ぞな通信

四国・松山生まれ、在米25年、Zonaの日常生活。

葬儀の後で

2010-11-15 10:30:57 | Weblog
帰りの車には私が1年の時の4年の先輩3名、1年のときには既に卒業していた先輩2名が同乗した。
見渡せば私が最下級じゃん・・・・・現役当時の状況を反映すれば、皆直接口をきく事がなかった「神様」である。

APECの影響で都心に近づくにつれ閉鎖されたレーンも目立ち、高速の混雑がひどくなって来た。
もっと出発が遅かったら混雑はもっともっとひどくなっていただろう。
APECがあったから羽田便は一切取れなかったし、羽田近辺のホテルも最初からブロックされていたのかな。だから全然全く予約が取れなかったのかとさえ思ってしまった。

車中話しこんでいるうちに誰かが,

「お前、出口通り過ぎたんじゃねえの?」

と、指摘した。

「うそっっっっ」

運転をしていたT1氏が、新宿で降りるはずの出口を間違ってしまった。
後の祭りである。結局明大前で降りることになった。
うそでしょう・・・・
私はでかいスーツケースとパンパンになったパックパックを持っているのである。喪服とローヒールもはいていた。こんな格好で重い荷物持って電車の乗り継ぎできないよ・・・・
それにここんとこ荷物を持った移動はタクシーに頼っていたのである。今更電車で移動できるか、と思ったものの、手ぶらの先輩方には逆らえない。ここは下級生としてとことん合わせる。

明大前で下車したのはT2氏、O氏、S氏、私の4人。残りの二人は彼らの地元の調布へと去って行った。
明大前って卒業して以来だ。校舎が激変していてびっくりした。

「せっかくだから学校ん中入って行こうぜ~」
と、50歳のT2氏が言った。

青くなる私。この荷物で陸橋上り下りできません。しかし、口には出せない。

幸い理系(生田校舎)のS氏が、
「俺関係ねーから行かねーよ。」
と、言ってくれたので胸を撫で下ろした。手ぶらだったら行くけど、この状況では無理っす。

「じゃ、せっかくだからちょっと歩こうぜ~」

と、さっさと歩き始めた。私は後ろから重いスーツケースとバックパックをしょってごろごろ歩き始めた。
明大前の駅周辺が変わりすぎて、全く認識できない。てこてこ歩くうち、すずらん通りに入った。ここはあまり変わってない。
先に進むと、なななんんと「宮古」という小汚い飲み屋がまだ残っていた。正確には多少改装された様子で小奇麗にはなっていた。

まだ残ってる・・・・・恐るべし宮古

「ここまで来たら飲まなきゃだめでしょ」
と、T氏が言ったので、もうやけくそ、行っちゃえ行っちゃえ~。
いい大人4人は狭い店に入った。入る前に店前で記念写真も撮った。
この年になって明大前に来て、この面子で宮古に入るとは夢にも思いませんでした

「俺明日から中国だから5時半にはここでるからね。」
と、S氏が言った。彼は前日上海から葬儀のために戻って来ていた。しゃべり方が大学当時と全く変わらない。彼だけじゃなくて全員変わってない。が、白髪と目の下のたるみは確実に増えた。

お腹は減ってないけど、私以外の3人は軽く生ビールを3杯飲んでいた。日本人の男の人は本当によく飲む。LAでは車を運転しなければならないので、飲む機会がさほどない。電車だからというのもあるけれど、それにしても飲むよな~。泡盛オーダーしなかっただけでも大人になりました。

S先輩の急逝がなければ、緊急帰国をすることもなかった。でもこれで別れて連絡も取り合わなかったOB達がぐっと近くなったのは確かだ。そもそも1年の時の社会人になった先輩なんて話す機会なんてないもの。
お互い社会人になったからこそ、こうやって話せるんだよなあ。

そして、四方山話をして5時半に宮古を出た。

しかし、私にはここからが大変だった。
皆が一緒だったので電車で移動することになり、今までの移動の中で一番きついものとなった。
そう、明大前から都内某所のマンションまで、電車と徒歩で辿りつかねばならないのだ。他の先輩方は手ぶらでいいけど、わたしゃでかいスーツケースとバックパック持ち。決して荷物を持ってくれる訳ではなく、かといって適度な速さで付いて行かねばならず相当きつかった。日曜日とはいえ6時前後はまだラッシュ時。車内で荷物が邪魔になって申し訳ない。しかも階段ばっか。
改札で券が出て来なかったりもした。何で、こういうときにこういうトラブルがあんの?

渋谷で最後のT2氏を別れ、そこからは半ばボーゼンとしながら帰路に着いた。喪服が汗だく。もうどうでもいいや。
しかし、なんつー濃い日なんだ!?
自分、よくやったぞ。

先輩の死(4)

2010-11-14 12:08:47 | Weblog
葛生のご自宅に着くと、喪服を着た大勢の人達がいた。
お花がたくさんたくさんあった。
お仕事で大活躍されていたのがよくわかる。所狭しと何段も何列も花があった。
「会社はもっともっと奥の方にもこの一体あるんだよ」と地元のA君が教えてくれた。
でもこの一体ってどんな一体なのよ。でか過ぎるよ。
仕事関係の方々も多く参列しているから、見分けるのが大変だ。
スキー部のOBはいるだろうか。
すると白髪が随分増えた懐かしい顔が目に入った。

最初はわからず通り過ぎるところで、

「あっっっっっっ!!!!!!!」

という声を発し、挨拶した。
こんなことで全員集合なんて皮肉過ぎる。

24-5年ぶりの再会。
だんだん昔のスキー部の人達が集まった。通夜に参加して帰った人達には会えなかったけれど、ほぼ全員駆けつけた。北海道、秋田、東京、アメリカ、中国と遠くから皆がかけつけた。
うえーん、S先輩が亡くなったのは悲しいけど、皆と会えたのも涙が出るくらい嬉しいよ
事実、亡くなった実感がない。
父の時もそうだったけど、これは悪い冗談で、式が終わってから、
「なーんちゃってな。お前らバカだな~。本気で信じてたの?」なんて起き上がりそうな気がする。
まだ受け入れるのに時間がかかる。

式が始まるとS先輩とは会えなくなるので、最初に私たちは焼香をあげさせてもらった。
大学2年のご長男が歯を食いしばって立って挨拶をしていた。
私はご長男の年だった頃のS先輩しか知らない。こんなとき、父親が亡くなるなんて。
一番下のお子さんはまだ小2。現実がわかっていないようだった。

飾られていた写真は、倒れる前日お茶の水にある大学ホールで開催された総会での写真だった。素敵な笑顔。元気にしていたSさん。
主将でもあったM先輩は今に至るまでみんなのまとめ役だ。
友人代表で弔辞も読んだ。
たまたま葬儀があったその日は、OBのゴルフコンペの日だった。アレンジは亡くなったS先輩が全部取り仕切り、近所のゴルフ場でプレーしているはずだった。今頃ゴルフ場で会うはずが、皮肉な事に彼の葬儀で全員集合となってしまった。
普段、冷静沈着で感情を表に出さないM先輩が泣きながら、何度も言葉に詰まりながら、弔辞を読んだ。
私たちも泣いた。

ご家族はもっともっともっと悲しいんだよね。
もう怒ったり、小言を言ったり、アドバイスをしてくれる父親がいない事に絶望感を感じている息子さんの言葉。
けなげに5代目として事業を継ぐ意志を示した息子さん。
きっとS先輩はあなたの今の姿を誇らしく思っていると思うよ。

M先輩が、
「この年で俺たちがこういう形で全員揃っちゃいけないんだよ。じじい、ばばあになってちょっとしか参列者がいないぐらい長生きする方が良い人生なんだよ。」
と、目をしょぼしょぼさせながら、若い死を痛むように言った。

M先輩はご遺族とお骨を拾うところまでちゃんと付き添うので、
「じゃ、俺行くから、またな。元気でな。」
「はい、Mさんこそぶっ倒れないで下さいね。」
と言って別れた。

遺体が車で運ばれる所まで全員で見送って、私たちもそろそろ出発することにした。
私たちも今度いつ会えるかわからない。それこそ誰かの葬式で再会なんてしゃれにならない。年から言うともう結婚式はないだろうし、葬式の方が徐々に増えてくるんだろうけど。
駐車場で、それぞれが車に乗り込み、私も東京方面に帰る人の車に同乗させていただくことになった。
すごく印象深かったのは、別の車で帰る後輩たち(といってももう40半ば過ぎのおっさんたち)がちゃんと先に帰る先輩をドアが閉まって動き始めて見えなくなるまで見送ったことだ。こういう感覚忘れてた。きちんと礼儀をわきまえている姿。アメリカにはないよな~・・・・・
印象深いっていうことは、自分もこういう感覚失っていたんだろうな。やばい、やばい。

4分の1世紀ぶりの再会でも、会ったら当時の上下関係が即刻復元され、いじられる人はいじられ、先輩は先輩のまま、後輩は永遠に後輩のまま。いくら会社で偉くなってても偉くなくても全く関係ない。懐かし過ぎる。この感覚。

東京方面組には2台に分かれて途中ラーメン屋さんで遅いランチを皆で取った。
ラーメン屋さんでも帰りの車中でも話したことだが、それぞれが会社で上の立場になり、自営業なら社長(当たり前か)、会社なら支店長レベルと責任のある地位に就いて来ている年代になったんだなあ。彼らの子供たちも高校大学に入り、それぞれが結構良い所に入っているのだ。
私利私欲のない学生時代の先輩後輩がこうやって活躍しているのは無条件に嬉しいし、24、5年前のことだけど、つらい現役時代を乗り越えて来た同志たちなので、心地いい関係っていうか、疑似家族のような、泣けてくる程懐かしい気持ちだった。どこの学校を出ていようが、どこの国の出身であろうが、海千山千がいる娑婆というか社会のことを考えると、この集団はちょっと甘えられて安心できる避難所と言えばいいのだろうか。一瞬の時間だけれど、夢のような時間だった。それが葬儀というのが皮肉ではあるが。




先輩の死(3)

2010-11-14 11:46:17 | Weblog
土曜の朝、6時半にロビーで待ち合わせてた。
時間ちょうどに彼はみかん箱を持って現れた。お母さん、みかん箱に入れて荷物送ったんだははは、ナイス!
ホテルはA君の後輩のホテルらしい。地方で地元と密着して生きている彼は、青年会議所、商工会議所に所属して街の活性化に一役買っている。そんな伝(つて)を私も使わせていただいた。円高だし、助かるよ。

ごはんを食べながら、故S先輩の地元での活躍ぶりをたくさん聞いた。ミュージカル監督を呼んで地元の子供たちの演技指導をしてミュージカルを企画、上演したこと。
石灰が取れるその土地で、土木建築業者として成功していること。
町長や市長になれる資質を持ち、周りから尊敬されていたこと、等等。
A君は地元に帰ってからS先輩との交流が深まったそうだ。
私はすぐ渡米したからS先輩のご活躍やご家庭のことなんて全く知らなかった。大学時代の姿しか知らない。 
そこには私が知らないS先輩の素晴らしい姿があった。父親として、会社経営者として、地域のリーダーとしての立派な姿・・・・

そして仕事の話、宇都宮の話、栃木の話をたくさん聞いた。
聞いているうちにふとLAで良く知る某スポーツ系雑誌のライターのことを思いだした。彼も栃木出身だったよな・・・。
A君から、栃木にはバスケット、ホッケー、サッカーなどのプロチームが存在する事を教えてもらった。それを立ち上げて運営し、地域を盛り上げるために熱く活躍しているA君始めとする方々が多くいる。
ライターのKさんが彼らと結びついたら面白いかも。Kさんも彼が長年アメリカで取材して来たことを少しずつ日本に還元したいと考えていたからだ。
さっそくメールしてみよう。

そんなこんなで、私たちは葬儀参列のため佐野市葛生(くずう)に向かった。


先輩の死(2)

2010-11-14 11:17:03 | Weblog
満員の11時間半のフライトは、子連れが多くて騒がしかった。
気が狂ったように泣き続ける子供が前列に座っていて、隣のおじさんが、「うるせえっ」と何度も何度も聞こえるように悪態をついていた。
悪態を聞くのもつらい。もう怒る気にもならないよ。
若いお母さんは、CAにため口を聞き、態度がてんでなってなかった。
泣く子を抱えてフライトするのはつらいんだよね。だけどその態度はないでしょ。
なので同情は一切なし。

ようやく着いたら、すぐ宇都宮に移動だ。
メールしてもらった交通手段はすべて初めて尽くしだ。
最短で到着する方法を検索して転送してくれた模様だったが、荷物があるからバスで1本の方が楽なんだけどなあ。でもバスだと時間がかかる。色々なアレンジはA君に任せてあるので、彼の指示に徹底的に従うことにした。
今回はスカイライナーで上野まで。上野から東北新幹線で宇都宮入り。
スカイライナーなんて初めて。
東北新幹線も初めて。
栃木も初めて。

飛行機の到着が30分遅れたので、荷物をピックアップしてからが怒濤の移動になった。
ぎりぎりでスカイライナーに乗り、寝たと思ったら上野に着いていた。
ゴロゴロ荷物をひっぱって歩いて東北新幹線で切符を買うが、慣れてないのでちょっと手間取ってしまった。
急いでプラットホームに行ったらちょうど新幹線が着いた。

満員だよ、こりゃ・・・・

こんなに通勤客がいるの、初めて知った。

金曜日で帰宅ラッシュっていうのもあるんだろう。1時間だから宇都宮から通勤圏内なんだろうなあ。

空いてる席があったので座って40数分後にはついた。

こんな移動だったので、事務手続きをしてくれていたA君に途中電話する時間もない。時間があっても公衆電話もない。6月に帰国したときに買ったプリペイド携帯のお金をチャージする時間もない。
宇都宮駅に降りて、公衆電話を探しながら改札に向かっていた。
どうしよう。連絡取れない・・・・

そのとき、学生時代からほとんど変貌していないA君が改札口で立っていた。

「おめー、電話ないから本当にくるかどうかわかんなかったよ。」

事情を話してお互い納得。
すぐ彼が手配してくれたビジネスホテルに直行した。
15分程度の道すがら、どうやってSさんが亡くなったのか、色んな話をして20年来の空洞をあっという間に埋めた。

彼の家にも私の実家から荷物がさっき届いたとの事。
A君の奥様がこれまた気が利く方で、「喪服がしわくちゃにならないように先に出して吊るしておきますね」と言ってくれた。香典袋も名前を記入して母が入れていてくれた。靴も。
ありがとう、お母さん!
そして松山と宇都宮とLA間の見事な連係プレー。
最初、電話を入れた母と事情を全く知らないA君の奥様は会話が全く噛み合なかった。毎年クリスマスカードを出していたので、奥様は「松山」と聞いてなんとなくわかったようだった。でも彼女はSさんが急逝したことも知らなかった。
A君との怒濤の連絡も、彼が大阪出張中にばたばたと決まった事で、慌ただしすぎて彼も自宅に連絡するのを忘れたらしい。
クリスマスカードを出しておいて本当によかった。
最悪の場合、普段着でそっと参加するつもりだったけれど、荷物間に合った。

チェックインをする間、A君はM先輩に連絡を取ってくれた。携帯を持っていない私の代わりに業務連絡の数々をテキパキこなしてくれた。

M先輩と話すと、

「おー、遠くからお疲れさん。残念な結果になったけど、Sは確実に死んでるよ。それは確か。」

と、言った。
死亡直後からずっと付き添っていたM先輩は徐々に死を受け入れられているようだけど、まだまだ私には受け入れられていない。
わかっちゃいるけど、そんなまともなこと言わないで下さいよ~

その日はもうすぐ寝て、翌日6時半に朝食を一緒にとることにした。
疲れた。でも脳が覚醒している。

先輩の死(1)

2010-11-14 10:31:49 | Weblog
先週月曜日実家の母からメールが来て、

「大学スキー部のSさんが急逝されたからすぐPに連絡を入れて下さい」

というメッセージが入った。

え?!?!?!?!?!??!?

Sさんは私より2つ上の48歳。1年の時の3年。
急逝したってどういうこと?!

事情が全くわからないので大学時代からの親友Pに連絡をとった。しかし、メールも電話も通じない。うちの電話がうんともすんとも言わず何故か使えない。こんなときになんで?!
どうもPも私に連絡を直接取ったが、通じなくて実家に連絡したそうだ。
時差と仕事、サーバーの問題などがあって、直接メールが届いたのが翌日の火曜日だった。

先週土曜日、大学スキー部50年総会というのがお茶の水にある大学ホールであったそうだ。そんなイベントがあったことすら私は知らなかったのだが、来れる人が参加し、Sさんもその一人だった。懐かしい面々と土曜の夜飲み、3人が同じホテルに泊まっていた。
翌日ランチを一緒に食べて別れる予定だった。
当日朝、Sさんは「貧血気味だからホテルでもうちょっと休んで帰ります。」
と、言い、他二人はランチを済ませてそれぞれの帰路に着いた。一人は北海道へ、一人は群馬へ。
群馬に帰るM先輩が心配して、改札口からどうしてるか様子を聞くためSさんの携帯に連絡したら、なぜか警察の方が出た。

「今すぐ病院に来る事はできますか?」

M先輩は、(何だかわからないけれど、何かよくないことが起こった)と、不安を募らせながらすぐ駅からタクシーをぶっ飛ばして病院へ向かった。
そしてSさんが亡くなっていることを最初に知ったのだ。
すぐSさんの実家がある栃木に連絡を入れ、家族が病院に到着する間、M先輩は不安で不安でしょうがなく、東京に住むスキー部の連中に電話をかけまくった。来れる人が病院にかけつけた。
ご家族が到着するまでの5-6時間、彼らは病院で待ち続けた。

ご家族が対面する場面を目の当たりにしただろう。どんな気持ちで過ごしたのか胸が痛む。
Sさんにはお子さんが4人いて、一番上が大学2年。一番下は小学2年生・・・

Pから連絡をもらって、帰国しようかしまいかちょっと考えた・・・・・・

帰ろう。

即決した。

チケットが取れるかどうか保証はないけれど、取れたら帰ろう。
お別れの挨拶をちゃんとしておきたいし、OBの面々に会えるのもこんな時でないと一生会えないかもしれない。帰ろう。

翌日水曜日にチケットを手配しまくった。お通夜にはもう既に間に合わない。木曜日にLAを出なければ、土曜日の葬儀には間に合わない。
羽田行きはもうない。
最短で木曜出発、日曜戻り。
でも日曜日のフライトが取れない。
月曜なら取れそうだ。
木曜出発、月曜LA戻りで決定。
月曜戻りなら、実家にも立ち寄れる。

即決して購入した。
ずっと患者さんを通して、3日あれば日本に行って帰れる。1週間もあれば余裕。なんて話を耳にたこができるほど聞いていたので、もう行くしかない。
仕事のアレンジを猛スピードでこなしたが、後は任せるしかない。出来る事だけはやっておいた。スタッフや患者さんにはご迷惑をおかけするが、あとで追いつくしかない。

ただ栃木なんて行った事がない。偶然スキー部の同級生Aが宇都宮に住み、彼に全部内容を話したら、ホテルや交通手段を的確に指示してくれた。
喪服を実家に取りに行く時間もないので、一式、宅急便でA君のところへ送ってもらうことにした。

家族にも話して快諾してくれたのも助かった。木曜日はベテランズデーで学校も休み。予算削減で木曜日から日曜日がお休みなのも助かった。お友達の家にお泊まりプランをいれて忙しくさせておけば、気がまぎれるかもしれない。

そして木曜日に成田行きの飛行機に乗り込んだのであった。




タフな韓国人

2010-11-06 18:29:14 | Weblog
近所の総合病院に働く韓国系看護士に会った。流暢な英語を話すのでここで育ったのかと思ったら、9年前に渡米したという。どうして看護士になったのか聞いていたら、彼女は最初はアートを勉強したくて渡米したそうだ。
でも、アートで食べられる人は限られている。ずっと学生のままいる訳にもいかないし、彼女もこのままでは生きて行けないと、進路を変え、看護士になった。でも正規のビザがないと米国にいる事は出来ない。そこで彼女は軍所属(リザーブ)の看護士になった。

nurse corps
http://armynursecorps.amedd.army.mil/index.cfm

自動的に永住権が支給され、彼女は合法的にアメリカに住むことができるようになった。
普段は総合病院で働き、招集された場合に限り軍に出動する、という医療班。
リザーブの場合は、月1回のミーティング/トレーニングに参加すれば義務は果たせる。海外に招集された場合は、従軍しなければならない。
幸運なことに、今、看護士になるのは学校に入ることからして大変だ。不況なので、看護学校がすぐ定員いっぱいになるのだ。仮に卒業しても、総合病院のような所に就職はない。
軍にしても、彼女が入ってから募集がなくなった。国がお金を出さなくなったからだ。
彼女は「全部がタイミングよかったの。」とかわいい声で言った。

こんなかわいい子にそんなガッツがあるなんて。
男女に関わらずどの日本人留学生が正当な方法で米国に滞在するために軍に入ろうと思うだろうか。
でも韓国人は違う。自分で生きて行かなければならないことを良く知っているので、女の子でもこういう手を使うのだ。
根性からして違うなあ。

「進路変更してよかったわ。私、看護士として働くのが大好きなの。病院が大きいから色んなことを学べるしね。海外に派遣されるときは、ドイツか韓国を希望してるんだ。」

と、話してくれた。

たまたまうちから彼女が働く病院に入院した患者さんが、これまたたまたま彼女のローテーションに当たった。日本から来て不安で不安でしょうがないだろうに、たまたま彼女が私の名前を言ってくれたおかげで、小ニュミケーションすることができたそうだ。
世の中狭い。
でも彼女みたいな女の子がどんどん増えるといいな。

単品文化

2010-11-06 06:26:03 | Weblog
ある薬品会社の人と話していて、医療製品も文化や哲学的な背景に影響されるんだなあと思ったことがあった。
ある薬を販売するとしたら、その成分量は一つ、と決められていることが多いらしい。
一方で日本の薬品の場合は、調合して理想に近いものを作ることが多いそうだ。
日本の製品をそのまんまアメリカに導入してもFDAの認可がおりない。もちろん使用されている成分がアメリカで認可されないというのもあるだろうが、この混合思考がアメリカに合わないのではないか。
思うに、もし何かが起こったとき、どの成分に問題があるか限定しにくいからか。この国、訴訟多いし。
この薬はこれ、と一つだけが書かれている事が多いのも最近知った。

たまたまランチを食べていたからだけど、料理にも通じるよなあ。
アメリカは、いろいろな物が食べられるバッフェこそあるものの、代表的なのは、ステーキ、ポテト、野菜。それも手の混んだ野菜じゃなくて、人参、ブロッコリーみたいなそのまんま簡単な野菜。
子供のランチだって、ビーナッツバターのサンドイッチ。みたいな単純なもの。
キャラ弁なんかあり得ない。お惣菜なんかもあり得ない。その前にアメリカ人お母さん、そんなに料理できないし。
料理に関してはぐうたらな私が言うんだから間違いない。

その昔、ファジー理論というのが日本を席巻したが、それを唱えたアメリカ人学者がアメリカでその理論が受け入れられなかったというのが、今ではよくわかる。受け入れられる土壌がないもの。よくそんな理論がアメリカ人によって生まれたなあと逆にその学者の「変人さ」を讃える。曖昧さなんてここでは許されないもの。

思想が製品にも影響する一こまであった。

屋根

2010-11-06 05:28:59 | Weblog
ちょとした雨で自宅が雨漏りし始めた。日本の夕立程度の雨。
最初はある天井。次は玄関。
漫画のように、ぽてぽて落ち始めた。
プラスティックのコンテナーを床やテーブルに置いて、雨漏り対策をしたが、ちょっとこの雨漏り尋常じゃない。

オフィスのトイレの工事をしてくれたコントラクターに見てもらったら、

「すごい穴があいてますよ。もうちょっと手当をしたら済むってレベルじゃないですよ。木も腐ってるし。」

と、写真を見せてくれた。

す、すごい・・・・
どうやったらこんなに穴があくの

というぐらいの穴だった。

ここは雨が降らないから、屋根も家も安普請だ。

昔、父が、

「拭けば飛ぶような屋根ばっかりやなあ」

とあきれて言っていたのを思い出す。

「3匹のこぶた」の藁葺き屋根の家みたいなもんだ。オオカミが一拭きすれば飛んで行く家。それが標準なんです。

これから雨のシーズン(といっても日本のレベルからするとぱらぱら)に備えて修理しなければならないので、コントラクターに聞いてみた。すると、彼らは、

「今はシーズンだから高くなりますよ。回り見ても屋根の修繕ばっかりしてるでしょ。もし待てるんだったらシーズンオフの来年4月以降の方が値段の交渉がしやすいと思いますよ。」

と、業界ならではのことを教えてくれた。

知らなかった。
確かに近所の家では屋根の張り替えをしている。
すぐに修理に取りかかりたいけれど、すぐ修繕をする程資金がない。なんせ今年は自宅のレストルーム、バスルームを改装したからなあ。
一方で、我が家は雨期に持つような状態ではないし。
こうなったら見かけはどうでもいいから、ビニールシートをかけて凌ぐしかないか。
なんだか川岸に並ぶ0番地の家みたいになるんでないかい。
いや、そんな事言ってられない。
屋根に上ってやるしかないよ。

ただでさえ軟弱な夫は、腸炎でさらに使い物にならない。薬の副作用で目眩もしている(と本人談)なので「おれは屋根には登らない方が良い」と自己申告があった。
この腸炎の最中であるのに、彼は食欲が戻って来たからと(私が楽しみにしていたクリスピークリームの)ドーナツを3個も4個も食べ、夜中にカップラーメンを食べている。これってどうよ?
「はなから当てにしてないから、心配せんでええよ。」
と、優しく伝えた。(この人の場合、「行間を読む」とか「心の襞を読む」ということがないから、多分わかってないと思うけど)

お天道様に雨をやさしく降らせてもらうしかないなあ。


トイレ工事一つとっても・・・

2010-11-06 05:15:58 | Weblog
オフィスのトイレのシンクを先週オーダーしたが、案の定「間違ったシンクが到着したので、再オーダーしましたから、来週か再来週まで待って下さい。」とコントラクターが申し訳なさそうに報告に来てくれた。
電話でも済むのに、わざわざ申し訳ない。でも日本人コントラクターだからわざわざ直接来てくれたんだと思う。
もう一つは完成していたので、「急がないから良いですよ」とお伝えしておいた。

オーダーしたもので間違ったものが届くのは、この国では日常茶飯事だ。
日本では当たり前の、こういう基本中の基本の作業が、アメリカでは普通に出来ない。だから工期も遅れる。
タイルの時も、たくさんオーダーした中に一パッケージ色違いが混ざっていた。
別のライナーと呼ばれるタイルもそう。再オーダーしたら、「この色しかない。もう作ってない!」と先月オーダーしたものを「もう作ってない」と自信を持って言い切る。
コントラクターが行き、日を変えて私が行く。すると、「ちょっと待て」と調べてくれたりする。
で、本来のタイルをくれたりする。
一体どうなっとんじゃい!
タイル屋は謝るでもなく、正しいのに取り替えてくれたが、一々タイル屋まで足を運ばなければならない。でもこれも日常の一つ。
コントラクターも、
「こっちの人は本当にいい加減ですよ。問屋も卸売店も探すのが面倒だから、違うやつを持って来て、これしかないって言い切るんですよ。」
とのことであった。
うちの場合、タイル屋が車で行ける距離だったからいいけれど、これが行けない距離だったら、あきらめるしかなかったかもしれない。
なんで、こんなにプロ意識がないねん!

物流関係の方々の苦労ったら並大抵じゃないだろうなあ。
アメリカ国内だと物がなくなったり、遅れたりは、これまた日常茶飯事だが、これを日本側に伝えるのはおそらく至難の業だろう。広大な国が故、良く言えば大らか、悪く言えばいい加減。仕事のモラルが日本と全く異なる。
日本人は本当にきっちりしている。これは世界に誇れる美意識だ。
日本にいると全員そうだから、ありがたみがわからないけれど、外に出ればどれだけ優れた民族かよくわかる。

ギター

2010-11-03 22:06:20 | Weblog
お試しでぞな夫がぞな子をギター教室に連れて行くらしい。
2回目があるかどうかは全く持って不明だが、もし将来ギターを弾く事があったら弾いて欲しい曲がある。

夜空ノムコウ (桑田圭祐バージョン)
http://www.youtube.com/watch?v=CfDKeLp4TuI

別れのサンバ 長谷川きよし
http://www.youtube.com/watch?v=lHHU78gLf8k

この2曲をぞな子が弾いてくれたら嬉しいなあ~。