ひろむしの知りたがり日記

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嘉納治五郎の柔術修行(4) ─ 天神真楊流3代家元 磯正智

2013年03月31日 | 日記
明治12(1879)年8月、嘉納治五郎が最初に天神真楊流を教わった師匠である福田八之助が、52歳でこの世を去ります。治五郎は福田の没後、一時その道場を預かっていましたが、まだ一本立ちする自信はなく、さらに一段の修行を積みたいと熱望していましたので、福田の師匠で神田お玉が池に道場を開いていた磯正智<いそまさとも>に入門しました。正智は流祖磯又右衛門正足<またえもんまさたり>の高弟でした。

天神真楊流の2代目は、正足の1子又一郎が相続しました。彼は講武所で教授方を勤めましたが、あまり体力がなかったので、他流との試合ではだいぶ苦労したようです。又一郎は早世してしまい、松永清左衛門が磯家を継いで3代目家元となりました。これが、治五郎が福田に続いて師に選んだ磯正智です。
体格はきわめて小兵<こひょう>で、若い頃から乱取<らんどり>ではあまり名をなしませんでした。しかも治五郎が入門した当時、正智はすでに60歳ばかりの老齢で、自ら乱取の指導をすることはありませんでした。それを教授していたのは主に佐藤と村松という幹事2人でしたが、治五郎と福島兼吉が入門すると、すでに福田道場で相当腕を磨いていた2人はすぐに幹事に加えられ、代稽古に当たりました。

乱取こそやりませんでしたが、正智は形<かた>の名人で、そちらの方は自身で指導していました。治五郎は、「磯の道場では乱取の方はほとんど他に教えながら自得したので、先生から得る所はあまり多くはなかったが、形については先生に学ぶ処甚だ多かった」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)と述懐しています。
そうは言っても、決して正智が実戦に弱かったというわけではありません。治五郎は、先輩の佐藤幹事から師の武勇伝を聞いています。

維新前のことですが、ある藩から正智に3人で他流試合を挑んできた者がありました。1人ずつ相手にするのではありません。3人同時、1対3の勝負です。1人は真正面から、1人は右側から、1人は左の方から蹴かかってきました。正智は最初のうちはよく受けていましたが、3人同時の当身<あてみ>が効いて、ついに受けきれずにうつぶせに倒れてしまいました。
試合は正智の敗北に終わりましたが、後で何人扶持か加増されたといいますから、その闘いぶりは、幕臣磯家の上司である幕府上層部の人間(あるいは将軍?)にも認められるほど美事なものだったのでしょう。
天神真楊流は当身、すなわち四肢や頭で相手を突き、打ち、蹴る技に優れた流儀です。それを何年も修行した治五郎ですから、その恐ろしさ、難しさは十分に理解していたはずです。その彼が、「当身は単に一人にあてさすことすら容易ではない。よし数人でも、一方ずつ受ければまだしもだが、それを三方同時にけこますことは非常なことである。これを敢てした磯先生の強味は一通りではない」(前掲書)と評価しています。

正智が、いかにその肉体を鍛え上げていたかを示すエピソードもあります。
同じく治五郎が佐藤から聞いた話で、正智がどこかで形を観せた時に、弟子で「天神真楊流のもっとも出来る一人」と治五郎も認めた井上敬太郎に、自分の水月の急所(みぞおち)を木刀の柄頭で力いっぱい突かせました。ところが正智は、これをウンと堪えて平気だったそうです。まさに、鋼の筋肉と言っていいでしょう。

磯道場には、毎晩約30人もの門人たちが稽古にやって来ました。たまにしか来ない人を含めても10人に満たなかった福田道場とはたいへんな違いです。他の幹事たちが休みがちだったので、治五郎はたった1人でそれら道場生たちの形の練習や、乱取の相手をしなければならないこともしばしばでした。稽古の帰りは遅い時には夜の11時を回り、身体が綿のごとく疲れ、道を歩きながらよろよろとして倒れかかり、路傍の塀に突き当たることもよくあったそうです。

このような、自分でもよく病気にならずにすんだものだと思うほどの磯道場での修行生活も、福田門下の時と同様、わずか2年ほどで終わりを告げました。明治14年6月、磯正智が亡くなってしまったのです。
そこで治五郎は、再び師となるべき人を捜し求めます。そして、起倒流の飯久保恒年<いいくぼつねとし>とめぐり会うことになるのです。

 
『姿三四郎』の著者富田常雄が、嘉納治五郎をモデルにした矢野浩(改名して正五郎)の柔術修行時代を描いた『柔』。矢野は『姿三四郎』にも紘道館柔道の創始者として登場する(徳間文庫、1989年)


【参考文献】
嘉納治五郎著『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』日本図書センター、1997年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
藤堂良明著『柔道の歴史と文化』不昧堂出版、2007年

嘉納治五郎の柔術修行(3) ─ 強力・福島兼吉を倒せ!!

2013年03月23日 | 日記
稽古で傷だらけになった身体にベタ貼りした万金膏を学生仲間から冷やかされながら、来る日も来る日も天神真楊流の福田道場に通い続けた嘉納治五郎は、その甲斐あって道場内ではほとんど誰にも負けないくらいに腕を上げました。治五郎ほどではないにしろ、ほぼ毎日やって来る青木という者がいましたが、彼と乱取<らんどり>をしても格別難儀を感じることはありません。そんな治五郎でも、どうしても勝てない相手が1人だけいました。それが福島兼吉です。治五郎は福島のことを、自著の中で次のように紹介しています。

「この福田の道場に(中略)隔日位にくる人に魚河岸のさかな屋の主人で福島兼吉という人がおった。この人はなかなかの強力で、目方が二十何貫あり、すばらしく強いが、形が出来なかった」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)

理屈や形式よりも、実戦を重視するタイプだったようです。ところでこの福島兼吉という人物、只者ではありません。日本橋の魚河岸の親方で、その豪胆な人柄と腕っぷしの強さを表わすエピソードが残されています。
福島が、なにかのついでに吉原へ冷やかしに行ったことがありました。彼に登楼の意思はありませんでしたが、無理に引っ張りこまれそうになり、自慢の強力で振り切って飛び出しました。ところが、この時中から何者かが投げつけた茶碗が福島の額に当たり、こぶができてしまったのです。彼は憤然として、「覚えていろ」と捨て台詞を残して立ち去り、そのまま自宅へは帰らず、よそへ2、3泊して準備を整え、吉原へ復讐にやって来たのです。そこで、廓からも2人出て来て対抗しましたが、福島はやにわにこれを蹴倒し、手近にあった鴨居を引っぱずして、手当たり次第に辺りの物を叩き壊しました。力が強い上に柔術をやっているので、誰も近寄ることができません。そのうちに巡査が駆けつけて来ました。
巡査の2人や3人、もとより福島の敵ではなかったのですが、彼はにわかにかしこまって自ら手を後ろにまわし、「お上の縄にかかります」と言って、猫のようにおとなしくひかれていきました。警察で調べてみると、もともと悪いのは廓側であることがわかり、福島は結局20銭の罰金で放免になったそうです。

講道館前の嘉納治五郎像(東京都文京区)

そんな福島兼吉の強力の前には、治五郎がいかに奮闘努力しても歯が立ちませんでした。そこで、治五郎は相撲の手でも覚えれば勝てるのではないかと考え、当時大学の寄宿舎の賄<まかな>い(炊事係)に昔二段目の相撲取りだったという内山喜惣右衛門がいたので、彼についていろいろと相撲の手を習い、それを福島に試してみたのですが、どれもうまくかかりません。そのほかにもあれこれ工夫をしてみましたが、なかなか思うようにいきませんでした。考えあぐねた治五郎は、西洋の方には何かうまい手があるのではないかと思いつきます。国立国会図書館支部上野図書館の前身である帝国図書館が、当時はまだ湯島の聖堂内にあったので、そこへ行って調べてみることにしました。
ここが、いかにも治五郎らしいところです。相撲は柔術とは先祖を同じくする親戚のようなものですから、参考にするというのもわからないではありませんが、なんと西洋の格闘技を、しかも図書館で原書を読んで調べようなどというのは、この時代、治五郎以外のいったい誰が思いついたでしょうか。彼はまるで、学生や学者が論文を書く時のように、柔術の技を研究していったのです。幼い頃から漢学や英語を習うなど徹底した英才教育を受け、幅広い学問を身につけてきた治五郎ならではの発想と言えましょう。
作家の夢枕獏氏は、講道館柔道の草創期を描いた小説『東天の獅子』の中で、柔術に対する治五郎の取り組み方を次のように表現しています。

「幼い時から受けていた知的な訓練と方法論が、そのまま柔術を理解してゆく時の、治五郎のやり方となっていたのである。」そして、「学問に対するのと同等の知的探求心をもって、治五郎は柔術に関心を持ち、柔術を探求してゆくのである。」

治五郎の中では学問をすることも、柔術の修行をすることも、まったく同じプロセスをたどってなされていたのかもしれません。そんな探求の結果、治五郎はついに、ある本からこれはという手を見出しました。彼は万感の思いを込めて書き遺しています。

「それは今から考えると、肩車の変態であるが、それがよかろうと思って、学校で友達をつかまえてやって見ると美事にかかる。それで、道場に出て青木にかけて見てもよくかかる、そこで、いよいよ自信が出来たから或る時意を決して福島にそれを試みた所が、美ん事かかって、大きなからだをうまく投げ倒すことが出来た。その時の愉快さというものは、実になんともいえなかった。これはふだんどうしても勝てなかった福島に勝てたということの愉快ばかりでなく、久しきにわたって努力の成果を見たという満足であったのだ。」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)

こうして治五郎は、自分で自分をほめてあげたくなるような成果をあげることができたのです。ちなみに、この時治五郎がヒントを得た書物の最有力候補には、1674年にアムステルダムで出版されたオランダ式レスリング『ボルステル』の教本が挙げられています(山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』)。

治五郎が苦心惨憺の末、ようやく勝つことができた福島ですが、その最期は真に壮絶なものでした。彼は先に書いた通り日本橋の顔役で多くの子分がいましたが、祭礼で、その子分が他のグループの者からなぐられる事件が起きました。彼は早速そのしかえしに出向き、多勢の相手を片っ端から打ち倒しました。しかしそれが大事になり、敵方が復讐をしかけてくるといった事態に発展し、町内を騒がす状況に立ち至ってしまいます。福島はこのことにひどく責任を感じて日夜苦悶し、ついに心を病んでしまいました。
そしてある時、どこかへ参詣に行くといって家を出て行ったのですが、挙動がおかしいので家人がひそかに人に尾行させました。すると、福島は多摩川の堤へ行き、いきなり川の中へ下りて行ったのです。そしてなんと、大きな石に頭を叩きつけて、自殺してしまいました。尾行者は驚いて駆けつけたのですが、あまりに突然のことで間に合わなかったということです。福島兼吉は、乱暴者ではあっても、正義感に溢れ、責任感の強い人だったのでしょう。なんとも痛ましい人生の終幕でした。

治五郎が天神真楊流に入門して2年後、師の福田八之助が亡くなり、治五郎は福田の師である磯正智<いそまさとも>の門下となりました。その時福島も共に磯道場に入門していますが、そこではあまり稽古に出席しなかったので、治五郎ともしだいに疎遠になっていったと思われます。
福島の非業の最期を治五郎が知っていたのかどうか─おそらく知ってはいたでしょうが、そのことについて彼が語った記録は残されていません。あるいは、衝撃のあまり何も語ることができなかったのかもしれませんが、生涯忘れえぬ体験をもたらしたこの愛すべき男の死を、治五郎は心から惜しんだに違いありません。


【参考文献】
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
嘉納治五郎著『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』日本図書センター、1997年
夢枕獏著『東天の獅子 天の巻・嘉納流柔術』第1巻、双葉社、2012年

嘉納治五郎の柔術修行(2) ─ 天神真楊流福田道場

2013年03月17日 | 日記
明治10(1877)年、18歳になった嘉納治五郎は、その年に創立された東京大学文学部に入学します。日本の最高学府の学生となり、知的エリートへの道を順調にスタートさせた治五郎ですが、相も変わらず自らの虚弱な肉体に対するコンプレックスを拭い去ることができませんでした。それを克服するために、柔術の師を探し求めていた治五郎は、整骨をする者の中に元柔術家がいるという話を聞き込んで、看板を見つけてはそこを訪れるということを繰り返していました。そんなある日、治五郎はついに彼を柔術の世界へと導いてくれる人物と出会います。その時の様子を、彼は後に次のように語っています。

「人形町通りのせせこましい路地の内に接骨医の看板を発見して、飛び込んで見たら、白髪を総髪にした、いかにも柔術でもやりそうなお医者さんがいた。早速志望を述べると、『今時神妙な願いだ。自分は出来ないが、友人を紹介して上げよう』とのことで、添書を書いてくれた」(東京日日新聞社編『戊辰物語』所収。森銑三編『明治人物逸話辞典』より引用)

聞くに、八木は天神真楊流<てんじんしんようりゅう>の開祖磯又右衛門正足<いそまたえもんまさたり>の直門で、免許を取った腕前であり、昔は柔術を専門にやっていたといいます。しかし、時勢柄柔術はやめてしまい、今は整骨のみで暮らしを立てているという現状で、8畳間1つしかない自分の部屋では稽古ができないということでした。しばらく考えていた八木は、日本橋元大工町で整骨院兼柔術道場を開いている同門の福田八之助のことを思い出し、治五郎に彼を紹介します。福田はかつて幕府の武術学校である講武所で、世話心得という現在の大学でいえば助教授に当たるような職務をしていた人物です。
治五郎が福田道場を訪ねてみると、そこも決して広いとはいえず、道場のスペースは9畳しかありませんでしたが、なにはともあれ、これでようやく念願の柔術を学べることになったのです。
こんな狭い道場ですから門下生も少なく、たまに来る人が4、5人いて、毎日来るのが青木という者1人、隔日くらいに来るのが福島兼吉1人でした。この福島というのは魚河岸の親方ですが、体重が20貫(75kg)以上もあって力が強く、なかなかの猛者でした。

勢い込んで稽古を始めた治五郎ですが、初日から平素使い慣れない筋肉をどしどし使ったため、翌日は身体が痛くて動きません。朝便所に行ったところが、立ち上がることもできないという有様でした。
またこの頃の稽古着は、今と違って下履きは股までしかなく、上着は広袖だったので、肘や脛<すね>はいつも擦りむき通しで、万金膏<まんきんこう>の絶え間がありませんでした。万金膏というのは打ち身、捻挫、肩こり、神経痛などに効く膏薬ですが、この万金膏のべたばりのため、治五郎は大学の寄宿舎の友人からいつも冷やかされたといいます。
それでも治五郎は毎日道場に通い、福田からは形を習い、青木と乱取<らんどり>などをしました。時には青木が欠席し、福田が灸のあとがうんだなどということで稽古ができないことがありましたが、そうした時は、棒を振ったり、自分で転がって独稽古<ひとりげいこ>をするよう、福田から命じられました。これが数日続くこともありましたが、やはり治五郎は稽古を休みませんでした。

嘉納治五郎著『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』

福田の教授法は理屈抜き、体で覚えさせるという主義でした。治五郎の述懐によれば、ある時福田からある技で投げられ、「今の手はどうしてしかけるのです?」と聞くと、福田は「おいでなさい」と言っていきなり投げ飛ばしました。治五郎は屈せず立ち向かって、「この手をどう、足をどういたします?」と聞き質します。すると福田はまた、「さあ、おいでなさい」と言ってまた投げ飛ばすのです。治五郎がなおも同じことを聞き返すと今度は、「なあに、おまえさん方がそんなことを聞いてもわかるものか。ただ数さえかければできるようになる。さあ、おいでなさい」とまたまた投げつけたといいます。その時は結局どんな技かわかりませんでしたが、後に治五郎は、隅返<すみがえし>であったろうと語っています(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)。

明治12年8月5日、治五郎20歳の時にはアメリカ前大統領のグラント(18代)が来日したというので、渋沢栄一の依頼を受けた福田の師匠磯正智<まさとも>や福田らとともに、飛鳥山<あすかやま>にある渋沢の別荘に赴き、五代竜作と乱取をしてグラントに見せるという晴れ舞台を経験しています。五代は治五郎の学友で工学博士となった人物ですが、道場生が少ないために稽古相手に窮した治五郎に誘われて福田道場に入門しました。学問上の都合で横須賀に転居して柔術をやめてしまいますが、続けていたら大家になったに違いないと、治五郎は語っています。

さて、ここで話は戻ります。毎日道場に通い続けて熱心に修行した治五郎は、メキメキと強くなりますが、唯1人、どうしても勝てない相手がいました。それが先に述べた、福島兼吉です。彼を倒すために、治五郎はさまざまな工夫をこらします。しかしこれが、いかにも治五郎らしい、他の誰にも思いつかないようなやり方なのです。次回は、このエピソードについて、紹介することにしましょう。


【参考文献】
森銑三編『明治人物逸話辞典』上巻、東京堂出版、1965年
嘉納治五郎著『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』日本図書センター、1997年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
藤堂良明著『柔道の歴史と文化』不昧堂出版、2007年

嘉納治五郎の柔術修行(1) ─ 強さへの抑え難き願望

2013年03月10日 | 日記
 嘉納治五郎という人間は、天才であった。
 一種の異様人であったと言ってもいい。

大河格闘技小説『餓狼伝』などで知られる作家の夢枕獏<ゆめまくらばく>氏は、講道館柔道の黎明期を描いた『東天の獅子』の中で、嘉納治五郎のことをこう評しています。明治という西欧文明が怒涛のように押し寄せた時代にあって、日本の最高学府である東京大学の学生、学習院の講師として最先端の知識を学び、教える立場にありながら、古臭い、野蛮であると世間から見向きもされなかった柔術に着目し、それを近代的な柔道として見事に甦らせた嘉納治五郎は、まさに時代を超越した特異な存在だったと言えるでしょう。
夢枕氏はさらに、治五郎がいなければ当然のことながら柔道というものはこの世に存在せず、素手の武道は完全に形<かた>のみを残す形骸化したものになっていただろうと言います。そしてその業績を、「明治という時代に嘉納治五郎という存在が柔道という新時代の武道を創始したということは、人類史的な事件だったと言ってもいい」とまで言い切っています。
柔道が、それ以前の柔術と何がどう違って、どのように新しい時代にマッチして繁栄することができたのか、というのもたいへん興味深い問題ではありますが、それはまた別な機会に譲ることにして、ここではまず、治五郎がなぜ柔術を始めることになったのかを見ていくことにしましょう。

治五郎や講道館四天王が活躍する『東天の獅子』

治五郎は万延元(1860)年10月28日、摂津国莵原<うばら>郡御影<みかげ>村浜東(現在の兵庫県神戸市東灘<ひがしなだ>区御影)に、幕府の廻船方御用を勤める嘉納次郎作希芝<まれしば>の3男として生まれました。幼少の頃から英才教育を受け、明治3(1870)年に東京に出た後、14歳で育英義塾に入学してオランダ人やドイツ人の教師から英語、ドイツ語、普通学を学びます。治五郎が柔術をやろうと思い立ったのは、ここで学んでいる時期のことです。その動機について、後年彼は次のように書いています。

「(自分は)学科の上では他人におくれをとるようなことはなかったけれども、当時少年の間では、とかく強いものが跋扈<ばっこ>して、弱いものはつねにその下風に立たなければならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった。自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、その当時は、病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた」。
そのため、他の塾生から軽んじられたことを悔しく思っていた治五郎は、「日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)というのです。決して日本の伝統的な武道が廃れていくのを嘆き、その復興を図ってなどという高邁な理想から出発したわけではありません。「強くなりたい」という、男の子なら誰もが一度は抱く素朴な願望が、柔術を習おうという動機でした。

しかし、その願いがすぐに叶えられたわけではありません。治五郎ははじめ、家に出入りしていた旗本の中井という人が、かつて柔術を学んでいたというので教えてもらおうとしましたが、今時そんなものは必要ないと断られてしまいます。次に彼は、小石川丸山町にあった父の別荘で番人をしていた片桐という人が時々柔術の形をやって見せたことがあったので、その人にも頼んでみますが同じ理由で拒否されます。ほかにもやはり家に出入りしていた、肥後の出で扱心流<きゅうしんりゅう>を学んだ今井という人にも当たりますが、それも不発に終わってしまいます。明治8年に東京大学の前身である開成学校に入学後も希望を捨てられず、父親に相談してみましたが、柔術なんぞやってもしょうがないと相手にされませんでした。
万策尽きて、たいていの人だったらそこで諦めてしまうところでしょうが、治五郎の強さへの願望はよほど大きかったと見えて、それからもずっと執念深く柔術の師匠を探し続けます。そして、ふと整骨をする人に昔柔術家だった者がいるということを聞き込んで、整骨の看板があるとそこに行って柔術をやらないかとたずねることを、根気よく続けていきました。

やがて、ついに治五郎の執念が実を結ぶ時がやって来ます。明治10年、18歳になっていた治五郎は、日本橋の人形町通りで、弁慶橋近くの狭い路地の内に整骨の看板を見つけ、いつものように入って行きました。
そこにいたのは、すでに髪も髭も真っ白になってこそいましたが、筋骨逞しい、堂々たる偉丈夫でした。八木貞之助というその人物との出会いが、治五郎のその後の運命を、大きく変えていくことになるのです。


【参考文献】
嘉納治五郎著『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』日本図書センター、1997年
井上俊著『武道の誕生』吉川弘文館、2004年
夢枕獏著『東天の獅子 天の巻・嘉納流柔術』第1巻、双葉社、2012年