ぞな通信

四国・松山生まれ、在米25年、Zonaの日常生活。

先輩の死(4)

2010-11-14 12:08:47 | Weblog
葛生のご自宅に着くと、喪服を着た大勢の人達がいた。
お花がたくさんたくさんあった。
お仕事で大活躍されていたのがよくわかる。所狭しと何段も何列も花があった。
「会社はもっともっと奥の方にもこの一体あるんだよ」と地元のA君が教えてくれた。
でもこの一体ってどんな一体なのよ。でか過ぎるよ。
仕事関係の方々も多く参列しているから、見分けるのが大変だ。
スキー部のOBはいるだろうか。
すると白髪が随分増えた懐かしい顔が目に入った。

最初はわからず通り過ぎるところで、

「あっっっっっっ!!!!!!!」

という声を発し、挨拶した。
こんなことで全員集合なんて皮肉過ぎる。

24-5年ぶりの再会。
だんだん昔のスキー部の人達が集まった。通夜に参加して帰った人達には会えなかったけれど、ほぼ全員駆けつけた。北海道、秋田、東京、アメリカ、中国と遠くから皆がかけつけた。
うえーん、S先輩が亡くなったのは悲しいけど、皆と会えたのも涙が出るくらい嬉しいよ
事実、亡くなった実感がない。
父の時もそうだったけど、これは悪い冗談で、式が終わってから、
「なーんちゃってな。お前らバカだな~。本気で信じてたの?」なんて起き上がりそうな気がする。
まだ受け入れるのに時間がかかる。

式が始まるとS先輩とは会えなくなるので、最初に私たちは焼香をあげさせてもらった。
大学2年のご長男が歯を食いしばって立って挨拶をしていた。
私はご長男の年だった頃のS先輩しか知らない。こんなとき、父親が亡くなるなんて。
一番下のお子さんはまだ小2。現実がわかっていないようだった。

飾られていた写真は、倒れる前日お茶の水にある大学ホールで開催された総会での写真だった。素敵な笑顔。元気にしていたSさん。
主将でもあったM先輩は今に至るまでみんなのまとめ役だ。
友人代表で弔辞も読んだ。
たまたま葬儀があったその日は、OBのゴルフコンペの日だった。アレンジは亡くなったS先輩が全部取り仕切り、近所のゴルフ場でプレーしているはずだった。今頃ゴルフ場で会うはずが、皮肉な事に彼の葬儀で全員集合となってしまった。
普段、冷静沈着で感情を表に出さないM先輩が泣きながら、何度も言葉に詰まりながら、弔辞を読んだ。
私たちも泣いた。

ご家族はもっともっともっと悲しいんだよね。
もう怒ったり、小言を言ったり、アドバイスをしてくれる父親がいない事に絶望感を感じている息子さんの言葉。
けなげに5代目として事業を継ぐ意志を示した息子さん。
きっとS先輩はあなたの今の姿を誇らしく思っていると思うよ。

M先輩が、
「この年で俺たちがこういう形で全員揃っちゃいけないんだよ。じじい、ばばあになってちょっとしか参列者がいないぐらい長生きする方が良い人生なんだよ。」
と、目をしょぼしょぼさせながら、若い死を痛むように言った。

M先輩はご遺族とお骨を拾うところまでちゃんと付き添うので、
「じゃ、俺行くから、またな。元気でな。」
「はい、Mさんこそぶっ倒れないで下さいね。」
と言って別れた。

遺体が車で運ばれる所まで全員で見送って、私たちもそろそろ出発することにした。
私たちも今度いつ会えるかわからない。それこそ誰かの葬式で再会なんてしゃれにならない。年から言うともう結婚式はないだろうし、葬式の方が徐々に増えてくるんだろうけど。
駐車場で、それぞれが車に乗り込み、私も東京方面に帰る人の車に同乗させていただくことになった。
すごく印象深かったのは、別の車で帰る後輩たち(といってももう40半ば過ぎのおっさんたち)がちゃんと先に帰る先輩をドアが閉まって動き始めて見えなくなるまで見送ったことだ。こういう感覚忘れてた。きちんと礼儀をわきまえている姿。アメリカにはないよな~・・・・・
印象深いっていうことは、自分もこういう感覚失っていたんだろうな。やばい、やばい。

4分の1世紀ぶりの再会でも、会ったら当時の上下関係が即刻復元され、いじられる人はいじられ、先輩は先輩のまま、後輩は永遠に後輩のまま。いくら会社で偉くなってても偉くなくても全く関係ない。懐かし過ぎる。この感覚。

東京方面組には2台に分かれて途中ラーメン屋さんで遅いランチを皆で取った。
ラーメン屋さんでも帰りの車中でも話したことだが、それぞれが会社で上の立場になり、自営業なら社長(当たり前か)、会社なら支店長レベルと責任のある地位に就いて来ている年代になったんだなあ。彼らの子供たちも高校大学に入り、それぞれが結構良い所に入っているのだ。
私利私欲のない学生時代の先輩後輩がこうやって活躍しているのは無条件に嬉しいし、24、5年前のことだけど、つらい現役時代を乗り越えて来た同志たちなので、心地いい関係っていうか、疑似家族のような、泣けてくる程懐かしい気持ちだった。どこの学校を出ていようが、どこの国の出身であろうが、海千山千がいる娑婆というか社会のことを考えると、この集団はちょっと甘えられて安心できる避難所と言えばいいのだろうか。一瞬の時間だけれど、夢のような時間だった。それが葬儀というのが皮肉ではあるが。




先輩の死(3)

2010-11-14 11:46:17 | Weblog
土曜の朝、6時半にロビーで待ち合わせてた。
時間ちょうどに彼はみかん箱を持って現れた。お母さん、みかん箱に入れて荷物送ったんだははは、ナイス!
ホテルはA君の後輩のホテルらしい。地方で地元と密着して生きている彼は、青年会議所、商工会議所に所属して街の活性化に一役買っている。そんな伝(つて)を私も使わせていただいた。円高だし、助かるよ。

ごはんを食べながら、故S先輩の地元での活躍ぶりをたくさん聞いた。ミュージカル監督を呼んで地元の子供たちの演技指導をしてミュージカルを企画、上演したこと。
石灰が取れるその土地で、土木建築業者として成功していること。
町長や市長になれる資質を持ち、周りから尊敬されていたこと、等等。
A君は地元に帰ってからS先輩との交流が深まったそうだ。
私はすぐ渡米したからS先輩のご活躍やご家庭のことなんて全く知らなかった。大学時代の姿しか知らない。 
そこには私が知らないS先輩の素晴らしい姿があった。父親として、会社経営者として、地域のリーダーとしての立派な姿・・・・

そして仕事の話、宇都宮の話、栃木の話をたくさん聞いた。
聞いているうちにふとLAで良く知る某スポーツ系雑誌のライターのことを思いだした。彼も栃木出身だったよな・・・。
A君から、栃木にはバスケット、ホッケー、サッカーなどのプロチームが存在する事を教えてもらった。それを立ち上げて運営し、地域を盛り上げるために熱く活躍しているA君始めとする方々が多くいる。
ライターのKさんが彼らと結びついたら面白いかも。Kさんも彼が長年アメリカで取材して来たことを少しずつ日本に還元したいと考えていたからだ。
さっそくメールしてみよう。

そんなこんなで、私たちは葬儀参列のため佐野市葛生(くずう)に向かった。


先輩の死(2)

2010-11-14 11:17:03 | Weblog
満員の11時間半のフライトは、子連れが多くて騒がしかった。
気が狂ったように泣き続ける子供が前列に座っていて、隣のおじさんが、「うるせえっ」と何度も何度も聞こえるように悪態をついていた。
悪態を聞くのもつらい。もう怒る気にもならないよ。
若いお母さんは、CAにため口を聞き、態度がてんでなってなかった。
泣く子を抱えてフライトするのはつらいんだよね。だけどその態度はないでしょ。
なので同情は一切なし。

ようやく着いたら、すぐ宇都宮に移動だ。
メールしてもらった交通手段はすべて初めて尽くしだ。
最短で到着する方法を検索して転送してくれた模様だったが、荷物があるからバスで1本の方が楽なんだけどなあ。でもバスだと時間がかかる。色々なアレンジはA君に任せてあるので、彼の指示に徹底的に従うことにした。
今回はスカイライナーで上野まで。上野から東北新幹線で宇都宮入り。
スカイライナーなんて初めて。
東北新幹線も初めて。
栃木も初めて。

飛行機の到着が30分遅れたので、荷物をピックアップしてからが怒濤の移動になった。
ぎりぎりでスカイライナーに乗り、寝たと思ったら上野に着いていた。
ゴロゴロ荷物をひっぱって歩いて東北新幹線で切符を買うが、慣れてないのでちょっと手間取ってしまった。
急いでプラットホームに行ったらちょうど新幹線が着いた。

満員だよ、こりゃ・・・・

こんなに通勤客がいるの、初めて知った。

金曜日で帰宅ラッシュっていうのもあるんだろう。1時間だから宇都宮から通勤圏内なんだろうなあ。

空いてる席があったので座って40数分後にはついた。

こんな移動だったので、事務手続きをしてくれていたA君に途中電話する時間もない。時間があっても公衆電話もない。6月に帰国したときに買ったプリペイド携帯のお金をチャージする時間もない。
宇都宮駅に降りて、公衆電話を探しながら改札に向かっていた。
どうしよう。連絡取れない・・・・

そのとき、学生時代からほとんど変貌していないA君が改札口で立っていた。

「おめー、電話ないから本当にくるかどうかわかんなかったよ。」

事情を話してお互い納得。
すぐ彼が手配してくれたビジネスホテルに直行した。
15分程度の道すがら、どうやってSさんが亡くなったのか、色んな話をして20年来の空洞をあっという間に埋めた。

彼の家にも私の実家から荷物がさっき届いたとの事。
A君の奥様がこれまた気が利く方で、「喪服がしわくちゃにならないように先に出して吊るしておきますね」と言ってくれた。香典袋も名前を記入して母が入れていてくれた。靴も。
ありがとう、お母さん!
そして松山と宇都宮とLA間の見事な連係プレー。
最初、電話を入れた母と事情を全く知らないA君の奥様は会話が全く噛み合なかった。毎年クリスマスカードを出していたので、奥様は「松山」と聞いてなんとなくわかったようだった。でも彼女はSさんが急逝したことも知らなかった。
A君との怒濤の連絡も、彼が大阪出張中にばたばたと決まった事で、慌ただしすぎて彼も自宅に連絡するのを忘れたらしい。
クリスマスカードを出しておいて本当によかった。
最悪の場合、普段着でそっと参加するつもりだったけれど、荷物間に合った。

チェックインをする間、A君はM先輩に連絡を取ってくれた。携帯を持っていない私の代わりに業務連絡の数々をテキパキこなしてくれた。

M先輩と話すと、

「おー、遠くからお疲れさん。残念な結果になったけど、Sは確実に死んでるよ。それは確か。」

と、言った。
死亡直後からずっと付き添っていたM先輩は徐々に死を受け入れられているようだけど、まだまだ私には受け入れられていない。
わかっちゃいるけど、そんなまともなこと言わないで下さいよ~

その日はもうすぐ寝て、翌日6時半に朝食を一緒にとることにした。
疲れた。でも脳が覚醒している。

先輩の死(1)

2010-11-14 10:31:49 | Weblog
先週月曜日実家の母からメールが来て、

「大学スキー部のSさんが急逝されたからすぐPに連絡を入れて下さい」

というメッセージが入った。

え?!?!?!?!?!??!?

Sさんは私より2つ上の48歳。1年の時の3年。
急逝したってどういうこと?!

事情が全くわからないので大学時代からの親友Pに連絡をとった。しかし、メールも電話も通じない。うちの電話がうんともすんとも言わず何故か使えない。こんなときになんで?!
どうもPも私に連絡を直接取ったが、通じなくて実家に連絡したそうだ。
時差と仕事、サーバーの問題などがあって、直接メールが届いたのが翌日の火曜日だった。

先週土曜日、大学スキー部50年総会というのがお茶の水にある大学ホールであったそうだ。そんなイベントがあったことすら私は知らなかったのだが、来れる人が参加し、Sさんもその一人だった。懐かしい面々と土曜の夜飲み、3人が同じホテルに泊まっていた。
翌日ランチを一緒に食べて別れる予定だった。
当日朝、Sさんは「貧血気味だからホテルでもうちょっと休んで帰ります。」
と、言い、他二人はランチを済ませてそれぞれの帰路に着いた。一人は北海道へ、一人は群馬へ。
群馬に帰るM先輩が心配して、改札口からどうしてるか様子を聞くためSさんの携帯に連絡したら、なぜか警察の方が出た。

「今すぐ病院に来る事はできますか?」

M先輩は、(何だかわからないけれど、何かよくないことが起こった)と、不安を募らせながらすぐ駅からタクシーをぶっ飛ばして病院へ向かった。
そしてSさんが亡くなっていることを最初に知ったのだ。
すぐSさんの実家がある栃木に連絡を入れ、家族が病院に到着する間、M先輩は不安で不安でしょうがなく、東京に住むスキー部の連中に電話をかけまくった。来れる人が病院にかけつけた。
ご家族が到着するまでの5-6時間、彼らは病院で待ち続けた。

ご家族が対面する場面を目の当たりにしただろう。どんな気持ちで過ごしたのか胸が痛む。
Sさんにはお子さんが4人いて、一番上が大学2年。一番下は小学2年生・・・

Pから連絡をもらって、帰国しようかしまいかちょっと考えた・・・・・・

帰ろう。

即決した。

チケットが取れるかどうか保証はないけれど、取れたら帰ろう。
お別れの挨拶をちゃんとしておきたいし、OBの面々に会えるのもこんな時でないと一生会えないかもしれない。帰ろう。

翌日水曜日にチケットを手配しまくった。お通夜にはもう既に間に合わない。木曜日にLAを出なければ、土曜日の葬儀には間に合わない。
羽田行きはもうない。
最短で木曜出発、日曜戻り。
でも日曜日のフライトが取れない。
月曜なら取れそうだ。
木曜出発、月曜LA戻りで決定。
月曜戻りなら、実家にも立ち寄れる。

即決して購入した。
ずっと患者さんを通して、3日あれば日本に行って帰れる。1週間もあれば余裕。なんて話を耳にたこができるほど聞いていたので、もう行くしかない。
仕事のアレンジを猛スピードでこなしたが、後は任せるしかない。出来る事だけはやっておいた。スタッフや患者さんにはご迷惑をおかけするが、あとで追いつくしかない。

ただ栃木なんて行った事がない。偶然スキー部の同級生Aが宇都宮に住み、彼に全部内容を話したら、ホテルや交通手段を的確に指示してくれた。
喪服を実家に取りに行く時間もないので、一式、宅急便でA君のところへ送ってもらうことにした。

家族にも話して快諾してくれたのも助かった。木曜日はベテランズデーで学校も休み。予算削減で木曜日から日曜日がお休みなのも助かった。お友達の家にお泊まりプランをいれて忙しくさせておけば、気がまぎれるかもしれない。

そして木曜日に成田行きの飛行機に乗り込んだのであった。