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りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

逃げ場所。

2025-03-23 | 家族
春休みで帰省していた息子が、今日、大学へ戻っていった。

今朝、起床した時から明らかに憂鬱そうな空気を全身から漂わせていたので、それとなく尋ねてみたら、



「戻りたくないなぁ・・・」



今回は2週間ほどの帰省だったのだけれど、その間、毎晩のように地元に残っている同級生たちと遊んでいた。

20歳過ぎの男同士の友達だ。
そりゃあ、毎夜楽しい時間を過ごしたのだろう。

しかし息子曰く、戻りたくない理由はそれだけではないらしい。

向こうに戻ったら、すぐに厄介な問題と対峙しなければならないそうだ。

その問題の詳細は割愛するけれど、その話を聞いたワタシは、父親として・・・というよりは、一人の大人として自分なりの考えを息子には伝えたのだけど、それを彼がすんなりと理解してくれたかどうか・・・。

まぁ、学生といえども20歳を超えた男。

最後は自分で決断して、決めたら迷わずその道を進めばいい。



          ◆



大学進学のために家を出て3年。

行きたくて仕方がなかった大学がある場所なのに、そこに〈戻りたくない〉という気持ちになるのは、見方を変えれば、そこに息子の〈現実〉があるからなのだろう。

それは、楽しいことも煩わしいことも全部ひっくるめて、彼の〈生活〉や〈日常〉が、その場所にしっかりと根を張った証拠なのだと思う。

その一方で、実家のある〈こちら〉には、もう〈現実〉がなく、あるモノと言えば〈思い出〉だけ。

だからそのぶん、何も考えずに昔の友達とただただ楽しい時間を過ごせるのだろう。

人生において、そういう場所を持てることがいったいどれだけ幸せなことなのか、彼は分かっているのだろうか・・・😅

まぁ、いい。そんなことは。

もう〈思い出〉しか残っていないここは、お前にとっての〈逃げ場所〉だ。

辛くて、しんどくて、どうしようもなくなった時には、いつでも帰ってくればいい。

お前の部屋は、これからもそのままにしておくから。

自分に負けるなよ。
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捲土重来。

2025-03-08 | 家族
息子が帰省してきた。

昨年の夏以来、半年ぶり。

大学は2月から春休みに入っていたのだが、アルバイトで塾の講師をしているので、教え子たちの受験結果を見届けるまで残っていたとのこと。

息子が言うには、志望校に合格した子もいれば、そうでなかった子もいた様子。

後者の場合は、息子も自分の事のように一緒に落ち込んでしまったらしい。

しかし、何事も経験。

もう一度スタートラインに立って、ギアを入れ直して、何度でもやり直せばいい。

捲土重来。
すべては、まだこれから。

息子は、4月から大学4年生。

彼もいよいよ卒業に向けてギアを入れ直す時期になるので、塾のアルバイトも3月を目処に辞める予定だった。

しかし塾界隈も、人手不足やら何やらで必死の引き留め工作をしてきたらしく、結局もうしばらく塾講師を続けることになったそうだ。

まぁ、自身の学業や将来に支障をきたさない程度に頑張りなさい。
間違っても本末転倒にだけはならないように・・・と、学生時代に本末転倒の王道のような毎日を過ごしていた父親はそう思う(笑)




写真は、息子のお土産。

若い頃はさほど美味しいとは思わなかったのに、ベラボーに美味しく感じた。

歳を重ねて、また舌が変わりはじめたのだろうか?

好物になりそうです(笑)
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親父 or ジミー。

2024-12-29 | 家族
これが、今年最後のブログです。



          ◆



今秋、とある日曜日の夕方。

実家に帰り2階で片付けをしていたら、この服をみつけた。



両親が昔使っていたクローゼットの中に、この一着だけがポツンとぶら下がっていた。

ブルゾンというよりも、〈ジャンパー〉という呼び名の方が似合うアウター。

憶えている。
父のジャンパーだ。

といっても、晩年の父がこのジャンパーを着ている姿を眼にした記憶は全くない。

もっぱらこのジャンパーを父が着ていたのは、もうずいぶん昔・・・ワタシが4歳とか5歳の頃だ。

ワタシが幼い頃、春先や秋口に出かける時の父は必ずこのジャンパーを羽織っていた。
観光地とかに行った時の父はもっぱらカメラマン役だったので、一緒に写った写真は本当に数える程度なのだが、そんな数少ない写真の中の父は、ほぼこのジャンパー姿で写っていた。

中学生になった頃、この父のジャンパーを着てみたい、と思ったことがあった。

思春期に入り、ファッションにも興味を持ちはじめたワタシは、ある日、雑誌に掲載されていたジェームス・ディーンの写真に眼が行った。

写真の中の彼が着ていたブルゾンが、色は違えど、父が着ていたこのジャンパーにどことなく似ていたのだ。
(ピンと来ない方は、〈ジェームス・ディーン 赤いブルゾン〉で検索してみてください)

だが、思春期に入ると同時に反抗期にも入っていたワタシは、父に面と向かって〈お父さんのブルゾンを着てみたい〉と口にする勇気など、身体のどこからも湧いて来なかった。

もっともそれ以前に、反抗期の上に成長期にも入っていたワタシは、もうその頃には父よりも体格がよくなっていたので、仮に腕を通したとしても、羽織ることは難しくなっていたように思う。



          ◆



話は変わるが、ワタシにとって今年最大の出来事は、ダイエットに成功したことだと思っている。

一年前に比べると、12kgも減量できた。

おかげで心身ともに軽くなり、おまけに血糖値やら血圧やら脂質やらの数値も劇的に改善した。

風貌は大きく変わってどこから見ても50代のおじさんになってしまったけれど、体重だけをみれば、中高校生の頃とほぼ同じになった。


      〈もしかしたら・・・〉


ふいにそう思ったワタシは、片付けを中断してクローゼットの中から父のジャンパーを取り出し、意を決して袖を通してみた。



         着れた。



驚くほどスムーズに着ることができた。
試しにファスナーもあげてみたら、難なく上まで締めることができた。
どこにも窮屈な箇所がない。ピッタリだ。

そのままの姿で階段を降り、居間にある母の三面鏡の前に立つと、テレビを見ていた母が

〈それ、どこにあったんね?〉

と少し驚いた口調でワタシに声をかけてきた。

クローゼットの中にあった、と鏡の中のジャンパーを身に纏った自分を眺めながらワタシがそう応えると、

〈お父さん、よう、そのジャンパーを着とったねぇ・・・〉

と、鏡越しに見える母が、目を細めてそう言う。
しばらく鏡に写ったジャンパー姿の自分を眺めていたが、ひとつだけ違和感を感じた。

丈が、ずいぶんと短いのだ。

まるで「ビーバップ・ハイスクール」で加藤ヒロシが着ていた短ランばりに短い(笑)
鏡の隅に写っている母に向かってそれを言ったら、

〈まぁ、お父さんは、あんたよりも身体が小さかったけぇね〉

と、眼を細めたままそう答えた。

そうか、あの頃の親父はオレよりも小さかったのか。
あんなに大きく見えていたのに・・・

ワタシは、このジャンパーが好きだった。

派手さがなく、無骨で、作りがしっかりしていて、どんな時にも気軽に羽織える。

今にして思えば、その印象は、幼い頃のワタシが接していた父の印象そのもののように思えなくもない。

〈それにしても・・・〉

と、また鏡の中の母がワタシに話しかけはじめ、そして、こんな言葉を続けた。

〈あんた痩せたけぇ、そのジャンパー着たら、お父さんによう似とるねぇ〉

・・・なるほど。

このジャンパーを着てワタシが似るのは、ジミーではなく、やっぱり親父なんだな(笑)

まぁ、それも良しとするか😅



          ◆



今年もこのブログに訪問いただき、ありがとうございました。
皆様にとって、来年が素晴らしい年になりますように。
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社会の入口の一歩目の片足。

2024-12-21 | 家族
「年末年始は、帰らない」

息子からそんな連絡があったのは、先週末。

帰って来ない理由は、どうやらアルバイトが理由らしい。

息子は今、大学3年生。
学業の傍ら、進学塾で講師のアルバイトをしている。
息子曰く、受け持っている生徒の中に、大学受験を控えている子がいるのだそうだ。

たしかに今は、受験生が追い込みをかける最も大切な時期。
そんな時に、〈俺は休むけど、勉強がんばれよ〜〉と、そそくさと実家に帰省する進学塾の講師なんて聞いたことがない(笑)

進学塾はマン・ツー・マンの指導スタイルがウリとのこと。
おそらく息子と受験生の子は、この1年間、二人三脚でやってきたのだろう。
それならさおさら、この年末年始に帰省するという選択肢がないこともよく分かる。



          ◆



思い返せば、ワタシも学生の頃、年末年始に帰省しなかったことがあった。

当時コンビニの深夜バイトをしていたのだけれど、年末年始だけは時給が割増になるので、帰省と時給を天秤にかけて、安易にバイトを選んだのだ。

バイト代が増えるから嬉しかった一方で、元日の夜にひとりぼっちのアパートで、「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」を見ながら、黙々とカップラーメンを啜ったことを今でもよく覚えている(笑)

年末年始に帰らないことを電話でワタシが告げた時、実家の両親は何も言わなかったのだけれど、今になってその時の父母の気持ちが少しは分かるような気がする。

・・・なるほど、こんな心境だったのか(笑)



          ◆



今まで息子は、ある意味〈自分のためだけに〉生きてきたようなところがある。
まぁ、20歳そこそこの人間なんて、みんなそんな感じだけれど😅
それを考えれば、息子は今、〈誰かのために生きる〉ということを、初めて経験しているのだと思う。

まぁ、社会の入口の一歩目の片足・・・ってとこか(笑)

とりあえず風邪に気をつけて、頑張りなさい。
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もう、ホントにやめる、たぶん。

2024-11-21 | 家族
最初に言っておくけど、今日のタイトルは、別に仕事のことでもタバコのことでもありません(笑)

来年の年賀状のこと。

今年の正月にも何通か出したのだけれど、それらはすべて元旦にいただいた方々への返信のような年賀状だった。

来年も何通か年賀状をいただくかも知れないけれど、その返信の年賀状がおそらく最後になるかと思う。

思えば、パソコンとプリンターをフル活用して100枚前後の年賀状を作っていたのは何年前だっただろうか。

仕事柄もあって、それなりのデザインの年賀状を毎年毎年作っていた。

その中でも印象深いのは、この年賀状かなぁ↓





西暦を入れ忘れたのは、今でも反省点(笑)
その他にも、あらためて見返したら、イラストもレイアウトも拙い点が多々ありますが😅

これは子年の年賀状。
今、ネットで子年の西暦を調べたら、2008年の年賀状だったようだ。

毎年、年賀状のデザインを考えたら、制作に入る前に必ず家族に見せていた。
いわば、〈家庭内プレゼンテーション〉のようなもの。

この時はたしか、夕食の食卓でプレゼンをした。
プレゼンの結果、妻と当時小学生だった娘からはOKの承諾がもらったのだけれど、4歳の息子はなぜか不満顔だった。

その理由を息子に尋ねたら、息子は下唇を突き出して、



「みんなで一緒に歩きたい・・・」



と、眼に涙をいっぱい溜めて呟いたことを今でもよく憶えている。

そして、そんな息子の言葉に応えて妻が、

「あのね、これはね、お父さんが捕まっているから面白いのよ♥️」

と、身も蓋もないことを優しい口調で息子に説いたことも、今でもよく憶えている(笑)

そんな優しくて家族想いだった息子も、やがて声変わりをし、すね毛が生え、高校を卒業すると、当たり前のように家を出て行った(笑)

まぁ、時代に連れて年賀状がなくなるように、家族のカタチも変わってゆく、ということか😅

・・・というわけで、年賀状でのやり取りはなくなってしまいますが、皆さま、これからもよしなにお願いいたします🙇

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古い鉄アレイ。

2024-06-22 | 家族
ワタシの父は、偉丈夫な人だった。

身長も高くなく、頭髪も薄かったのだけど(この2つは見事にワタシも引き継いだ😅)、とにかく身体だけは筋骨隆々の人だった。

幼い頃に一緒に風呂に入ると、分厚い胸板や綺麗に割れた腹筋といった父のフォルムに、子供ながら見惚れてしまうこともあった。

「力こぶ見せて」

小さなワタシが浴槽の中で父にそうリクエストすると、父はその度に「これか?」と言いながら腕を折り曲げて力こぶを見せてくれた。
父の二の腕にできたその大きく堅い塊を恐る恐る触わる度に、ワタシはキャッキャッと湯船の中ではしゃいでいたことを憶えている。

当時のワタシは、5、6歳。
まだ筋肉なんて身体のどこにも付いていない。
でも最も身近な男である父親がそうなのだから、男は大人になれば誰もが自然と父のような身体つきになるのだと思い込んでいた。

当たり前のことだが、そんな事はないわけで。

父のその身体は、自身で鍛えた賜物だった。
しかし、これといったスポーツをしていたわけでもなく、鋳物を取り扱う小さな会社の営業マンだった父が、なぜそこまで身体を鍛えていたのか、その頃のワタシには分からなかったし、考えることもなかった。


「アンタのお父さんは、自衛隊に入りたかったんよ」


そんな話をしてくれたのは、叔母だった。
父が亡くなって3ヶ月後、納骨の時のことだ。

父は高校卒業後、自衛隊への入隊を希望していたそうだ。
だが規定の身長に届かなくて、泣く泣く断念したらしい。

そうか、そういうことか。

叔母の告白で、父にまつわる色んな事が氷解したような気がした。

世代的に戦争の記憶なんてほとんどないはずなのに、戦争映画が好きだったことや、レコードも軍歌のアルバムを何枚も持っていたことや、本棚の書籍も軍記物が圧倒的に多かったことや、そして、なぜあれほどまでにムキムキの身体つきだったのかも・・・。

おそらく父は、不可抗力でたやすく壊された夢のカケラを、完全には捨て切ることができなかったのだろう。



          ◆



話は変わるが、先日病院へ行ったら先生に減量するように忠告された。

もうずいぶん前から血糖値が高めで、先生曰く、ワタシは糖尿病の玄関に足を入れたり出したりしている状態らしい。

もちろん自覚症状なんて何もないのだけど、もう何があってもおかしくないお年頃なだけは確か。
なので、当面の間、〈腹八分目〉と〈適度な運動〉が至上命題となった。



          ◆



〈適度な運動〉として、以前からウォーキングはしていたのだが、それだけでは心細いので何が出来ることはないかと考えていた時、たまたま実家でこれを見つけたので自宅へ持って帰った。



古い鉄アレイ。

かつて父が使っていたモノだ。
ひとつ3kg。ふたつで、計6kg。

これを持ち上げていた父の姿を眼にしたことはなかったが、中央に貼ったグリップ代わりのカラーテープのくたびれ具合からして、けっこう使い込んでいたように見える。

先週から毎晩、これを持ち上げている。
この運動が果たして〈適度な運動〉に該当するのか分からないけれど、何もしないよりはマシだろう。
ウォーキングが下半身の運動なら、鉄アレイは上半身の運動だ、と自分に言い聞かせながら持ち上げている(笑)

これで減量ができれば御の字。
そしてそれと同時に、遠い昔の父のような逞しい力こぶがワタシにも備われば願ったり叶ったりなのだけど。

まぁ、欲を言い出したらキリがない。
二兎追うものは一兎も得ず、と言うし。


明後日は、父の命日。


明日は墓参りに行こうと思っていたが、どうやら大雨の予報なので、その代わりに実家の仏壇に手を合わせに行こうか。

もしもその時、〈どうか痩せますように〉と俺が仏前でお願いしてしまっても、父さん、怒らないでくれよ(笑)
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GSX。

2024-06-16 | 家族
今日は午後から、市内のバイク屋さんへ。

大学生の頃、バイクというか原付(初代メットインタクト)に乗っていたけど、それを購入したのは街の小さなバイク屋さんだった。
ワタシにとってバイク歴はその1台の僅か4年間だけだったので、思い返してみると、このような〈ちゃんとした〉バイク専門店へ訪れたのは、おそらく生まれて初めてだと思う。

50代半ばになったし、今から自動二輪の免許を取ってバイクを購入して、ここからいよいよ✨THE・第二の人生✨・・・いうわけではなく😅

今日、この店に訪れた目的はワタシではなく、娘。

娘は今、自動二輪の免許を取るために自動車学校へ通っている。
免許取得まではまだもう少しかかりそうなのだけど、気持ちがはやるのか、バイクを見に行きたい・・・と。
でも足を踏み入れたことがない店に行くのは不安で、ちょっと怖い・・・と。
だから父よ、一緒に行ってくれないか?

・・・まったくコイツは、大人なのか子供なのか(笑)😓

店内にはありとあらゆるバイクが陳列されていた。
ハーレー、ドゥカティ、BMWといった洋モノから、NINJYA、TZR、CBといった国産もズラリ。
重厚なバイクに埋もれて見落としそうになったけど、よく見るとモンキーやベスパも置いてある。





結局ワタシはバイクの免許は取らなかったのだけど、学生時代に周りにいた友人達は軒並み中型免許を取得して、FZRとかGPZとかCBRといったバイクに乗っていたので、バイクの名称だけはまるで洗脳されるように覚えてしまった。
だから30数年前によく眼にした名称のバイクを見つけると、なんだか妙に懐かしい気持ちになった。

そんな感じで店内を一人で徘徊しているワタシと離れて、娘は親切そうな店員さんから店内のバイクを1台1台説明してもらっている様子。
そのうち、1台のバイクの前で長いこと説明を受けているようなので、ワタシも近付いてみた。






SUZUKI・GSX。
カッコいいじゃん👍
GSXといえば、ヨシダやブンさんが乗っていたな。
ヨシダは昨年ホントに久しぶりに会ったけど、全然変わってなかった。
ブンさんとは卒業以来、もう30年以上会っていない。
たしか証券マンになったはずだけど、今でもどこかで元気にしているのだろうか・・・。

昭和のGSXと比べて格段に洗練されたデザインに様変わりした令和のGSXを前にして、そんな昔の友人のことを思い出してしまった。

その後、無事に免許が取れたらまた来ます、と店員さんに告げて、娘とワタシは店を出た。

店を訪れる前は少し不安そうだった娘の表情も晴れやかになったように見える。
おそらく自動車学校の教習用ではないバイクに何台も跨ったことで、免許を取った後の自分を現実的にイメージできるようになったのだろう。

まぁ、引き続き頑張りなさい。



帰りにコンビニで缶コーヒーを購入。
娘が奢ってくれた。
そうか、今日は父の日か。
これぐらいで、十分だ。

ありがとう😊
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桜並木まで。

2024-04-06 | 家族

今日は、休日。

いつもより早めに目が覚めたので、ちょっと早いとは思ったが、至近の実家に顔を出した。

実家に着くと、ちょうど鉢植えを抱えて玄関から出てきた母とバッタリ。

「どうしたんね?今日は早う来たんじゃね」

天気も良いし暖かいので、玄関に置いているシクラメンの鉢植えを裏庭で陽の光に当てるとのこと。

母と入れ違いで玄関から入って、仏壇に線香を供えて、合掌。
その後、鉢植えを裏庭に置いて戻ってきた母と、来月行う祖母の三十三回忌と父の七回忌の法事について、お寺とのやり取りのことやら出席者のことやら食事のことやら茶の子のことやらを、もう一度確認。

おそらく祖母の法事は、これで最後。
父の法事にしても、この次の十三回忌まではしばらく時間が空くことなる。
なので、近しい親戚も来ていただくような賑やかな法事はこれが最後になるような気がする。

それらの話と段取りがひと段落して、テレビを見ながらよもやま話。
桜が咲き始めたことをワタシがポロッと話したら、そのままその流れで近所の桜並木まで母と一緒に歩いてみることになった。



          ◆



片道500m。
小学校時代の通学路でもあり、子どもの頃に数えきれないほど行ったり来たりした道。
昔は道の周りは見渡す限り畑(しかもその大半がみかん畑)だったのに、今ではほぼそのすべてが住宅地に。

そんな風景の中を、50代半ばになった息子と今年80歳になる母がとぼとぼ歩きながら取り留めのない会話。

再来週、ワタシが人間ドックに行くこと。

母が通院する開業医の先生が代替わりしたこと。

ここ数日奥歯が痛むので歯医者に行った方が良いのだけど、なんだか億劫でめんどくさいこと。

・・・年齢的なものかも知れないが、そのほとんどがお互いの身体のことや病院の話(笑)



          ◆



桜は、7分咲きといった感じだった。



ウグイスが、鳴いている。

桜の蜜を啄む蜂の羽音も、聞こえる。

近くの小さな公園で、若いママさんと小さな子どもが遊んでいる。

春が訪れたことを、実感。



          ◆



今年の桜は、例年に比べて咲くのが遅かったようだ。

思い返せば、ワタシが学生だった頃は、入学式前後に咲き誇っていた記憶がある。

しかし最近では卒業式前後に咲くのが、もう普通の感覚になっていた気がする。

これは、どういうことなのか。

開花時期が元に戻りはじめたのか?
それとも、単に今年がイレギュラーなだけなのか・・・?

まぁ、どっちでもいい。

今年の桜も、綺麗だ。
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ダルマ、じゃないけれど。

2024-03-15 | 家族
最近、ウィスキーを呑んでいる。

・・・と言っても、寝る間際に水で薄ーーーく割ったのを一杯だけ。
とどのつまり、睡眠導入剤の代わりのようなもんだ。

元々アルコールはそれほど強くないし、上記したような目的のウィスキーだから、銘柄にも別に拘りはなく。
今、呑んでるのは写真の通り、トリスのミニボトルなのだけれど、これも妻が買い物の時に買ってきたもの。
妻もワタシがお酒に対して無頓着なことは、よーーーく知っている。
適当なお酒を与えておけば良いと思っている。
だからこれは、行きつけのスーパーで一番安いウィスキーだったのだろう(笑)


          ◆



ウィスキーを口にすると、なぜか遠い昔のことを思い出す。

実家の台所。
食器棚(母や一緒に暮らしていた祖母は“水屋”って呼んでいたな)・・・その棚の隅にひとつの瓶が置かれていた。
その丸いシルエットが、子どもだったワタシが見ても可愛らしく愛嬌を感じる瓶だった。

「これ、何?」

と言いながら小学校低学年だったワタシがその瓶に手を伸ばすと、

「それはお父さんのお酒だから、触ったらダメ」

と、炊事をしていた母がワタシにそう注意した。

見覚えのあるラベルが貼られていた。
テレビのコマーシャルで流れていたので知っていた。
おそらく、映画が好きだった父と一緒に見ていた「月曜ロードショー」とか「水曜ロードショー」とかで流れていたのだろう。
商品名までは分からなかったけれど、そのコマーシャルのおかげで、それが「サントリー」というメーカーだということだけは、当時7歳前後のワタシにも分かった。

だが、父がそのお酒を水屋から出して呑んでいる姿を、ワタシは一度も眼にしたことがなかった。

父の晩酌のお供は、もっぱらキリンのラガービールだったし、その上、父もワタシと同じDNAの人だったので、瓶ビール1本空けると、「あー、酔ってしもうた」と言うほど酒に弱い人だったから、テレビのコマーシャルの中の男の人のようにカッコよくウィスキーを呑んでいる姿を想像することができなかったのだ。

ホントはお酒じゃなくて、ジュースが入ってるんじゃないか?

ある日、誰も台所がいない時に、こっそりその丸い瓶を開けたことがあった。
開けて瓶に顔を近づけたら、今まで嗅いだことがない異様な匂いが鼻腔に入り込んできて、慌てて咄嗟にキャップを閉めた記憶がある。

今思えば、それは明らかにウィスキーの匂いだったのだけれど、当時のワタシには、その匂いがとても人間が口にする飲み物とは思えなかった。

そしてもうひとつ思い返せば、その時、瓶のキャップは子どものワタシでも簡単に開けられた。

つまり、その瓶はすでに開いていたのだ。

ということは、おそらく、あの瓶は本当に父のもので、そして本当に父はその中の飲み物を呑んでいたのだ。

異様な匂いが鼻の内側にこびり付いた幼いワタシは、瓶の中身がジュースでなかったことに大いに失望し、それと同時に、あんな酷い飲み物を呑んでいる父はどうかしているんじゃないか?と、ちょっと心配になったことを今でもよく憶えている。



          ◆



その異様な匂いの飲み物が、サントリー・オールドというウィスキーで、その丸い瓶の形から「ダルマ」という通称で呼ばれていることを知ったのは、それからずいぶん年月が過ぎて、大人に近づいてからだった。



          ◆



父とのことで、今でも後悔していることが、ひとつある。

それは、一度もサシ飲みをしなかったことだ。

家族一緒の食事ならば数えきれないほどしてきたけれど、父とのサシ飲みだけは、なぜか照れ臭くて、結局父が亡くなるまで一度も出来なかった。

仕事の話、家族の話、父の若い頃の話、母と出会った頃の話、ワタシと同い年の頃の話・・・酒を交えながら、そんな話を父の口から聞きたかった。

そんな思いが、歳を重ねるに連れて強くなってきている。
きっとこの思いは、ワタシがその生涯を終える時まで、ワタシの中に残り続けるのだろう。


          ◆


上述したとおり、ワタシは父がダルマを呑んでいる姿を眼にしたことがない。
でも、今ではその理由も自分なりに分かったような気がしている。

父は、たまに一人でダルマを呑んでいたのだろう。
家族が寝静まった夜とか、そんな時に。

その時、父がどんな表情で何を考えながらダルマを口にしていたのかは、もう知る由もない。
間違っても、コマーシャルの中の俳優のように絵になる佇まいではなかっただろう。
しかし、それでもおそらく父は、ワタシや母には見せたことがない表情で呑んでいたのではないか、と勝手に想像してしまう。

そして、その時のダルマの味が嬉しい味だったのか、それとも哀しい味だったのか・・・そういったことも、もう永遠に父から教えてもらうことはできない。


          ◆


テレビを眺めながらリビングで一人で呑んでいたが、おもむろにキッチンへ行き、グラスをもうひとつ持ってきた。
そして、ワタシのグラスと同じような薄い水割りを、もうひとつ作った。

父さん、水割り作ったよ。
ずいぶん遅くなったけど、ダルマでもないけれど、今からサシ飲みをしないか?



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上書きされてゆく。

2024-01-13 | 家族
1月も、はや中旬になりまして。

そろそろ2024年も、本格的に動き出した模様で。

それにしても。

皆さんもそうだろうが、今年の正月は全くと言っていいほど正月気分がなかった。

それはもちろん、能登半島の地震や羽田空港の航空機事故が起こったことも大きいのだけれど、それ以外にも個人的な出来事があって。



1月1日の早朝、叔父が亡くなった。



叔父は父の兄で、6年前に亡くなった父とは順番が逆になってしまったのだけれど、70代で亡くなった父とは違って80代後半まで生きれたのだから、大往生と言っても良いのではないだろうか。

雲間から初日の出が現れた頃に、叔父の息子(ワタシの従兄弟)から訃報の連絡をもらうや否や、母と一緒に病院へ急行した。

正月ではあるし、葬儀は身近な血筋だけの家族葬で行うことになったのだが、息子世代で動ける人間が限られていることもあって、病院で叔父に対面した1日から葬儀を行なった3日まで、ワタシも叔父の家族と一緒に動き回った。

その間、叔母が何度も「正月なのにごめんね」「ありがとうね」という言葉をワタシに向かって繰り返していたのだが、叔父には幼い頃から本当に可愛がってもらっていたので全く苦ではなかったし、むしろこれからは、1年で最もおめでたい時期を心静かに過ごさなければいけなくなるかもしれない叔父家族が、少し気の毒に思えていたのだ。

だからかどうかは分からないが、叔母がワタシに申し訳ない気持ちを口にする度に、ワタシは呪文のように

「まぁ、いつかは笑いながら話せる時が来るよ」

と、繰り返し返事をしていた。

今思い返せば、長いこと人生を共にした伴侶を亡くしたばかりの人にかける言葉としては、あまりにも能天気な言葉だったのかもしれない。

でも、それは先に父を亡くしたワタシがこの6年間で実感していた事であったし、先立った人に対して残された人間ができる、一番の供養なのではないかともワタシは思っていた。

大事だった人が先立っても、生きている限りどんなカタチであれ人生は続いてゆくわけだし、続いてゆく限り、自身や周囲で起こるさまざまな出来事によって人生は上書きされてゆく。

だからきっと「あの年の正月は大変だったなぁ」と笑いながら話せる時がいつか来ると思うし、そうなるように生きていかなければいけないと、あらためて思う。


          ◆


そして、今は本当に大変だけれど、能登半島の方々にも、いつか笑って話ができる時が訪れますように。


          ◆

ついでに。

松本人志もダウンタウンの2人も、もうテレビで見ることは、おそらく二度とないだろう。

数十年もの長い間、あの唯我独尊のような笑いに接して来た者としてはとても信じられないことだけれど。

それでもまた、新しい誰かが唯我独尊のような笑いを生んで、当たり前のように上書きされてゆくのだろうな。
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