帰りの車には私が1年の時の4年の先輩3名、1年のときには既に卒業していた先輩2名が同乗した。
見渡せば私が最下級じゃん・・・・・現役当時の状況を反映すれば、皆直接口をきく事がなかった「神様」である。
APECの影響で都心に近づくにつれ閉鎖されたレーンも目立ち、高速の混雑がひどくなって来た。
もっと出発が遅かったら混雑はもっともっとひどくなっていただろう。
APECがあったから羽田便は一切取れなかったし、羽田近辺のホテルも最初からブロックされていたのかな。だから全然全く予約が取れなかったのかとさえ思ってしまった。
車中話しこんでいるうちに誰かが,
「お前、出口通り過ぎたんじゃねえの?」
と、指摘した。
「うそっっっっ」
運転をしていたT1氏が、新宿で降りるはずの出口を間違ってしまった。
後の祭りである。結局明大前で降りることになった。
うそでしょう・・・・
私はでかいスーツケースとパンパンになったパックパックを持っているのである。喪服とローヒールもはいていた。こんな格好で重い荷物持って電車の乗り継ぎできないよ・・・・
それにここんとこ荷物を持った移動はタクシーに頼っていたのである。今更電車で移動できるか、と思ったものの、手ぶらの先輩方には逆らえない。ここは下級生としてとことん合わせる。
明大前で下車したのはT2氏、O氏、S氏、私の4人。残りの二人は彼らの地元の調布へと去って行った。
明大前って卒業して以来だ。校舎が激変していてびっくりした。
「せっかくだから学校ん中入って行こうぜ~」
と、50歳のT2氏が言った。
青くなる私。この荷物で陸橋上り下りできません。しかし、口には出せない。
幸い理系(生田校舎)のS氏が、
「俺関係ねーから行かねーよ。」
と、言ってくれたので胸を撫で下ろした。手ぶらだったら行くけど、この状況では無理っす。
「じゃ、せっかくだからちょっと歩こうぜ~」
と、さっさと歩き始めた。私は後ろから重いスーツケースとバックパックをしょってごろごろ歩き始めた。
明大前の駅周辺が変わりすぎて、全く認識できない。てこてこ歩くうち、すずらん通りに入った。ここはあまり変わってない。
先に進むと、なななんんと「宮古」という小汚い飲み屋がまだ残っていた。正確には多少改装された様子で小奇麗にはなっていた。
まだ残ってる・・・・・恐るべし宮古
「ここまで来たら飲まなきゃだめでしょ」
と、T氏が言ったので、もうやけくそ、行っちゃえ行っちゃえ~。
いい大人4人は狭い店に入った。入る前に店前で記念写真も撮った。
この年になって明大前に来て、この面子で宮古に入るとは夢にも思いませんでした
「俺明日から中国だから5時半にはここでるからね。」
と、S氏が言った。彼は前日上海から葬儀のために戻って来ていた。しゃべり方が大学当時と全く変わらない。彼だけじゃなくて全員変わってない。が、白髪と目の下のたるみは確実に増えた。
お腹は減ってないけど、私以外の3人は軽く生ビールを3杯飲んでいた。日本人の男の人は本当によく飲む。LAでは車を運転しなければならないので、飲む機会がさほどない。電車だからというのもあるけれど、それにしても飲むよな~。泡盛オーダーしなかっただけでも大人になりました。
S先輩の急逝がなければ、緊急帰国をすることもなかった。でもこれで別れて連絡も取り合わなかったOB達がぐっと近くなったのは確かだ。そもそも1年の時の社会人になった先輩なんて話す機会なんてないもの。
お互い社会人になったからこそ、こうやって話せるんだよなあ。
そして、四方山話をして5時半に宮古を出た。
しかし、私にはここからが大変だった。
皆が一緒だったので電車で移動することになり、今までの移動の中で一番きついものとなった。
そう、明大前から都内某所のマンションまで、電車と徒歩で辿りつかねばならないのだ。他の先輩方は手ぶらでいいけど、わたしゃでかいスーツケースとバックパック持ち。決して荷物を持ってくれる訳ではなく、かといって適度な速さで付いて行かねばならず相当きつかった。日曜日とはいえ6時前後はまだラッシュ時。車内で荷物が邪魔になって申し訳ない。しかも階段ばっか。
改札で券が出て来なかったりもした。何で、こういうときにこういうトラブルがあんの?
渋谷で最後のT2氏を別れ、そこからは半ばボーゼンとしながら帰路に着いた。喪服が汗だく。もうどうでもいいや。
しかし、なんつー濃い日なんだ!?
自分、よくやったぞ。
見渡せば私が最下級じゃん・・・・・現役当時の状況を反映すれば、皆直接口をきく事がなかった「神様」である。
APECの影響で都心に近づくにつれ閉鎖されたレーンも目立ち、高速の混雑がひどくなって来た。
もっと出発が遅かったら混雑はもっともっとひどくなっていただろう。
APECがあったから羽田便は一切取れなかったし、羽田近辺のホテルも最初からブロックされていたのかな。だから全然全く予約が取れなかったのかとさえ思ってしまった。
車中話しこんでいるうちに誰かが,
「お前、出口通り過ぎたんじゃねえの?」
と、指摘した。
「うそっっっっ」
運転をしていたT1氏が、新宿で降りるはずの出口を間違ってしまった。
後の祭りである。結局明大前で降りることになった。
うそでしょう・・・・
私はでかいスーツケースとパンパンになったパックパックを持っているのである。喪服とローヒールもはいていた。こんな格好で重い荷物持って電車の乗り継ぎできないよ・・・・
それにここんとこ荷物を持った移動はタクシーに頼っていたのである。今更電車で移動できるか、と思ったものの、手ぶらの先輩方には逆らえない。ここは下級生としてとことん合わせる。
明大前で下車したのはT2氏、O氏、S氏、私の4人。残りの二人は彼らの地元の調布へと去って行った。
明大前って卒業して以来だ。校舎が激変していてびっくりした。
「せっかくだから学校ん中入って行こうぜ~」
と、50歳のT2氏が言った。
青くなる私。この荷物で陸橋上り下りできません。しかし、口には出せない。
幸い理系(生田校舎)のS氏が、
「俺関係ねーから行かねーよ。」
と、言ってくれたので胸を撫で下ろした。手ぶらだったら行くけど、この状況では無理っす。
「じゃ、せっかくだからちょっと歩こうぜ~」
と、さっさと歩き始めた。私は後ろから重いスーツケースとバックパックをしょってごろごろ歩き始めた。
明大前の駅周辺が変わりすぎて、全く認識できない。てこてこ歩くうち、すずらん通りに入った。ここはあまり変わってない。
先に進むと、なななんんと「宮古」という小汚い飲み屋がまだ残っていた。正確には多少改装された様子で小奇麗にはなっていた。
まだ残ってる・・・・・恐るべし宮古
「ここまで来たら飲まなきゃだめでしょ」
と、T氏が言ったので、もうやけくそ、行っちゃえ行っちゃえ~。
いい大人4人は狭い店に入った。入る前に店前で記念写真も撮った。
この年になって明大前に来て、この面子で宮古に入るとは夢にも思いませんでした
「俺明日から中国だから5時半にはここでるからね。」
と、S氏が言った。彼は前日上海から葬儀のために戻って来ていた。しゃべり方が大学当時と全く変わらない。彼だけじゃなくて全員変わってない。が、白髪と目の下のたるみは確実に増えた。
お腹は減ってないけど、私以外の3人は軽く生ビールを3杯飲んでいた。日本人の男の人は本当によく飲む。LAでは車を運転しなければならないので、飲む機会がさほどない。電車だからというのもあるけれど、それにしても飲むよな~。泡盛オーダーしなかっただけでも大人になりました。
S先輩の急逝がなければ、緊急帰国をすることもなかった。でもこれで別れて連絡も取り合わなかったOB達がぐっと近くなったのは確かだ。そもそも1年の時の社会人になった先輩なんて話す機会なんてないもの。
お互い社会人になったからこそ、こうやって話せるんだよなあ。
そして、四方山話をして5時半に宮古を出た。
しかし、私にはここからが大変だった。
皆が一緒だったので電車で移動することになり、今までの移動の中で一番きついものとなった。
そう、明大前から都内某所のマンションまで、電車と徒歩で辿りつかねばならないのだ。他の先輩方は手ぶらでいいけど、わたしゃでかいスーツケースとバックパック持ち。決して荷物を持ってくれる訳ではなく、かといって適度な速さで付いて行かねばならず相当きつかった。日曜日とはいえ6時前後はまだラッシュ時。車内で荷物が邪魔になって申し訳ない。しかも階段ばっか。
改札で券が出て来なかったりもした。何で、こういうときにこういうトラブルがあんの?
渋谷で最後のT2氏を別れ、そこからは半ばボーゼンとしながら帰路に着いた。喪服が汗だく。もうどうでもいいや。
しかし、なんつー濃い日なんだ!?
自分、よくやったぞ。