りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

25年後の発覚。

2019-12-28 | 家族
今日から、年末年始休み。

朝から母とお墓参りに。
9時過ぎに実家に顔を出すや否や、母がワタシにこう言った。

「トイレの換気口の穴がないんよ!」

意味が分からなかった。

父が亡くなって1年と半年。
近所に住んでいるとはいえ、やはり高齢になった母親を独り暮らしさせていることを、そろそろ考えた方がいいのかも(-_-;)

母の言葉にそう思いながら、いったい何のことなのか、もう一度ちゃんと判るように話してくれ、と頼んだ。
すると、母は先ほどよりもゆっくりと事の次第をワタシに話しはじめた。

こういう事は、論より証拠。
その内容をここにダラダラと書くよりも、下の写真を見てもらいたい。

●トイレ内の換気口↓  

●その外側の壁↓   



お分かりだろうか?

外壁に、換気口が無いのである!

昨日、トイレ掃除をしていて、ふと換気口を見ていて、母は気づいたらしい。

実家は祖父が建てた築60年の建物だが、トイレは今から25年前にリフォームした。
その時に、汲取式トイレから水洗トイレへと変え、内装も外壁も大幅にリフォーム工事をしたのだった。
どうやら、換気口を付けたものの、その時に施工した新しい外壁が塞いでしまったままになっていたのだ。

トイレがあるのは家の北側で、外壁は隣家に接していて普段は目にすることが出来ず、言わば、実家の中でも死角のような場所だった。

だから、今まで全く気づかなかったのだが、それにしても25年・・・四半世紀も気づかなかっただなんて (-_-;)

この25年、家族だけでなく、親戚や友人や知人が用を足す度に換気口のスイッチを入れてファンを回してはいたが、それはいったい何のためにやっていたのだろう・・・(-_-;)
怒りも呆れも通り越えて、母もワタシも笑いしか出てこなかった。

当時トイレをリフォームした業者は父の知り合いの工務店だったのだけど、もうすでに廃業していて、今では連絡の取りようがない。
仕方ないので、ここ数年世話になっているワタシの友人の工務店に連絡した。
とりあえず、年明けになんらかの対処をしてもらうことになるのだろうけど、その一方で、すでに25年もこの換気口で暮らしてきて大きなトラブルもなかったのだから、これからもこのままでいいんじゃないか?と思っている自分もいる(笑)

それにしても、こんな年末も押し迫った時期に、こんな分かりやすい欠陥工事が発覚するなんて、思ってもみなかった (^_^;)
みなさんも、お気をつけて。

では、忘年会に行ってきます。
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お宝発見。

2019-12-07 | 平成
スマホで何気なくヤフオクを見ていたら、見つけた。



40,000円か。
けっこうするんだな。

そんな感じで色々と見ていたら、amazonでも販売されていた。



こちらは、8万円越えか。
すげーな。マジかよ。

この辺りで、ワタシの中で、ちょっと火が付いたような気がする。
引き続き、スマホをいじってポスターの事を調べてみた。

●アンディ・ウォーホル
「10 statues of liberrty」ポスター

ウォーホルが亡くなる前年、1986年にパリで開催された個展のポスター。
当時エディションで500枚限定で刷られた。

かいつまめば、そういうポスターだ。
・・・で、引き続き、スマホでヤフオクに行き、ポスターを探していたら・・・



じゅっ、10万円‼️

この金額を眼にしたとたん、ワタシはおもむろに立ち上がり、リビングから2階のクローゼット状態の和室部屋に駆け込み、押し入れの中から一幅の額を取り出した。






実は、持っているのである。


20代前半の頃、デパートの画廊で購入した。
金額は、たしか15,000円くらいだった。
ポスターにしては、やけに高額だなとは思った記憶がある。
昔からウォーホルが好きで、「マリリン」や「CARS」といった有名な作品のポスターを購入していたのだけど、それらの作品と違って、(奇妙な表現だが)ポスターのレイアウトそのままのポスターなんて、眼にしたことがなかった。
当時広告デザインの仕事に就いたばかりだったワタシは、その珍しさとポップさに一目惚れをして衝動買いをしたのだった。

その後、ウォーホル好きと言いながらも、このポスターのことを詳しく調べることもなく、20代〜30代〜40代と、結婚しようが、子どもができようが、家を引っ越そうが、常に家のどこかに飾っていた。
息子と兼用で使っていた部屋を、中学入学した息子に完全譲渡したのを契機に、これが潮時かと、労うように押入れにしまったのは、今から3年ほど前だ。

知らなかった。
そんなに貴重なポスターだったなんて。

もちろん、その当時のモノではなく、復刻版という可能性がないわけではない。

しかし購入したのが、約30年前(1990年頃)、本物のポスターを発表した直後ということを思えば、ちょっと考えられないような気がする。
それに、肉眼で見た限り、復刻版特有のスキャンして印刷したような形跡が見られない。
一応これでも、25年以上グラフィックデザインを通して印刷に関わっているのだから、それは見分けられる・・・・・・・たぶん(笑)

それにしても、もしもこれが本物だったら、いったいどれほどの価値があるのだろう?

しげしげと眺めてみると、長年様々な家で飾っていたからか、左下の方が微妙に日焼けして色褪せていた。
さらによーーーく見てみたら、正体不明の小さなシミが、散らばるようにいくつか浮かんでいる。

うーーーーーーーーーーーーーーん・・・・。

じゃあ、大負けして、3万5,000円でどうだ⁉︎

絶対、手放さないけどね(笑)
コメント (2)
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旧友再会。

2019-12-01 | Weblog
 
久しぶりに、重松清の小説を手にした。

「旧友再会」。

いかにも重松清らしいタイトル。

「流星ワゴン」「カシオペアの丘で」「送り火」・・・etc.
思えば、重松清の作品は、登場人物たちと近い年齢、似た境遇の「ちょうど良いタイミング」に読めたことで、今でも印象に残っている作品が多い。

今回久しぶりに読んだこの本も、まさにそんな「ちょうど良いタイミング」の本だった。

地方都市で暮らす、家庭持ちの50代。
もう若いとは言えない自分。
そして、想像以上のスピードで老いてゆく両親。
仕事、家庭、介護、友人、そしてすでに半ばを過ぎたであろう自身の道程・・・etc.

・・・そうか、オレもこういった物語に琴線が触れるようになったか(笑)

実際、ここ数年、同世代の友人と会うと、老いた親の一人暮らしのことや介護の話が話題になることが珍しくなくなってきた。
ワタシ自身、昨年父を亡くして以降、実家で母が一人暮らしになってしまっている。
幸い、実家とワタシの家は同じ町内なので、父が亡くなった昨年の6月以降は、仕事帰りに寄って、仏壇に線香を手向けて、母が煎れたお茶を啜りながらその日に起こった出来事を聞いてあげる・・・という行動が一連のルーティン・ワークになってしまった。
しかしその一方で、生まれた所を遠く離れて、そう簡単に帰って来られない友人の中には、故郷で老いてゆく両親のことが気が気でならないというヤツもチラホラいる。

当たり前だが、そんなことは10年前20年前には考えることがなかった。
30代40代は、妻や子どもといった自身が作った家族への比重が大きかったが、50代は、自分の人生がはじまった最初の家族への比重が再び大きくなる世代なのかもしれない。

「50にして天命を知る」という言葉があるけれど、何を何を(^_^;)
不惑の40代を越えたというのに、未だに迷いっぱなしの毎日だ(笑)

ただ、昔と比べてちょっと変わったかなぁ、と思うのは、単純に喜怒哀楽を出さなくてなったということか。

20代30代の頃は、身体の中に発火装置でもあるんじゃないかと思うほど、自身や周囲に起こった出来事に対して、敏感に反応していた。
それがここ数年は、あまり瞬時に反応しなくなった気がする。
良い事が起ころうが悪い事が起ころうが、「まぁ、そんなもんだろ」という解釈で収まるようになったという感じで。

引き出しがある程度増えて刺激に鈍くなったとか、好奇心が薄れてきたとか、色々な解釈が出来るのだろうけど、これにしたってそれが諦観なのか達観なのかも分かりやしない(笑)

この本の中には、そんな50代の男が何人も登場する。

これを読んで救われたとか、元気をもらったとか、そういう類いの感想はなかったけど、登場人物たちと同世代としては、「やっぱり、そんなもんなんだな」と思えたことが収穫かもしれない。

話は変わるが、先日、小学校時代の同級生の女性から転職する話を聞いた。
長い間、医療事務の仕事をしていたのだが、奮起一発して食パン専門のパン屋を始めるそうだ。

この歳で人生の方向転換をするのは、よほどの勇気と度胸がないと出来ることではないと思う。
あまり良い例えではないが、ロープの強度や長さを確認しないでバンジージャンプに挑むようなものだ。

しかし、彼女は小学生時代、勉強もスポーツも、ワタシなんか到底敵わなかった人だ。
ワタシが知る限り、大人になってからも、良い事も悪い事も数多の経験を積んで来た。
そんな人が決断したのだから、これから挑むバンジージャンプも、ロープの強度も長さもしっかり確認して翔んでゆくと思うし、そしてそれと同時に、きっと彼女の中には「まぁ、そんなもんだろ」という概念は、まだ存在していないのだろうとも思った。

そんな彼女が、ちょっと羨ましく感じる自分もいた。

あえて言うなら、それがまだ、ワタシとっては救いなのかも知れないな(笑)
コメント (2)
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