せずには
いられません。
特に【PUCK】とともに上演された【ル・ポワゾン】は緞帳が上がると
いきなり漆黒のホリの前に黒と紫の男達が立って、そこに真っ白なスポットライトがあたり、スターが唄いだすというレビューで、
小池氏が宝塚という文脈の中にある作家だということが良く分かります。

あと、これはネガティブな面ですが、シシーが木から落ちるシーンで、スクリーンに映る映像のチープさは、この作品唯一のダメなところだと思います。
これも宝塚の文脈で言うと、90年ごろの【ベルサイユのバラ】でオスカルが
白馬で野を駆ける映像が挟み込まれるのですが、それが、白馬の映像の
引きの絵(ルーズショット)をバックに、アップになったオスカルがカメラ目線で
唄いだす絵が合成されているという、ダッサダサなもので、それを強く思い出しました。
普通は、あんな人が落っこちる絵を合成したりせず、大切に見につけているハンカチとか帽子とかが、人が落ちると同時に、しかし遅れて、ひらひらと落ちてきて、地面に落っこちて汚れてしまうとかなんとか、もうすこしオブラートに包むのが、映像の専門家の立場から言うと普通だと思います。

まあ、なんにせよ非常に良くできたミュージカルだと思います。
さすが即座にチケットが完売するわけです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エリザベート

2005年09月14日 22時10分33秒 | 演劇
今日、帝劇でエリザベートを見ました。
実は私はこのミュージカルは初めてだったのですが、演出は宝塚歌劇が
誇る実力派 小池修一郎氏だったので、非常に楽しみにしていました。

見てみると、なるほどよく出来ています。
特に照明設計が抜群で、宝塚でもお馴染みの勝芝次郎氏は非常にいい
仕事をしているのが良く分かりました。

黄泉の国の帝王 トートがらみのところは青と紫の光で、そこへ
まばゆいばかりの光をはなつ 王妃エリザベートを真っ白の明かりで表現する
のは、たとえばレ・ミゼで、人が死ぬと真っ白な光があたるのと同じで、
舞台においては非常に大きな効果を発揮しますね。

文学座のエース 内野聖陽氏のバージョンを見たのですが、悪くないですよ。
まあ確かに山口祐一郎と比べるとそりゃ酷と言うもので、普通に歌も上手かったし
いいんじゃないですか?

ただはなしは暗いです。本当に全く何の救いもない話です。
しかしそれでも後味が悪くないのは、ひとえに、一路真樹という、
40代半ばを過ぎても処女のような清楚さをたたえた、この人が男役で
レッド・バトラーだったとは考えられないような、女優の魅力に支えられている
ところが大きいと思います。

小池氏の公演はデビュー作「バレンチノ」と、真夏の世の夢の翻案「PUCK」を
見ていたのですが、本質的にいきなり今の実力で世に出たことが良く分かります。
すでにバウホールで86年に見たときには、今の実力がありましたよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月歌舞伎 Ninagawa十二夜

2005年07月27日 03時38分47秒 | 演劇
今日、歌舞伎座で蜷川さん演出の歌舞伎 「十二夜」を見てきました。

舞台のビジュアルイメージは、さすが蜷川さんで、アッと息を呑む美しい
物でしたが、どうでしょう?歌舞伎としてみるよりも、シェークスピア喜劇を
歌舞伎タッチで演じているという風に見たほうがいい感じでした。

つまり歌舞伎としてみるには、歌舞伎っぽくなく、さりとていつもの蜷川さん
ならもっとテンポアップをして見せるであろうところは、歌舞伎のしきたりに
したがってゆっくり見せるという風に、なんだか双方気を使ってしまっている
感じがしました。

特に技術面では、回り舞台の多用が非常に気になりました。確かに回り舞台は
歌舞伎に由来する手法ですが、現代演劇の中では、単純にもっと早く回しますし、
折角鏡を使った演出をされているなら、一瞬でふすまを入れ替えて場面転換
するぐらいのことは雑作も無いことだと思うのですが、そこをあえてやらずに
歌舞伎のテンポを守ったところに、どうも長く感じた感がありました。

内容面では、二つ言いたいことがあります。一つは獅子丸実は琵琶姫が、
左大臣を思う下りと、左大臣がなにやら獅子丸に心を惹かれる様子を
もう少し描いても良かったのでは?という点があります。
ケネス・ブラナーの映画「十二夜」はその辺りを強調して描いていたような
記憶があります。
もう一つは、最後 琵琶姫と主膳守が再会するところこそ、鏡を使うべきなのでは?と思いました。
鏡はそのメタファーとして使われていてこそ、効くのではないでしょうか。

とにかく蜷川さんが「十二夜」を演出するとなれば、我々はどうしても本場の
ケネス・ブラナーやらトレヴァー・ナンやらと比べたくなります。
その目で見ると、「歌舞伎に気を使いすぎなのでは?」と思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うたかたの恋

2004年08月01日 17時49分24秒 | 演劇
1983年宝塚歌劇団の雪組が演じた「うたかたの恋」は
あまり知られていませんが、大変な名作でした。
ロシアの皇太子の悲恋を描いたこの作品は、麻美れい・遥くららのゴールデンコンビによる、話も役者も超一級のドラマでした。
演出家の柴田氏もこの頃は非常に油が乗っていたのか、
宝塚らしい、端正で耽美的な物語に仕上がっていました。

またレビューも名手 岡田敬二氏が、例のロマンティック・レビューを始める直前の「グラン・エレガンス」という作品で、
すでに彼の特徴である、美しいバレエのシーンを司このみ氏などが担当するなど、円熟味を増しつつある頃でした。

麻美れい・遥くららというと「風とともに去りぬ」ばかりが
挙げられますが、今一度この作品も再評価されていいと思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする