ひろむしの知りたがり日記

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姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第3章】 VS 良移心当流・村井半助 《巻之一》

2016年10月24日 | 日記
明治19(1886)年7月、うだるように暑い日のことです。日本橋の海運橋向うにできた、八谷孫六の道場開きが行われました。
講道館も招待を受けて、戸張滝三郎、有馬純臣、松田文蔵、そして富田常次郎の4人が出席しました。
これは小説『姿三四郎』で、三四郎と戸田雄次郎が心明活殺流と試合をした「海運橋の天神真楊流八谷孫六先生の道場開き」と、場所、道場主の名ともにまったく同じです。
このエピソードが紹介されている富田常雄のエッセイ「姿三四郎の手帖」には八谷の流派名は記されておらず、原康史著『実録 柔道三国志』には良移心当流と書かれていますが、おそらく『姿三四郎』にあるように天神真楊流だったのでしょう。嘉納治五郎はもともと同流の出身ですし、講道館を開いてからもずっと交流があったことから、同門である八谷の道場開きに招待されたと考えるのが自然です。

そういう関係でしたので、『姿三四郎』のシチュエーションとは異なってあくまで客として招待されたのであり、他流試合は予定されていませんでした。
ただ、形の演武や道場の門人たちによる紅白試合などの後、模範を示す意味で講道館四天王の一人である常次郎が、道場主の子息で14歳の護少年に稽古をつけています。これとて、愛するわが子の稽古を依頼するくらいですから、両者の関係が極めて友好的だったことを物語っています。
この時、富田常次郎は22歳、前年9月に三段を跳び越して四段となっていました。鮮やかであると同時に合理的な常次郎の稽古ぶりは、柔よく剛を制す柔術の精神を見事に体現した美しいもので、講道館流の非凡さに、心ある者たちは感服したといいます。


楓川が日本橋川に合流する入り口に架かっていた海運橋の親柱。楓川の埋め立てで撤去されたこの橋の近くに、かつて八谷孫六の柔術道場がありました(東京都中央区日本橋1-20先、日本橋兜町3先)

この日の招待者の中に、警視庁柔術世話掛(師範)のうちで最も剛の者としてその名を轟かせていた良移心当流(心頭流とも)の中村半助がいました。常次郎の模範稽古を見ていた半助は、稽古着に着替えて出て来ると、「一本願おう」と甚だ傲慢な態度で挑戦してきました。
中村半助は当時33歳、筑後国(現在の福岡県南部)久留米出身で、身長5尺8寸(約176センチ)、体重25貫(約94キロ)、その実力と魁偉な容貌から「鐘馗<しょうき>の半助」の異名を持つ強豪です。かねてより半助の評判を聞いていた常次郎は、心中、少なからずぎょっとしましたが、ここで引き下がるわけにもいかず、「お手柔らかに願います」と答えて立ち合ったのです。

実はこれより1ヵ月前、実力を試してやろうと古流柔術家たちが講道館を訪れ、起倒流免許皆伝の奥田松五郎が西郷四郎とお近付き稽古をして一方的に敗れるという出来事がありました。半助には、ここで四郎の代りに常次郎を叩きのめすことによって、来る警視庁武術大会を前に講道館柔道と柔術諸流の力関係を、一対一のタイにしておきたいという思惑があったのです。そうでもなければ、中村半助ほどの大物が、こんな町道場の道場開きで富田常次郎のような若造に勝負を挑むはずはありませんでした。

半助は立つや否や、小兵な常次郎を鷲掴みにする勢いで、畳を鳴らして向かって来ました。試合開始直後の微妙な駆け引きも、相手を警戒するようすもまったくありません。半助は己の力を過信し、常次郎を完全に舐め切っていました。両手を前に出し、下半身をやや及び腰に引いて前へ乗り出して来ます。早く相手を掴まえて、思うがままに料理してやろうと気がせいていたのです。
しかしその焦りが、半助に致命的な隙を作らせました。
その一瞬の隙を突いて、常次郎は電光石火の動きを見せます。
無造作に下げていた彼の両手が相手の袖を掴んだのと、片足が相手の腹に掛ったのとは同時でした。
壮絶な巴投げです。
及び腰だった半助は、一本の軸木の上で回転するように、大きく放物線を描いて宙を飛ぶと、身体を丸めて凄まじい音を立てて落下しました。

半助は、愕然としてよろめき起きます。意外な奇襲に頭が真っ白になっていました。不覚なりと思う怒りが、次の瞬間には彼の形相を一変させます。腰を落して進むと、むんずと常次郎の襟と袖を掴んで闇雲に引きずり回し始めました。
しかし常次郎は柔道のセオリーに則って、敵の動きに逆わらず身を任せます。そして、常に相手の力の先へ先へと動いていきました。半助は力の入れどころがなく、今度は振り回す代りに道場の端まで押して行きました。常次郎は羽目板に押しつけられ、押し当てられて、背中が板を激しく鳴らしました。
この時、常次郎の身体が崩れるように倒れました。同時に、羽目に沿って、半助の身体が再び大きく飛んだのです。またしても、巴投げの炸裂でした。

半助が起き上がろうとして無防備となった間隙を捉えて、常次郎は自分から彼のふところへ飛び込んで行きました。腰投げに出ようとしたのです。半助は後ろから常次郎の腰を抱くと、ずるずると畳に引きずり倒しました。体力で勝る半助が、寝技に持ち込んで形勢逆転を図ったのです。半助は強引に、上四方固めの形で常次郎を抑え込みにかかりました。
その強圧の下で、小柄な常次郎の身体はくるくると独楽のように回転し、蛇のごとくぬらりくらりと固めにかかった半助の攻撃を逃れます。いつの間にか常次郎の二本の腕は、半助の襟に入っていました。下からの逆十字です。
半助は常次郎をぶら下げて、この絞め技を振り解こうと中腰になりました。が、すでに技は完全に極まっており、彼には起き上るだけの余力もありませんでした。半助は手先がしびれ、眼が霞みます。唇は紫色に変り、朱を注いだように赤かった顔が、暗紫色に変じて来ました。もはや仮死寸前の状態です。
と、その時、それまで沈黙を守っていた道場主の八谷が、つと立って近づいて来ました。
「勝負、それまで!」
半助にその声は聞こえていなかったかもしれません。しかし、声と一緒に常次郎は半助の身体の下からするりと抜け出して、畳の上に立っていました。

「姿三四郎の手帖」が収められている『薔薇の紘道館』

嘉納治五郎の門人が、警視庁柔術師範きっての猛者を倒したというニュースは、都下の柔術界を震撼させました。インターネットはおろか電話すらなかった時代にもかかわらず、その晩のうちに東京中の各道場にこの知らせが伝わったといいます。
こうして講道館柔道は、その実力を初めて公衆の面前で天下に知らしめたのです。勝った富田常次郎にとっては晴れがましい名誉な出来事でしたが、敗れた中村半助にとっては、決して認めることのできない屈辱でした。大酒家だった彼は、この敗北以降心機一転、好きだった酒を断ち、ひたすら稽古に精進したのです。そして後の警視庁武術大会において、やはり講道館四天王の一人である横山作次郎と対戦しました。かつて常次郎に対して手もなくやられた半助でしたが、その時は55分に及ぶ死闘を繰り広げるも勝敗が決せず、三島通庸総監が試合を預かるという異例の結末となりました。

四天王のうち二人と闘った中村半助は、講道館の好敵手として柔道史上に記録されるとともに、『姿三四郎』においても重要な役割を演じた村井半助のモデルとして、長く人々に記憶されることとなるのです。


【参考文献】
原康史著『実録 柔道三国志』東京スポーツ新聞社、1975年
富田常雄著『薔薇の紘道館』東京文藝社、1978年
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年