りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

しょせん、記号。

2015-07-27 | Weblog
ワタシの名字は、珍しい。

初対面でまともに読んでもらえることは、本当に少ない。
小学生の頃、電話帳で同じ名字を探したことがあったのだけど、父の名前と親戚のおじさんの名前しか掲載されておらず、“やっぱりな・・・”という落胆に近い気持ちになったことを今でも憶えている。

だからか、子どもの頃は、自分の名字が好きではなかった。
むしろ、嫌いだった。
田中とか高橋とか佐藤とか山本といった、誰が読んでも間違えない在り来たりの名字に心の底から憧れた。

それが時間を経て、大人になってからというもの、ふと気がつけば、そんなことを思っていた自分はどこにもいなくなっていた。
たぶんそれは、名前にしろ名字にしろ、しょせん「記号」に過ぎないのだと、どこかの時点で気づいたからだと思う。

善し悪しにつけて、人間は中身。
名前も名字も、後からついてくる。
それを重くするのも軽くするのも、自分次第・・・そんなことに気づいたのだと思う。

それに気づいてから、自分の中に変化が現れた。
自分の名字に、親しみらしきものが生まれはじめたのだ。
「記号みたいなもんだ」と突き放しておきながら、その途端に愛着が湧いてくるなんて、自分でも矛盾しているような気がするが(笑)
今思えば、たぶんその頃になって、長年好きになれなかった名字も、手足や目鼻と同じように、ワタシを構成するパーツのひとつとして、やっと受け入れることができたのだと思う。

時間が過ぎて、今現在。
実は、今、娘がワタシが子どもの頃と同じような状態でいる。
名前や名字の話になると、「こんな名字、もうヤダ」とか「普通の名字がいい」と口を尖らせる。
現在、娘は思春期真っ只中。
見方を変えれば、自意識が形成されつつあるからこそ・・・ということなのだろうけど。

でもそんな彼女も、これから先、普通に生きていけば、いずれ自分の名字も、単なる記号に過ぎないことに気づいて、そしてそれと同時に、それまで抱いたことがなかった名字への愛着というものが生まれる時が来るのかも知れない。
・・・もしかしたらその前に、否応なく名字を変えなければならない出来事が訪れるかもしれないけど。
まぁ、マンガとアニメ命!の今の娘を見ていても、そんなこと、まったくもって想像できませんが(笑)

そんなことをぼんやりと考えさせられたニュースでした↓

●滋賀の県名「変えない」8割 県民は愛着多数
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150727-00000011-kyt-l25
コメント (2)
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