徳川8代将軍吉宗は、享保の改革を断行して危機に陥っていた財政を立て直し、幕府中興の祖と仰がれました。テレビの時代劇シリーズ「暴れん坊将軍」の主人公としても知られ、歴代将軍の中では初代家康と人気を2分する存在だといっていいでしょう。
彼は身長182センチ、当時としては並外れた巨漢で、15、6人がかりで運ばなければならない程の大猪を、鉄砲で殴り殺したというエピソードがある怪力の持ち主でした。
そんな肉体派のイメージが強い吉宗ですが、意外にも相当な学問好きでありました。
詩歌管弦や文学といった貴族的・遊芸的な教養には関心が薄かったものの、政治や殖産興業に役立つような実証的・実利的な学問には並々ならぬ関心を持っていました。
このような学問を実学といい、その範囲は法律・農政・天文・気象・地理・医学・薬学・蘭学などと多岐にわたります。吉宗はこうした実学関係の書物を納める自分専用の書庫を、江戸城本丸御殿の中奥に設け、それらの蔵書を暇さえあれば自分でも読み、側近く仕える近習たちにも勧めていました。
吉宗がプライベート書庫を作る前から、江戸城にはもともと家康の蔵書を基礎とした、将軍のための官立図書館ともいうべき紅葉山文庫がありました。その蔵書数は膨大で、元治元(1864)年から慶応2(1866)年に編纂された『元治増補御書籍目録』によると、約11万4,000点にも上ったそうです。歴代将軍の中でも、とりわけ図書の収集に熱心だった吉宗は、1代で蔵書数を倍増させました。
彼は青木昆陽らに古書・古文書を集めさせるとともに、長崎を通して入って来た漢籍の目録には必ず目を通し、政治向きのもの、地誌類などをたくさん買い求めました。
海外の先進知識の取り込みに積極的だった吉宗は、享保5(1720)年には、厳重だった漢訳洋書の輸入制限を緩和し、キリスト教の教義を説いたものを除き輸入を許可しています。
漢訳では飽き足らず、オリジナルを通してさらに最新知識を入手したかったのでしょう。
吉宗が元文5(1740)年に青木昆陽と幕府医官の野呂元丈に命じてオランダ語を学ばせたことは、4月1日の日記ですでに書きました。
吉宗は、古代や外国の法制研究にも力を注ぎました。
寛保2(1742)年に編纂された幕府の基本法典「公事方御定書」には、法律に詳しかった吉宗の意見が所々に反映されています。
また、社会秩序の維持には庶民教育が必要であると考え、幕府に仕える儒者の講義を民間に開放したり、享保7(1722)年には吉宗の侍講として重用された儒者の室鳩巣<むろきゅうそう>に命じ、寺子屋の教科書として『六諭衍義大意<りくゆえんぎたいい>』を刊行させました。これは中国、明の初代皇帝朱元璋による民衆教化のための6条の心得と、その意義について解説した本です。
それから地図好きだった吉宗は、紅葉山文庫に納められた正保・元禄の国絵図などの地図類や城図を取り寄せては、あかずに眺めていたといいます。そして江戸近郊に出る時には必ず地図を持って行き、行動の参考にしました。和算家の建部賢弘<たけべかたひろ>に命じて、日本総絵図を編集させたりもしています。
吉宗は天文・暦術にもたいへん興味を持っていて、和漢の書物はもちろん、オランダのものなども取り寄せて研究しました。
改暦にも手をつけています。
西洋天文学の優秀さを認めていた吉宗は、それに基づく暦の作成を目指したのです。
彼はすでに将軍の座を息子の家重に譲っていましたが、大御所として主導しました。
しかし残念なことに、事業半ばで吉宗が死去してしまったこともあって、宝暦5(1755)年から施行された宝暦暦は、それまで使われていた貞享暦をわずかに補正したものに終わってしまいました。
これはうまくいかなかった例ですが、彼の先端知識が世の中を救ったこともあります。
雨量調査に興味があった吉宗は、江戸城の庭に桶を据え付けて雨水のたまり具合を測定し、それを日記に毎日記録しました。
寛保2(1742)年に江戸時代最大といわれる大洪水が関甲信地方を襲ったのですが、吉宗は日記の記録からそれを予測し、事前に救済対策を立てておいたので、洪水と同時に御助船を出して被災民を救ったり、小屋を建てて食事を供するなど迅速に手を打つことができました。
新しく学んだことを単なる頭の中の知識だけで終わらせるのではなく、自分自身で実際に試し、その結果を現実に活かした見事なケースといえるでしょう。
これまで見てきたように吉宗は、TVドラマみたいに庶民を装って江戸市中に出没し、悪人を懲らしめたりこそしませんでしたが(当たり前か・・・)、時代の最先端をいく学問や技術をアクティブに取り入れる、知的好奇心とチャレンジ精神に溢れた、なかなか魅力的な人物だったようです。
宝暦元(1751)年に68歳で亡くなった吉宗は、上野の寛永寺(東京都台東区上野桜木)に葬られました。
徳川歴代将軍の霊廟(国指定重要文化財)は非公開のため、中へは入れません。でも、豪華な5代将軍綱吉の勅額門(上の写真)の奥に広がる墓域を囲む石垣の周りをめぐると、立派な宝塔がいくつか頭をのぞかせているのを垣間見ることができます(下の写真)。
【参考文献】
北島正元編『徳川将軍列伝』秋田書店、1989年
鈴木一義監修『見て楽しむ江戸のテクノロジー』数研出版、2006年
安藤優一郎著『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』日本放送出版協会、2007年
大石学編著『史上最強カラー図解 江戸時代のすべてがわかる本』ナツメ社、2009年
彼は身長182センチ、当時としては並外れた巨漢で、15、6人がかりで運ばなければならない程の大猪を、鉄砲で殴り殺したというエピソードがある怪力の持ち主でした。
そんな肉体派のイメージが強い吉宗ですが、意外にも相当な学問好きでありました。
詩歌管弦や文学といった貴族的・遊芸的な教養には関心が薄かったものの、政治や殖産興業に役立つような実証的・実利的な学問には並々ならぬ関心を持っていました。
このような学問を実学といい、その範囲は法律・農政・天文・気象・地理・医学・薬学・蘭学などと多岐にわたります。吉宗はこうした実学関係の書物を納める自分専用の書庫を、江戸城本丸御殿の中奥に設け、それらの蔵書を暇さえあれば自分でも読み、側近く仕える近習たちにも勧めていました。
吉宗がプライベート書庫を作る前から、江戸城にはもともと家康の蔵書を基礎とした、将軍のための官立図書館ともいうべき紅葉山文庫がありました。その蔵書数は膨大で、元治元(1864)年から慶応2(1866)年に編纂された『元治増補御書籍目録』によると、約11万4,000点にも上ったそうです。歴代将軍の中でも、とりわけ図書の収集に熱心だった吉宗は、1代で蔵書数を倍増させました。
彼は青木昆陽らに古書・古文書を集めさせるとともに、長崎を通して入って来た漢籍の目録には必ず目を通し、政治向きのもの、地誌類などをたくさん買い求めました。
海外の先進知識の取り込みに積極的だった吉宗は、享保5(1720)年には、厳重だった漢訳洋書の輸入制限を緩和し、キリスト教の教義を説いたものを除き輸入を許可しています。
漢訳では飽き足らず、オリジナルを通してさらに最新知識を入手したかったのでしょう。
吉宗が元文5(1740)年に青木昆陽と幕府医官の野呂元丈に命じてオランダ語を学ばせたことは、4月1日の日記ですでに書きました。
吉宗は、古代や外国の法制研究にも力を注ぎました。
寛保2(1742)年に編纂された幕府の基本法典「公事方御定書」には、法律に詳しかった吉宗の意見が所々に反映されています。
また、社会秩序の維持には庶民教育が必要であると考え、幕府に仕える儒者の講義を民間に開放したり、享保7(1722)年には吉宗の侍講として重用された儒者の室鳩巣<むろきゅうそう>に命じ、寺子屋の教科書として『六諭衍義大意<りくゆえんぎたいい>』を刊行させました。これは中国、明の初代皇帝朱元璋による民衆教化のための6条の心得と、その意義について解説した本です。
それから地図好きだった吉宗は、紅葉山文庫に納められた正保・元禄の国絵図などの地図類や城図を取り寄せては、あかずに眺めていたといいます。そして江戸近郊に出る時には必ず地図を持って行き、行動の参考にしました。和算家の建部賢弘<たけべかたひろ>に命じて、日本総絵図を編集させたりもしています。
吉宗は天文・暦術にもたいへん興味を持っていて、和漢の書物はもちろん、オランダのものなども取り寄せて研究しました。
改暦にも手をつけています。
西洋天文学の優秀さを認めていた吉宗は、それに基づく暦の作成を目指したのです。
彼はすでに将軍の座を息子の家重に譲っていましたが、大御所として主導しました。
しかし残念なことに、事業半ばで吉宗が死去してしまったこともあって、宝暦5(1755)年から施行された宝暦暦は、それまで使われていた貞享暦をわずかに補正したものに終わってしまいました。
これはうまくいかなかった例ですが、彼の先端知識が世の中を救ったこともあります。
雨量調査に興味があった吉宗は、江戸城の庭に桶を据え付けて雨水のたまり具合を測定し、それを日記に毎日記録しました。
寛保2(1742)年に江戸時代最大といわれる大洪水が関甲信地方を襲ったのですが、吉宗は日記の記録からそれを予測し、事前に救済対策を立てておいたので、洪水と同時に御助船を出して被災民を救ったり、小屋を建てて食事を供するなど迅速に手を打つことができました。
新しく学んだことを単なる頭の中の知識だけで終わらせるのではなく、自分自身で実際に試し、その結果を現実に活かした見事なケースといえるでしょう。
これまで見てきたように吉宗は、TVドラマみたいに庶民を装って江戸市中に出没し、悪人を懲らしめたりこそしませんでしたが(当たり前か・・・)、時代の最先端をいく学問や技術をアクティブに取り入れる、知的好奇心とチャレンジ精神に溢れた、なかなか魅力的な人物だったようです。
宝暦元(1751)年に68歳で亡くなった吉宗は、上野の寛永寺(東京都台東区上野桜木)に葬られました。
徳川歴代将軍の霊廟(国指定重要文化財)は非公開のため、中へは入れません。でも、豪華な5代将軍綱吉の勅額門(上の写真)の奥に広がる墓域を囲む石垣の周りをめぐると、立派な宝塔がいくつか頭をのぞかせているのを垣間見ることができます(下の写真)。
【参考文献】
北島正元編『徳川将軍列伝』秋田書店、1989年
鈴木一義監修『見て楽しむ江戸のテクノロジー』数研出版、2006年
安藤優一郎著『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』日本放送出版協会、2007年
大石学編著『史上最強カラー図解 江戸時代のすべてがわかる本』ナツメ社、2009年
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