社会不適応者の箱庭。

ハイったり鬱ったりしながら生きているイキモノ・五十海(いかり・♀)の適当な日々を綴った『どうでも』なシロモノ。

05月31日。春日山周辺散策その2。

2011-05-31 | 上越のこと
 ずいぶんと遅くなりましたが、春日山周辺散策その2、でございます。
 え~ッと、先回は史跡広場の春日山全体模型怒りの図でしたね。
 あの写真、上越市の地図と比べて見て、確認したい点色々です。
 以前でしたらサクッとするのですが、写真加工ソフトの関係で簡単に出来ない・・・。
 個人的な理由で申し訳ないです・・・

 では、気を取り直しまして『東城砦』方向へ。
 
 
 柵が見えてまいりました。
 階段を上ると・・・
 
 掘立柱建物、だそうです。
 えー『春日山城跡で確認されている建物の大半が、掘立柱建物と呼ばれる、穴を掘って柱を埋め込んで建てた物である。この建物は桁行が3間、梁間が2間で、約6坪の広さであった。建物の土塁側には雨落ち溝が巡らされていて、土塁から流れ込む雨が建物の中に入り込まないような工夫がされていた。建物の近くでは井戸も見つかっている』と・・・。

 春日山に上った皆さんが『こんな狭いところに家が建つのか』とかよく言うんですが、春日山城は何かあった時の詰め所みたいなもので、普段そこで生活しているわけではないのですよ。
 だからね、直江屋敷跡もあれしかない訳。
 なので、建物もコンパクツなんだす。

 さて、その掘立柱建物の裏方向に進みますと・・・
 
 ばば~ん、湖?
 いや、気持ちいいです~
 湖に沿って進むとですね、ふふふ。
 堀の跡でございます。
 
 この堀は『薬研掘(やげんぼり)』と呼ばれる逆三角形方をした堀なんです。
 ね、綺麗な三角形になってます(小田原城にもあるよね)。
 因みに、傾斜度は約52度で、土も大変固く、とても人が登れるような斜面ではないそうです。
 三角定規の60度部分から想像すると、凄い角度です。
 スキー場とかで上から見たら『絶壁!』とか思う。

 薬研掘り跡をてくてく歩くと、物語館の裏手に出ます。
 
 お花も綺麗に咲いてます。
 ・・・本来ならこちらが正面玄関に当たるんです。
 五十海は裏から来てしまっているので、順番がちょっとおかしい
 
 こーゆー立派な堀がお出迎えしてくれるはずなんですよ。
 『監物掘(けんもつぼり)』と言われています。
 城の中側は普通に地面なんだけど、城の外側に当たる部分は水堀りになってるの。
 外から来る敵が水掘りに足を捕られている隙に攻撃!って感じなんでしょう。

 更に言うと、春日山上が今の形になったのは景勝の時代といわれています。
 その前はどんな形をしていたのか、気になります
 もっと色々時間をかけて調べたいなと思っています。

05月31日。春日山周辺散策。

2011-05-31 | 上越のこと
 自転車に乗って税金の支払いに行って後、無性に自転車に乗りたくなり、春日山周辺を回ってみました

 春日山神社にて勝ち鬨の声を上げられてきたらしい謙信公、女武者隊長・お春様、足軽組頭・十吾郎殿のお姿を、埋蔵文化財センターでお見かけいたしました。
 まさかあのお姿で車を運転なさっているのでしょうか?
 とても気になります

 そこから、大手道とは逆方向の横道に入ります。
 一面の休耕田が広がりますが、ここはこれから向かう史跡広場である監物掘から、ずっと堀の跡が残っているのです。
 
 角度的にとてもわかりずらいですが・・・
 子供の頃は『田んぼの癖になんでこんな高低差があるんだろう』と思っていましたが、堀跡だったんですね。

 そんな堀跡を右手に見ながら進むと、春日神社の鳥居と、赤い欄干が目立つ春日橋が見えてきます。
 
 春日神社の元は奈良の春日大社だそうで、鉢ヶ峰城に春日大社から分霊して祀ったことより、春日山と呼ばれる今の名前になったそうです。
 で、長尾高景さんが春日山城主としてお城に入った際に、春日山の鬼門鎮護の為に現在の場所に移したと。
 
 春日大社の分霊なので、近くの春日橋にはちゃんと鹿のレリーフがあるのがナイス

 さてさて、このまま史跡広場(謙信公祭で川中島合戦をするところ)に向かいます。
 こちらから行くと、裏から入る感じになる。
 藤棚(?)の下に『春日山城跡全体模型』なるもの発見。
 『越後府中にあって、関東一円から北陸に覇を広げた上杉謙信。~云々~ 本模型によって春日山城跡の雄大さを体感していただきたい』

 出来るかっ!!
 思わず、そこら辺にあった小枝と、刈ったばかりの草の集まりを手に清掃。
 どうにかこんな感じ。
 
 うん、大分まし。
 本来なら、水+デッキブラシで清掃いたしたい!
 
 これから後はいずれ!!
 うふん、愛してるわ、上越市。