ひろむしの知りたがり日記

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剣豪大名・柳生宗矩が眠る広徳寺

2012年06月03日 | 日記
西武池袋線・都営大江戸線の練馬駅から歩いて15分ほどの円満山広徳寺(東京都練馬区桜台6-20-19)に、小説や映画・ドラマの時代劇にたびたび登場し、剣豪一族として有名な柳生家の墓所があります。

広徳寺は後北条氏の菩提寺である早雲寺の子院として小田原に建立されましたが、天正18(1590)年の小田原落城に際して焼失したと伝えられます。その後、徳川家康が江戸神田に再興し、寛永12(1635)年に下谷に移転、加賀藩前田家をはじめ諸大名を檀家とする江戸屈指の大寺院となりました。「びっくり下谷の広徳寺」といわれるのは、このお寺がかつては下谷にあったからです。
ところが関東大震災で再び焼失し、その後の区画整理のため大正14(1925)年から現在地に墓地を移し、別院としました。さらに昭和46(1971)年には本坊も移ってきました。

墓地には柳生一族のほか、茶人で庭園築造にも才能を発揮した小堀遠州(1579-1647)や、文禄・慶長の役などで活躍した立花宗茂<むねしげ>(1569-1642)など、名だたる大名家らの墓所があります。
そのために寺には高価な品々があるので、泥棒が多く簡単には入れてもらえないそうです。ひろむしが行った時は、たまたまた法事が何件か行われており、それらの人たちに紛れて難なく見学できましたが・・・。


広徳寺山門


小堀遠州(上)と立花宗茂(下)の墓

柳生家墓所には、右から順に初代但馬守宗矩<たじまのかみむねのり>、2代十兵衛三厳<みつよし>、3代飛弾守宗冬<むねふゆ>、それから明治に入って子爵となった柳生家歴代の墓碑が並んでいます。

初代の又右衛門宗矩は元亀2(1571)年、石舟斎宗厳<せきしゅうさいむねよし>の5男として大和国(奈良県)添上<そうのかみ>郡柳生に生まれました。
彼は剣聖と呼ばれた父に、幼い頃から新陰流剣術をたたき込まれます。
文禄3(1594)年、父石舟斎は京都西郊の鷹峰<たかがみね>に滞在していた家康に招かれ、剣術を披露しました。その供をして、石舟斎の打太刀をつとめた宗矩は、旗本として家康に仕えることになります。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、石田三成方の後方牽制の特命を受け、大和地方の豪族工作に当たりました。その功により、豊臣政権の時代に隠し田が見つかって没収された柳生の旧領2,000石を賜ります。翌年9月には、2代将軍秀忠の兵法指南役となり、1,000石を加えられました。 さらに元和7(1621)年3月には3代家光の指南役にも就任し、柳生新陰流が将軍家御流儀として長く繁栄する地歩を固めたのです。

「剣禅一如」を唱え、「活人剣<かつにんけん>」を目指した宗矩は、剣の極意を人間を活かす道、つまり政治に向けました。寛永9(1632)年10月に3,000石を加増の後、同年12月に総目付<そうめつけ>(後の大目付)に任じられて諸大名の監察に当たり、また同13年には江戸城の石垣および堀の普請を指揮するなど、幕政にも参与しました。そして同年8月に4,000石を新たに与えられ、トータルで1万石となって、大名の仲間入りをしたのです。宗矩の加増はまだ止まりません。同17年9月に500石、その後さらに2,000石を加えられ、合わせて1万2,500石に達しました。

宗矩の思慮深さを表わすエピソードがあります。
島原の乱が起った時、板倉重昌(1588-1638)が討手の主将となったことを聞き、信仰で固く結ばれた切支丹<キリシタン>は難敵であり、西国大名たちが幕臣の板倉を軽んじて下知に従わなければ、彼は焦り無謀な攻撃を仕掛けて討ち死にするだろう、西国大名を抑えることができる位階・実力の持ち主を将とすべきだ、と家光に進言します。しかし時すでに遅く、板倉は出発してしまい、宗矩の危惧は現実のものとなりました。

このように政治家としての宗矩の識見・力量は、目覚しい出世ぶりから見ても疑う余地はありませんが、剣士としての腕前はどうだったのでしょうか?

慶長20(1615)年の大坂夏の陣において、宗矩の強さを発揮する場が訪れました。死にものぐるいになった大坂方の木村主計<かずえ>が、武者を率いて秀忠本陣に斬り込んできた時、馬廻りとして秀忠の傍らにいた宗矩は少しも慌てず、突進してくる敵7人(10余人との説もあります)を、それぞれ一刀のもとに斬り捨ててしまいました。剣豪の面目躍如といったところでしょうか。

宗矩は晩年、柳生の地に居所を構えました。正保3(1646)年3月20日、重病の床にあった彼を、家光がわざわざその屋敷を訪れて見舞っています。この時宗矩は、自分が死んだら、家禄は全て公に返すと言ったそうです。見上げた忠誠心ですが、相続人である息子の三厳や宗冬が聞いたら、青くなったかもしれません。

それからわずか数日後の3月26日、宗矩は66歳でこの世を去りました。家光は、宗矩が死してからも「但馬が生きていたら、あれもこれも質問したのに」と折りにふれ嘆息していたといいますから、その信頼ぶりは相当なものだったようです。


柳生宗矩の墓碑。五輪塔には「空風火水地」の文字が刻まれている


柳生藩祖である宗矩の業績は、一族の中でも群を抜いているので、ついつい長々と書いてしまいました。
息子の三厳らの話は、次に回すことにしましょう。



【参考文献】
編集顧問・高柳光寿他『新訂寛政重修諸家譜 第17』続群書類従完成会、1965年
繁田健太郎著『江戸史跡考証事典』新人物往来社、1974年
角川書店編『日本史探訪17 講談・歌舞伎のヒーローたち』角川書店、1990年
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
別冊歴史読本/読本シリーズ5『日本剣豪読本』新人物往来社、1993年
歴史群像シリーズ特別編集『決定版 図説江戸の人物254』学習研究社、2004年
新人物往来社編『江戸史跡事典 中巻』新人物往来社、2007年

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