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りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

何も起こらない。

2025-06-15 | 家族
今日の新聞のテレビ欄。



ニュース番組で〈7月5日〉を取り上げるようだ。

〈2025年7月5日午前4時18分に大災害が起こる〉

・・・数年前から、こんな話がまことしやかに広まっているらしい。

もっともそれはネットを中心した界隈だけのようなのだけど、いよいよ当日が差し迫ってきたからか、テレビメディアでも取り上げはじめたようだ。



          ◆



こういった流布は、昔からあった。

ワタシたちの世代でいえば、なんといっても〈ノストラダムスの大予言〉だろう。



1999年の7の月に空から恐怖の大王が降ってくる。



ワタシがこの話を知ったのは、小学生の時だった。
10歳くらいだったからか、けっこうトラウマ並みに頭にインプットされてしまい、

「そうか、ボクは30歳までしか生きられないのか・・・」

と、おぼろげにそう思いながら以降を過ごしていたような気がする(笑)



しかし、実際に訪れた1999年は、もうそれどころではなかった。



その年の前年末、妻のお腹に新しい命が宿り、年が変わった1999年の前半は、その命を最優先に暮らす日々になっていた。

出産予定は8月だったので、その前月となる7月はその準備やら何やらで、程よい緊張感の中、忙しい毎日を過ごしていた。

その後、8月下旬に無事に娘が生まれ、精神的にも生活的にも落ち着きはじめた年末、

「あ、そういえば今年は人類滅亡するんじゃなかったっけ⁉︎」

と、年越しそばを啜りながら思い出した。

まぁ、今年の夏から生活が一変したし、あの夜泣きの凄まじさは、たしかに〈恐怖の大王〉だ。

そんなことをワタシが言ったら、一緒に年越しそばを啜っていた妻が笑った。

そんな感じで、ワタシたちの1999年は終わった。




だから、今回も何も起こらないと思っている。




実際、もう6月も下旬になるから、7月の予定も入りはじめている。

仕事では、7月の第一週までに絶対に終わらさなければならない案件を抱えてるし、5日の翌日の6日には、しばらく会っていない親戚の家へ母と一緒に訪問する予定にしている。

そうやって、いつも通りに日常を過ごしていれば、「あ、そういえば・・・」という感じで、いつの間にか〈7月5日〉は過ぎているような気がする。

なので、これからも、いつも通りの毎日を過ごしていこうと思います。



          ◆



そういえば、今日は〈父の日〉だった。

もちろん、何もないです。

これも、いつも通りです(笑)
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勲八等白色桐葉章。

2025-06-06 | 家族
先日、部屋の棚を整理していたら、これが出てきた。



手のひらサイズの小箱。

ここにあったのか。
憶えている・・・というよりも思い出した。
今から15年以上前、母方の祖母から譲り受けたモノだ。

「おじいちゃんのモノじゃけど、アンタにあげる」

祖母はワタシにそう言って譲ってくれた。
しかし、それから間もなくして祖母は鬼籍に入ってしまい、以来、ワタシ自身もこの小箱のことはすっかり忘れていた。
だから、この小箱の詳細については、今まで何も知らないまま時間だけが過ぎてしまった。

象形文字のような漢字が記された蓋を開けてみた。



見方によっては、バッジや許可証のようにも見えないこともない。

祖母からこれを譲り受けた頃にはまだ所有していなかったスマホで、試しに調べてみる。
そうしたら、案外すぐに小箱の正体にたどり着いた。


勲八等白色桐葉章。


Google AIの概要より→明治8年(1875年)に制定された日本初の勲章の一つで、旭日章の最下級に当たる勲章です。主に国家または公共に対して勲績のある者に授与されていました。本体部分は銀製で、五三の桐の形をしています。現在は廃止されています。


ほぉ・・・ホンモノの勲章だったのか。


もう少し調べてみると、この勲章の詳細が分かってきた。

旭日章は、勲一等から勲八等まで区分されており、〈勲八等白色桐葉章〉は章としては一番低いもので、基本的には軍人全般、軍務経験がある人に授与される勲章なのだそうだ。



          ◆



戦時中、祖父が戦地に赴いていたことは知っていた。
召集されて大陸へ向かったそうなのだが、終戦はフィリピンの密林で迎えたという。
その後、捕虜として捕えられた挙句に、どのような罪なのかはまったく分からないが、戦犯として東京の巣鴨プリズンに収容されてしまった。
そんな祖父が昭和19年生まれの母と初めて会ったのは、祖母が幼い母をおんぶして遠路はるばる広島から巣鴨プリズンまで面会に行った時だった・・・という話を、祖父の死後、祖母や母から聞いた。

この話を、祖父が自らワタシに話すことなど、一度もなかった。

きっと安易には話せなかったのだろうし、それ以前に、可愛い孫に話す必要など、祖父には露ほどもなかったのだろう(ワタシは祖父の初孫だったから、そう信じたい😅)

とにかく、今ワタシの手元にあるこの勲章は、そんな壮絶な体験を乗り越えた祖父が、お国からいただいた僅かばかりの労いの品だったわけだ。



          ◆



もう一度、スマホで調べてみる。

すると、けっこうな数の勲八等白色桐葉章がオークションやフリマサイトに出品されていることが分かった。

どのような経緯で出品されたのかは分からないけれど、おそらく元々は祖父のような人の手元にあった勲章なのだろう。

何て罰当たりなことを・・・と憤慨しながらも、念のため値段も確認した(笑)

なるほど。
八等といえども、そこはやはり勲章。
それなりの価格でやり取りはされているようだ。

祖母がこの勲章を譲ってくれた時、「アンタの好きなようにしなしゃあ」という言葉も一緒にもらった。

ワタシがもっと若かったら、その言葉を都合よく曲解して、それこそ安易にネットの世界に放り込んでいたかも知れない。

しかし残念ながら、ワタシももう50代半ば。

運命と偶然と必然がどのように絡み合って、今ワタシがこの世に存在しているのかは、自分なりに理解しているつもり。

好きなようにしていいのなら、これからも大切に持っておく以外には選択肢はないだろ。

なぁ、おじいちゃん。
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80代の景色。

2025-05-11 | 家族
昨日は、母と墓参りに。

一昨日、別件で母に電話した時、「明日は墓参りに行く」と言ったので、自然ななりゆきで一緒に行くことになった。

朝、実家に母を迎えに行き、クルマで出発。

車中、彼岸でもなく月命日でもないのに、何で今日墓参りするのか?と母に尋ねたら、

「お墓に供えるつもりで庭に植えたナデシコが、綺麗に咲いたから」とのこと。

お寺に着いて、バケツに水を入れて、お墓までの細い道を母と歩く。
先を歩くワタシを見て、母が言う。

「もうちょっと背を伸ばして、前を見て歩きんさい」

そして、こう付け加える。

「お父さんの歩き方に、そっくりじゃ」

仕方がないだろ、道が細いし、雨上がりで滑るかもしれんし、最近は肩こりも酷いし、昨日は寝不足だし・・・と、思いつくだけの理由を口にして答えたが、やっぱり最たる理由は、ワタシの身体の半分が親父のDNAで出来上がっているからなのは否めない。

墓に着くと、墓石を拭き、落ち葉を片付け、薄いピンクのナデシコの花を供え、けっこうな本数の線香を供え、手を合わせた。



          ◆



帰りの道中の車内で、実家の近所の話や、孫の話や、母が通う体操教室の話とか。

来月、母は運転免許の更新予定とのこと。

高齢者の免許更新となるので、ここ数日は運転適性検査の参考書とにらめっこしているそうだ。

久しぶりに参考書に眼を通しているけれど、3年前よりも憶えが悪くなった、と母は笑いながらそう言う。

確認の意味も込めて、たまに母の運転するクルマの助手席に乗ることにしているが、客観的に判断して、まぁ、まだ運転しても大丈夫だろう。

それでも、油断大敵。

少しでも危ないと思ったら運転は控えるように、と忠告はしておいた。



          ◆



父が鬼籍に入って、今年で7年。

父より4歳年下だった母は、この7年で父よりも年上になってしまった。

父は、77歳で亡くなった。

だから母は今、父が見ることができなかった〈80代の景色〉の中で毎日を過ごしていることになる。

それでもいつか必ず、父の元へ行く日が訪れる。

でもそれは、まだまだ遠い先の話だ。

その時まで出来る限り数多の景色を眼にして、父と再会した時にはたくさんの土産話をしてもらいたい。

母さん、それある意味、父より年上になってしまった貴女の義務だよ。

今日は、母の日。

いつまでも、元気で。
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逃げ場所。

2025-03-23 | 家族
春休みで帰省していた息子が、今日、大学へ戻っていった。

今朝、起床した時から明らかに憂鬱そうな空気を全身から漂わせていたので、それとなく尋ねてみたら、



「戻りたくないなぁ・・・」



今回は2週間ほどの帰省だったのだけれど、その間、毎晩のように地元に残っている同級生たちと遊んでいた。

20歳過ぎの男同士の友達だ。
そりゃあ、毎夜楽しい時間を過ごしたのだろう。

しかし息子曰く、戻りたくない理由はそれだけではないらしい。

向こうに戻ったら、すぐに厄介な問題と対峙しなければならないそうだ。

その問題の詳細は割愛するけれど、その話を聞いたワタシは、父親として・・・というよりは、一人の大人として自分なりの考えを息子には伝えたのだけど、それを彼がすんなりと理解してくれたかどうか・・・。

まぁ、学生といえども20歳を超えた男。

最後は自分で決断して、決めたら迷わずその道を進めばいい。



          ◆



大学進学のために家を出て3年。

行きたくて仕方がなかった大学がある場所なのに、そこに〈戻りたくない〉という気持ちになるのは、見方を変えれば、そこに息子の〈現実〉があるからなのだろう。

それは、楽しいことも煩わしいことも全部ひっくるめて、彼の〈生活〉や〈日常〉が、その場所にしっかりと根を張った証拠なのだと思う。

その一方で、実家のある〈こちら〉には、もう〈現実〉がなく、あるモノと言えば〈思い出〉だけ。

だからそのぶん、何も考えずに昔の友達とただただ楽しい時間を過ごせるのだろう。

人生において、そういう場所を持てることがいったいどれだけ幸せなことなのか、彼は分かっているのだろうか・・・😅

まぁ、いい。そんなことは。

もう〈思い出〉しか残っていないここは、お前にとっての〈逃げ場所〉だ。

辛くて、しんどくて、どうしようもなくなった時には、いつでも帰ってくればいい。

お前の部屋は、これからもそのままにしておくから。

自分に負けるなよ。
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捲土重来。

2025-03-08 | 家族
息子が帰省してきた。

昨年の夏以来、半年ぶり。

大学は2月から春休みに入っていたのだが、アルバイトで塾の講師をしているので、教え子たちの受験結果を見届けるまで残っていたとのこと。

息子が言うには、志望校に合格した子もいれば、そうでなかった子もいた様子。

後者の場合は、息子も自分の事のように一緒に落ち込んでしまったらしい。

しかし、何事も経験。

もう一度スタートラインに立って、ギアを入れ直して、何度でもやり直せばいい。

捲土重来。
すべては、まだこれから。

息子は、4月から大学4年生。

彼もいよいよ卒業に向けてギアを入れ直す時期になるので、塾のアルバイトも3月を目処に辞める予定だった。

しかし塾界隈も、人手不足やら何やらで必死の引き留め工作をしてきたらしく、結局もうしばらく塾講師を続けることになったそうだ。

まぁ、自身の学業や将来に支障をきたさない程度に頑張りなさい。
間違っても本末転倒にだけはならないように・・・と、学生時代に本末転倒の王道のような毎日を過ごしていた父親はそう思う(笑)




写真は、息子のお土産。

若い頃はさほど美味しいとは思わなかったのに、ベラボーに美味しく感じた。

歳を重ねて、また舌が変わりはじめたのだろうか?

好物になりそうです(笑)
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親父 or ジミー。

2024-12-29 | 家族
これが、今年最後のブログです。



          ◆



今秋、とある日曜日の夕方。

実家に帰り2階で片付けをしていたら、この服をみつけた。



両親が昔使っていたクローゼットの中に、この一着だけがポツンとぶら下がっていた。

ブルゾンというよりも、〈ジャンパー〉という呼び名の方が似合うアウター。

憶えている。
父のジャンパーだ。

といっても、晩年の父がこのジャンパーを着ている姿を眼にした記憶は全くない。

もっぱらこのジャンパーを父が着ていたのは、もうずいぶん昔・・・ワタシが4歳とか5歳の頃だ。

ワタシが幼い頃、春先や秋口に出かける時の父は必ずこのジャンパーを羽織っていた。
観光地とかに行った時の父はもっぱらカメラマン役だったので、一緒に写った写真は本当に数える程度なのだが、そんな数少ない写真の中の父は、ほぼこのジャンパー姿で写っていた。

中学生になった頃、この父のジャンパーを着てみたい、と思ったことがあった。

思春期に入り、ファッションにも興味を持ちはじめたワタシは、ある日、雑誌に掲載されていたジェームス・ディーンの写真に眼が行った。

写真の中の彼が着ていたブルゾンが、色は違えど、父が着ていたこのジャンパーにどことなく似ていたのだ。
(ピンと来ない方は、〈ジェームス・ディーン 赤いブルゾン〉で検索してみてください)

だが、思春期に入ると同時に反抗期にも入っていたワタシは、父に面と向かって〈お父さんのブルゾンを着てみたい〉と口にする勇気など、身体のどこからも湧いて来なかった。

もっともそれ以前に、反抗期の上に成長期にも入っていたワタシは、もうその頃には父よりも体格がよくなっていたので、仮に腕を通したとしても、羽織ることは難しくなっていたように思う。



          ◆



話は変わるが、ワタシにとって今年最大の出来事は、ダイエットに成功したことだと思っている。

一年前に比べると、12kgも減量できた。

おかげで心身ともに軽くなり、おまけに血糖値やら血圧やら脂質やらの数値も劇的に改善した。

風貌は大きく変わってどこから見ても50代のおじさんになってしまったけれど、体重だけをみれば、中高校生の頃とほぼ同じになった。


      〈もしかしたら・・・〉


ふいにそう思ったワタシは、片付けを中断してクローゼットの中から父のジャンパーを取り出し、意を決して袖を通してみた。



         着れた。



驚くほどスムーズに着ることができた。
試しにファスナーもあげてみたら、難なく上まで締めることができた。
どこにも窮屈な箇所がない。ピッタリだ。

そのままの姿で階段を降り、居間にある母の三面鏡の前に立つと、テレビを見ていた母が

〈それ、どこにあったんね?〉

と少し驚いた口調でワタシに声をかけてきた。

クローゼットの中にあった、と鏡の中のジャンパーを身に纏った自分を眺めながらワタシがそう応えると、

〈お父さん、よう、そのジャンパーを着とったねぇ・・・〉

と、鏡越しに見える母が、目を細めてそう言う。
しばらく鏡に写ったジャンパー姿の自分を眺めていたが、ひとつだけ違和感を感じた。

丈が、ずいぶんと短いのだ。

まるで「ビーバップ・ハイスクール」で加藤ヒロシが着ていた短ランばりに短い(笑)
鏡の隅に写っている母に向かってそれを言ったら、

〈まぁ、お父さんは、あんたよりも身体が小さかったけぇね〉

と、眼を細めたままそう答えた。

そうか、あの頃の親父はオレよりも小さかったのか。
あんなに大きく見えていたのに・・・

ワタシは、このジャンパーが好きだった。

派手さがなく、無骨で、作りがしっかりしていて、どんな時にも気軽に羽織える。

今にして思えば、その印象は、幼い頃のワタシが接していた父の印象そのもののように思えなくもない。

〈それにしても・・・〉

と、また鏡の中の母がワタシに話しかけはじめ、そして、こんな言葉を続けた。

〈あんた痩せたけぇ、そのジャンパー着たら、お父さんによう似とるねぇ〉

・・・なるほど。

このジャンパーを着てワタシが似るのは、ジミーではなく、やっぱり親父なんだな(笑)

まぁ、それも良しとするか😅



          ◆



今年もこのブログに訪問いただき、ありがとうございました。
皆様にとって、来年が素晴らしい年になりますように。
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社会の入口の一歩目の片足。

2024-12-21 | 家族
「年末年始は、帰らない」

息子からそんな連絡があったのは、先週末。

帰って来ない理由は、どうやらアルバイトが理由らしい。

息子は今、大学3年生。
学業の傍ら、進学塾で講師のアルバイトをしている。
息子曰く、受け持っている生徒の中に、大学受験を控えている子がいるのだそうだ。

たしかに今は、受験生が追い込みをかける最も大切な時期。
そんな時に、〈俺は休むけど、勉強がんばれよ〜〉と、そそくさと実家に帰省する進学塾の講師なんて聞いたことがない(笑)

進学塾はマン・ツー・マンの指導スタイルがウリとのこと。
おそらく息子と受験生の子は、この1年間、二人三脚でやってきたのだろう。
それならさおさら、この年末年始に帰省するという選択肢がないこともよく分かる。



          ◆



思い返せば、ワタシも学生の頃、年末年始に帰省しなかったことがあった。

当時コンビニの深夜バイトをしていたのだけれど、年末年始だけは時給が割増になるので、帰省と時給を天秤にかけて、安易にバイトを選んだのだ。

バイト代が増えるから嬉しかった一方で、元日の夜にひとりぼっちのアパートで、「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」を見ながら、黙々とカップラーメンを啜ったことを今でもよく覚えている(笑)

年末年始に帰らないことを電話でワタシが告げた時、実家の両親は何も言わなかったのだけれど、今になってその時の父母の気持ちが少しは分かるような気がする。

・・・なるほど、こんな心境だったのか(笑)



          ◆



今まで息子は、ある意味〈自分のためだけに〉生きてきたようなところがある。
まぁ、20歳そこそこの人間なんて、みんなそんな感じだけれど😅
それを考えれば、息子は今、〈誰かのために生きる〉ということを、初めて経験しているのだと思う。

まぁ、社会の入口の一歩目の片足・・・ってとこか(笑)

とりあえず風邪に気をつけて、頑張りなさい。
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もう、ホントにやめる、たぶん。

2024-11-21 | 家族
最初に言っておくけど、今日のタイトルは、別に仕事のことでもタバコのことでもありません(笑)

来年の年賀状のこと。

今年の正月にも何通か出したのだけれど、それらはすべて元旦にいただいた方々への返信のような年賀状だった。

来年も何通か年賀状をいただくかも知れないけれど、その返信の年賀状がおそらく最後になるかと思う。

思えば、パソコンとプリンターをフル活用して100枚前後の年賀状を作っていたのは何年前だっただろうか。

仕事柄もあって、それなりのデザインの年賀状を毎年毎年作っていた。

その中でも印象深いのは、この年賀状かなぁ↓





西暦を入れ忘れたのは、今でも反省点(笑)
その他にも、あらためて見返したら、イラストもレイアウトも拙い点が多々ありますが😅

これは子年の年賀状。
今、ネットで子年の西暦を調べたら、2008年の年賀状だったようだ。

毎年、年賀状のデザインを考えたら、制作に入る前に必ず家族に見せていた。
いわば、〈家庭内プレゼンテーション〉のようなもの。

この時はたしか、夕食の食卓でプレゼンをした。
プレゼンの結果、妻と当時小学生だった娘からはOKの承諾がもらったのだけれど、4歳の息子はなぜか不満顔だった。

その理由を息子に尋ねたら、息子は下唇を突き出して、



「みんなで一緒に歩きたい・・・」



と、眼に涙をいっぱい溜めて呟いたことを今でもよく憶えている。

そして、そんな息子の言葉に応えて妻が、

「あのね、これはね、お父さんが捕まっているから面白いのよ♥️」

と、身も蓋もないことを優しい口調で息子に説いたことも、今でもよく憶えている(笑)

そんな優しくて家族想いだった息子も、やがて声変わりをし、すね毛が生え、高校を卒業すると、当たり前のように家を出て行った(笑)

まぁ、時代に連れて年賀状がなくなるように、家族のカタチも変わってゆく、ということか😅

・・・というわけで、年賀状でのやり取りはなくなってしまいますが、皆さま、これからもよしなにお願いいたします🙇

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古い鉄アレイ。

2024-06-22 | 家族
ワタシの父は、偉丈夫な人だった。

身長も高くなく、頭髪も薄かったのだけど(この2つは見事にワタシも引き継いだ😅)、とにかく身体だけは筋骨隆々の人だった。

幼い頃に一緒に風呂に入ると、分厚い胸板や綺麗に割れた腹筋といった父のフォルムに、子供ながら見惚れてしまうこともあった。

「力こぶ見せて」

小さなワタシが浴槽の中で父にそうリクエストすると、父はその度に「これか?」と言いながら腕を折り曲げて力こぶを見せてくれた。
父の二の腕にできたその大きく堅い塊を恐る恐る触わる度に、ワタシはキャッキャッと湯船の中ではしゃいでいたことを憶えている。

当時のワタシは、5、6歳。
まだ筋肉なんて身体のどこにも付いていない。
でも最も身近な男である父親がそうなのだから、男は大人になれば誰もが自然と父のような身体つきになるのだと思い込んでいた。

当たり前のことだが、そんな事はないわけで。

父のその身体は、自身で鍛えた賜物だった。
しかし、これといったスポーツをしていたわけでもなく、鋳物を取り扱う小さな会社の営業マンだった父が、なぜそこまで身体を鍛えていたのか、その頃のワタシには分からなかったし、考えることもなかった。


「アンタのお父さんは、自衛隊に入りたかったんよ」


そんな話をしてくれたのは、叔母だった。
父が亡くなって3ヶ月後、納骨の時のことだ。

父は高校卒業後、自衛隊への入隊を希望していたそうだ。
だが規定の身長に届かなくて、泣く泣く断念したらしい。

そうか、そういうことか。

叔母の告白で、父にまつわる色んな事が氷解したような気がした。

世代的に戦争の記憶なんてほとんどないはずなのに、戦争映画が好きだったことや、レコードも軍歌のアルバムを何枚も持っていたことや、本棚の書籍も軍記物が圧倒的に多かったことや、そして、なぜあれほどまでにムキムキの身体つきだったのかも・・・。

おそらく父は、不可抗力でたやすく壊された夢のカケラを、完全には捨て切ることができなかったのだろう。



          ◆



話は変わるが、先日病院へ行ったら先生に減量するように忠告された。

もうずいぶん前から血糖値が高めで、先生曰く、ワタシは糖尿病の玄関に足を入れたり出したりしている状態らしい。

もちろん自覚症状なんて何もないのだけど、もう何があってもおかしくないお年頃なだけは確か。
なので、当面の間、〈腹八分目〉と〈適度な運動〉が至上命題となった。



          ◆



〈適度な運動〉として、以前からウォーキングはしていたのだが、それだけでは心細いので何が出来ることはないかと考えていた時、たまたま実家でこれを見つけたので自宅へ持って帰った。



古い鉄アレイ。

かつて父が使っていたモノだ。
ひとつ3kg。ふたつで、計6kg。

これを持ち上げていた父の姿を眼にしたことはなかったが、中央に貼ったグリップ代わりのカラーテープのくたびれ具合からして、けっこう使い込んでいたように見える。

先週から毎晩、これを持ち上げている。
この運動が果たして〈適度な運動〉に該当するのか分からないけれど、何もしないよりはマシだろう。
ウォーキングが下半身の運動なら、鉄アレイは上半身の運動だ、と自分に言い聞かせながら持ち上げている(笑)

これで減量ができれば御の字。
そしてそれと同時に、遠い昔の父のような逞しい力こぶがワタシにも備われば願ったり叶ったりなのだけど。

まぁ、欲を言い出したらキリがない。
二兎追うものは一兎も得ず、と言うし。


明後日は、父の命日。


明日は墓参りに行こうと思っていたが、どうやら大雨の予報なので、その代わりに実家の仏壇に手を合わせに行こうか。

もしもその時、〈どうか痩せますように〉と俺が仏前でお願いしてしまっても、父さん、怒らないでくれよ(笑)
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GSX。

2024-06-16 | 家族
今日は午後から、市内のバイク屋さんへ。

大学生の頃、バイクというか原付(初代メットインタクト)に乗っていたけど、それを購入したのは街の小さなバイク屋さんだった。
ワタシにとってバイク歴はその1台の僅か4年間だけだったので、思い返してみると、このような〈ちゃんとした〉バイク専門店へ訪れたのは、おそらく生まれて初めてだと思う。

50代半ばになったし、今から自動二輪の免許を取ってバイクを購入して、ここからいよいよ✨THE・第二の人生✨・・・いうわけではなく😅

今日、この店に訪れた目的はワタシではなく、娘。

娘は今、自動二輪の免許を取るために自動車学校へ通っている。
免許取得まではまだもう少しかかりそうなのだけど、気持ちがはやるのか、バイクを見に行きたい・・・と。
でも足を踏み入れたことがない店に行くのは不安で、ちょっと怖い・・・と。
だから父よ、一緒に行ってくれないか?

・・・まったくコイツは、大人なのか子供なのか(笑)😓

店内にはありとあらゆるバイクが陳列されていた。
ハーレー、ドゥカティ、BMWといった洋モノから、NINJYA、TZR、CBといった国産もズラリ。
重厚なバイクに埋もれて見落としそうになったけど、よく見るとモンキーやベスパも置いてある。





結局ワタシはバイクの免許は取らなかったのだけど、学生時代に周りにいた友人達は軒並み中型免許を取得して、FZRとかGPZとかCBRといったバイクに乗っていたので、バイクの名称だけはまるで洗脳されるように覚えてしまった。
だから30数年前によく眼にした名称のバイクを見つけると、なんだか妙に懐かしい気持ちになった。

そんな感じで店内を一人で徘徊しているワタシと離れて、娘は親切そうな店員さんから店内のバイクを1台1台説明してもらっている様子。
そのうち、1台のバイクの前で長いこと説明を受けているようなので、ワタシも近付いてみた。






SUZUKI・GSX。
カッコいいじゃん👍
GSXといえば、ヨシダやブンさんが乗っていたな。
ヨシダは昨年ホントに久しぶりに会ったけど、全然変わってなかった。
ブンさんとは卒業以来、もう30年以上会っていない。
たしか証券マンになったはずだけど、今でもどこかで元気にしているのだろうか・・・。

昭和のGSXと比べて格段に洗練されたデザインに様変わりした令和のGSXを前にして、そんな昔の友人のことを思い出してしまった。

その後、無事に免許が取れたらまた来ます、と店員さんに告げて、娘とワタシは店を出た。

店を訪れる前は少し不安そうだった娘の表情も晴れやかになったように見える。
おそらく自動車学校の教習用ではないバイクに何台も跨ったことで、免許を取った後の自分を現実的にイメージできるようになったのだろう。

まぁ、引き続き頑張りなさい。



帰りにコンビニで缶コーヒーを購入。
娘が奢ってくれた。
そうか、今日は父の日か。
これぐらいで、十分だ。

ありがとう😊
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