この季節になると、自宅の周囲のみかん畑で、みかんがたわわに実っている。
山の斜面に並ぶ木々に、橙色の点々が広がっている。
山の斜面だけではない。
道端の平地、手を伸ばせばすぐみかんが獲れるような場所にもみかん畑がある。
子どもの頃、学校の帰り道に、通学路のすぐ横にあるみかん畑のみかんを
たま~~に、拝借することがあった。
すると、それを見ていた同級生の女の子や下級生の子たちが、
「♪い~~けないんだぁ~、いけないんだぁ~~♪」と囃し立てることが
あったが、その度に「うるせー」とか「お前もいるか?」と言って、まったく
悪びれることがなかった。
罪悪感がなかったわけではないが、自分を取り囲む風景の360°すべてがみかん畑
という中で生活していたから、農家のおじさんおばさんが丹精込めて作ったみかん
が1個や2個なくなることよりも、僕の中では、帰り道に手に入れたみかんの甘さや
瑞々しさの方がはるかに勝っていたのだ。
しかし、そんな思い出も、完全に過去の話になってしまった。
子どもの頃、みかんに覆い尽くされていた僕が暮らす島も、今から20年ほど前から
一気にみかん畑が激減した。
初冬には橙色の斑点が広がっていた山の畑はそのほとんどが荒れ果て、平地の畑は
次々と宅地化されていった。
直接の原因は、80年代後半のオレンジ自由化だった。
安価で美味しいオレンジが海外から輸入されはじめるのと同時に、廃業に追い込まれた
みかん農家は全国で数え切れない。
僕が暮らすこの島も例外ではなかった。
それ以来、初夏のみかんの花から漂う香りや、初冬のたわわに実ったみかんが、日常の
風景からずいぶん遠ざかってしまった気がする。
たまたま僕の住む地区にはみかん畑が残っているが、島全体で考えれば、オレンジ自由化
以前の半分くらいにまで減ったのではないだろうか。
近所のみかん畑で、今に落ちそうなほど豊かに実ったみかん。
子どもたちが道端でもの欲しそうな目をすることがあるが、決して獲らないように注意
している。昔の自分のことは棚に上げて。
もうこれ以上、みかん畑がなくなってしまうのは、あまりにも寂しいから。
山の斜面に並ぶ木々に、橙色の点々が広がっている。
山の斜面だけではない。
道端の平地、手を伸ばせばすぐみかんが獲れるような場所にもみかん畑がある。
子どもの頃、学校の帰り道に、通学路のすぐ横にあるみかん畑のみかんを
たま~~に、拝借することがあった。
すると、それを見ていた同級生の女の子や下級生の子たちが、
「♪い~~けないんだぁ~、いけないんだぁ~~♪」と囃し立てることが
あったが、その度に「うるせー」とか「お前もいるか?」と言って、まったく
悪びれることがなかった。
罪悪感がなかったわけではないが、自分を取り囲む風景の360°すべてがみかん畑
という中で生活していたから、農家のおじさんおばさんが丹精込めて作ったみかん
が1個や2個なくなることよりも、僕の中では、帰り道に手に入れたみかんの甘さや
瑞々しさの方がはるかに勝っていたのだ。
しかし、そんな思い出も、完全に過去の話になってしまった。
子どもの頃、みかんに覆い尽くされていた僕が暮らす島も、今から20年ほど前から
一気にみかん畑が激減した。
初冬には橙色の斑点が広がっていた山の畑はそのほとんどが荒れ果て、平地の畑は
次々と宅地化されていった。
直接の原因は、80年代後半のオレンジ自由化だった。
安価で美味しいオレンジが海外から輸入されはじめるのと同時に、廃業に追い込まれた
みかん農家は全国で数え切れない。
僕が暮らすこの島も例外ではなかった。
それ以来、初夏のみかんの花から漂う香りや、初冬のたわわに実ったみかんが、日常の
風景からずいぶん遠ざかってしまった気がする。
たまたま僕の住む地区にはみかん畑が残っているが、島全体で考えれば、オレンジ自由化
以前の半分くらいにまで減ったのではないだろうか。
近所のみかん畑で、今に落ちそうなほど豊かに実ったみかん。
子どもたちが道端でもの欲しそうな目をすることがあるが、決して獲らないように注意
している。昔の自分のことは棚に上げて。
もうこれ以上、みかん畑がなくなってしまうのは、あまりにも寂しいから。