ひろむしの知りたがり日記

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姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第2章】 VS 心明活殺流柔術 《後編》

2016年09月25日 | 日記
一度も稽古することなく門馬三郎の心明活殺流道場を去った姿三四郎ですが、それで完全に縁が切れたわけではありませんでした。
矢野正五郎の門下となって1年半が過ぎた頃、紘道館ではもはや右に出る者がないまでに強くなった三四郎の身の上に、ある事件が起きます。

その日、行きつけのそば屋長寿庵で、いつものように内儀のお幸と他愛のない話をしていた三四郎に、彼女が突然言い寄ってきたのです。
彼はまだ20歳と若い上に、なかなかのイケメンでした。整った顔立ちのうちには澄んだ眼が輝き、唇紅く、濃い眉とつやのある髪が大きな魅力となっていました。後家とはいえ、40に手の届かぬ熟女のお幸は、純心な三四郎に酒を飲ませて誘惑しようとします。ところが、その濡れ場に現れた、1人の遊び人風の男がありました。
男の名は仙吉、偶然にも彼は、門馬たちが矢野正五郎を襲撃した際に、学習院講師の集まりから帰る正五郎を見張っていて、門馬に知らせる役割を果たした人物でした。

お幸の情夫気取りの仙吉にとって、自分の女に手を出した(もちろん、誤解ですが)上に、門馬道場を後ろ足で砂をかけるようにして出て行った三四郎は、無事に帰すわけにはいかない許されざる相手です。腕に自信があり、血気盛んな若者である三四郎は、仙吉に売られた喧嘩をつい買ってしまいます。
仙吉とその子分は合わせて4人。三四郎は匕首<あいくち>や心張棒<しんばりぼう>を手にした遊び人たちをあっさりと片づけます。しかし、戦闘の興奮にすっかり頭に血が上り、駆けつけてきた巡査たちをも投げ飛ばして逮捕されるという大騒動に、事態は発展してしまいました。

幸い、矢野正五郎の文学士と学習院職員という肩書が功を奏し、三四郎は司直の手から逃れることができました。紘道館に戻った三四郎は、破門こそ免れたものの、師範から稽古禁止を言い渡されます。
紘道館と矢野正五郎の顔に泥を塗る大きな過ちではありましたが、この事件は彼におのれの慢心を気づかせ、人間的な成長を促す契機となりました。
そして、長い稽古止めが解かれた時、紘道館はいよいよ柔術諸流との闘いを開始します。警視総監の三島通庸<みちつね>が、警視庁武術大会への参加を要請してきたのです。
それに先立って、海運橋の天神真楊流八谷孫六の道場開きに招待された紘道館は、門馬三郎の心明活殺流と模範試合をすることになりました。
紘道館柔道にとって、公式に行われる初めての他流試合です。

余談ですが、この試合が世間の噂の的になっているさなか、質屋を訪れた三四郎に、番頭がこんなことを言うシーンがあります。
「なんしろ、心明活殺流なんて、名前から文明開化じゃないし、荒っぽい、おっかない柔術だって言うじゃありませんか」
心明活殺流(山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』によれば、「正しくは殺活心明流」というそうです)は竹内流や天神真楊流、起倒流などのように現在まで伝わってはいませんし、詳しく書かれている資料も見つけられなかったので、実際にどのような柔術だったのかは、残念ながらわかりません。
ただ、その遣い手である門馬(実在)はだいぶ荒っぽい人物だったようで、原康史著『実録 柔道三国志』に「剽悍<ひょうかん>な風貌は豹を思わせる心明活殺流の門馬三郎である。門馬の柔術の殺伐さには定評があった」と書かれており、実戦的強みを持った喧嘩柔術であったとしています。

 昭和48年に刊行された新潮文庫版『姿三四郎』

「御高弟二名、御差遣<ごさけん>下されたく候」
との招待状に、選ばれたのは矢野門下中最古参の戸田雄次郎と、実力No.1の姿三四郎でした。
道場開き当日、少年たちの紅白試合がすみ、堤宝山流の古風な鎧組打の形や、道場主自身による天神真楊流の当身の形が披露された後、いよいよ紘道館柔道対心明活殺流柔術、因縁の対決が始まりました。

まずは雄次郎が、活殺流免許皆伝の八田千吉を迎え討ちます。
試合は一方的なものとなりました。万世橋で師匠の矢野正五郎に苦杯をなめさせられた八田は、組み合わずに相手の足を掬い、すぐ寝技に入って絞め、逆を取る稽古に専念してきましたが、自然体で無造作に向ってくる雄次郎の動きに、まったく隙を見出すことができませんでした。逆に一瞬の隙をつかれて襟と袖をつかまれ、鋭い小内刈で何度も尻もちをつかされたあげく、反撃せんと押しに出たところを雄次郎得意の巴投げで3間(約5m)も距離のあった活殺流陣営の席まで吹っ飛ばされてしまいました。
その後は、組んではまた投げられると、両手を前に突き出して、道場中を後ずさりして駆け回るという醜態をさらし、見かねた検証役の八谷の「それまでっ、それまで」という叫び声に救われたのでした。

平成8年に刊行された講談社文庫版『姿三四郎』 

汗もかかず、息も切らさずに選士控席へ戻ってきた雄次郎に代わって席を立った三四郎の相手は、一度は師と仰ごうとしたあの門馬三郎でした。
きれいに頭が禿げ上がり、赭顔<あからがお>の大男である門馬の形相は、まるで悪鬼のようでした。
門馬は礼もせず、仁王立ちのまま言い放ちます。
「来い!冷やかし入門の見せしめに、稽古をつけてやる」

試合がスタートし、組み合うや否や、門馬は三四郎の襟を深く取って、右手で稽古着の前を鷲づかみすると、ダッ、ダッ、ダと床を鳴らして右へ右へと三四郎を引きずり回しました。いささかも逆らうことなく、引かれるに任せて足を運ぶ三四郎、押さば引け、引かば押せという、柔道本然の心のままの動きでした。
いくら力任せに引きずり回しても、抵抗せずに一歩先に移動してしまうので、門馬は三四郎の体勢を崩すことができません。逆にこちらがバランスを崩して危機に陥ることになります。
そのことに気づいた門馬は、一息入れると、両手を三四郎の袖深く差し込んできました。深く組みさえすれば、体力で上回る自分の技は、充分に効力を発揮するだろうと考えたのです。それを嫌うかのように、一歩飛び下る三四郎を追って、門馬が袖を深く取り、腰投げにいこうとしました。すると、嫌っていたはずの三四郎が、予想に反して自分の方から門馬の両袖を深く取ってきたではありませんか!

次の瞬間、三四郎は身体を真後ろへ捨て、左足を門馬の後股にかけていました。門馬は三四郎の上を越えて、毬のように飛んでいきます。崩れてはいましたが、隅返<すみがえし>の体勢でした。
門馬が飛んだ先には道場の羽目板がありました。ガンという響きを立てて激突した門馬は、羽目板から1間(約182cm)手前にうつ伏せに倒れたまま動かなくなりました。

門弟や同門の柔術家たちに担がれて、奥の座敷へと運ばれていった門馬三郎は、意識不明の重体に陥っていました。
医者によれば、打ち所が悪かったというよりも、長年にわたる大酒が原因の卒中だということでした。
自分のせいではないといくらかホッとした三四郎でしたが、門馬を見舞った彼は、そんな安堵の気持を吹き飛ばされてしまいます。門馬の娘が、父親の枕許からきっと彼を睨みつけるのを見たのです。
「人殺し!」
粗野な早口でそう言った彼女の眼は、憎悪に激しく燃えていました。身も心も凍らせるその悪意に満ちた眼は、三四郎に他流と覇を競っていくということが、単に武術家同士の生死を賭けた闘いを越えて、周囲の人間の幸不幸をも左右する苛酷で非情な修羅の道なのだということを、まざまざと思い知らせました。

姿三四郎の長く険しい道のりの幕開けとなったこの他流試合デビュー戦ですが、元ネタとなったと思われる勝負が、実際に行われています。
ただし、そこには三四郎のモデルである西郷四郎は登場せず、試合をするのは戸田雄次郎のモデルで小説『姿三四郎』の著者富田常雄の実父でもある富田常次郎のみです。
そして対戦する相手は、心明活殺流ではなく、良移心当流の中村半助でした。

そう、古流柔術の命運を賭けて、三四郎と警視庁武術大会で激闘を演じ、彼に想いを寄せる乙美の養父である村井半助のモデルとなった人物です。


【参考文献】
原康史著『実録 柔道三国志』東京スポーツ新聞社、1975年
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年。同『姿三四郎 (上)』新潮社、1973年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年

姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第1章】 VS 心明活殺流柔術 《前編》

2016年09月11日 | 日記
姿三四郎が最初に他流試合をした相手は、心明活殺流柔術の門馬三郎です。

心明活殺流を開創したのは、楊心流(揚心流とも書きます)の祖秋山四郎左衛門義時の門下で、下総国(現在の千葉県北部と茨城県の一部)佐倉藩士の上野縦横義喬です。
師の義時は長崎の医者で、医術修行のために中国へ渡った時に、博転という人から柔術3手を、あるいは武官という者から捕手3手、活法28法を授かりました。帰国後、工夫して捕手300手を案出し、これを義喬に伝授したのです。義喬はさらに自己の工夫を加えて一流を興し、心明活殺流と称しました。
楊心流からは心明活殺流のほかに、真神道流、天神真楊流などが派生しています。

故郷の会津でその天神真楊流を学んでいた三四郎が、東京で最初に門を叩いたのはこの心明活殺流の門馬三郎道場でした。ところが、入門するために連雀<れんじゃく>町(現在の千代田区神田須田町1丁目)の門馬道場を訪ねたその日に、彼は日本伝紘道館柔道の創始者矢野正五郎と運命的な出会いを果たすことになるのです。

皮相的に先進国の形だけを追い、日本中が文明開化の熱病に浮かされていた明治の世、剣術や柔術は時代遅れで野蛮と軽蔑され、衰退を余儀なくされていました。門馬も道場経営だけでは食べていけず、浅草で居合抜きと組んで見世物興行を行って糊口をしのいでいたのです。それでも、駄菓子屋の支払いにまで事欠くような窮状にありました。
そんな中、明治10(1877)年に起きた西南戦争において、警視隊から剣術に秀でた者を集めて編成された抜刀隊が威力を発揮したことにより武術が見直され、警察官の訓練に撃剣を追加するようになり、次いで明治16年3月には柔術も採用されることになりました。
こうして警視庁に柔術世話係が置かれ、ようやく陽の目を見る時が来たと喜び勇んでいた矢先、東京大学出の学士で、学習院の講師というきらびやかな肩書を引っ提げた矢野正五郎が、「術の小乗から道の大乗へ」などと偉そうなことをほざいて、颯爽と柔術界に乗り込んできたのです。ただでさえ小さなパイを奪い合う強敵の出現に、門馬たち旧来の柔術家が心穏やかでいられようはずがありません。

「開化の時世を当て込んだような学士の若造の柔道なぞというものに、警視庁まで乗取られては堪らんからのう。正に斬るべしだ!」
門馬たちは紘道館を若芽のうちに摘み取ってしまおうと、正五郎襲撃を企てます。その決行日が、まさに三四郎が入門のために訪れたその日だったのです。
三四郎はすでに50銭の入門料を払ってしまっていましたが、己の不運を呪うばかりで自堕落な暮らしを送り、自ら柔術の品位を下げているような彼らの醜態に絶望し、内心入門を断念していました。
しかし、噂の紘道館柔道がどの程度のものなのか、確かめたいという気持ちもあったのでしょう、誘われるまま、門馬たちに同行します。

その夜、神田錦町の今文で学習院の講師たちの集まりがありました。その帰り道に野試合を挑もうと、門馬たちは万世橋<まんせいばし>の袂で、矢野正五郎を乗せた人力俥を待ち受けることにしたのです。
万世橋は明治6年に造られた東京で最初の石橋で、半円形の2つの通船路が川面に映るようすがまるで眼鏡のようだったので、「めがね橋」の愛称で呼ばれていました。

心明活殺流のメンバーは6人。自分たちはただの無頼漢ではない、武術家であるという誇りだけは辛うじて残されていたのか、武器を持つことは禁じられていました。
俥がやって来ると、仲間の1人根本が闇から飛び出して、俥夫の膝頭をぽんと蹴って転ばせます。俥は横倒しになり、正五郎も前のめりに俥から放り出されてしまいました。
けれども彼は、俥夫の背中に軽く右手を当てて宙に一つ返ると、すっくと下り立ったのです。
まるで体操選手のような、鮮やかな身のこなしでした。

「紘道館の矢野正五郎である。人違いか、それとも闇討か?」
落ち着いた正五郎の声が、門馬たちに問いかけます。
「名乗れ、素姓を」
それに対して根本は「心明活殺流」とたたきつけるように叫ぶと、正五郎の手元に飛び込み、水月(胸の中央にある窪んだ部分。人体の急所)に当身を打ち込みました。正五郎は一歩後ろへ下がって体を開き、相手の手首を掴んで引っ張ります。根本が引かれまいと反身になって上半身に力を込めた瞬間、正五郎は一本の棒のように自分から仰向けに倒れ、根本を神田川に放り込んだのです。
見事な真捨身技でした。


昭和5(1930)年に架け替えられた現在の万世橋(神田須田町2)。最初の万世橋は150mほど上流にありましたが、明治36(1903)年に現在の万世橋にその名を譲り元万世橋と改称されました(明治39年撤去)

続いて3人が、正五郎を取り囲んでじわじわと迫ります。
そのうちの1人が正五郎の着物の袖を鷲づかみにし、思いっきり大外刈りをかけました。
しかし、体勢の崩れていない正五郎に強引な力技を仕掛けてもかかるわけがありません。袖を振り切られ、勢い余って2、3歩たたらを踏んだところ、腰の辺りを一蹴りされると、両手を鳥のように広げて神田川に凄まじい水煙を上げていました。

残る2人は、当身か固技で正五郎を地上に転がして仕留めるほかに術がないと、左右に分かれて肉迫します。すると、それまで守勢だった正五郎が一転、自分から右の敵の方に飛び込んでいきました。
組み合った2人が相互に引き合って腰を落としたと見るや、正五郎は右足を相手の内股に軽くかけ、仰向けに倒れました。相手の身体はその上を飛び、そのまま神田川へ。隅返<すみがえし>の妙技でした。
6尺(約182cm)豊かな大男を3人、5尺2、3寸(約158~161cm)の小さな体で苦も無く川へ投げ込んで、息一つ切らしていない正五郎の闘いぶりに、感動のあまり我を忘れて見つめる三四郎の目の前で、4人目の敵が頭から神田川に吸い込まれていきました。

ついで、仲間のうちでは最も精悍な顔つきをした、心明活殺流免許皆伝の八田千吉が、正五郎の前に仁王立ちします。
睨み合う両者。全身に殺気と闘志をみなぎらせた八田は、それに反してまるで春の野原で風に吹かれているような正五郎の泰然自若とした姿に業を煮やし、拳を固めて一気に眉間を狙いました。正五郎は右腕でその拳を受けて頭上へ流し、さらに鳩尾<みぞおち>(水月に同じ)を狙ってきた八田の左拳を自分の拳で抑えたのです。
正五郎は、そのままひた押しに八田を押します。もつれ合った右手は、互いの肩口を掴んでいました。八田はたじたじと3、4歩後退し、腰を落として食い止めると、満身の力を込めて押し返しました。そのまま神田川に正五郎を押し落としてしまわんばかりの勢いでした。
川まであと一間(約182cm)、正五郎は「えい」という気合とともに身を倒し、右足を相手の下腹にかけました。わが力を利用された八田は、正五郎の右足を軸に鮮やかな放物線を描いて宙を吹っ飛び、神田川に5つめの水柱を立てたのです。

最後に残された門馬三郎は、猪のような唸り声を上げて正五郎の足にしがみつこうと突進していきました。引きずり倒して腕をへし折るか、絞め殺してやろうという腹積もりだったのです。
2つの肉体がもみ合って、地上を転がります。
この寝技勝負を制したのも、やはり矢野正五郎でした。門馬はうつ伏せにされ、正五郎の膝下に抑えられて、右腕を逆に極められてしまいました。
「なんの恨みだ?」
と問い質す正五郎に、門馬はあえぎながら答えます。
「恨みじゃない・・・・・。こ、こらしめだ」
「私をか? はっはっ、愚かなことを言う。そんなことでは、武術家は廃るばかりだ」
これ以上痛めつけても無意味だと、正五郎は手を放して立ち上がりました。しかし門馬はそのまま起き上がることなく河岸まで這っていき、自ら神田川へ飛び込みました。
敗北の無念と、「大学出の学士が理屈でこねた畳水練」と馬鹿にしていた柔道に手も足も出なかった恥辱に耐えることができなかったのです。

それにしても、まだ主人公の姿三四郎が登場したばかりだというのに、いきなり息詰まる格闘シーンが展開され、これから先の物語への期待をいやが上にも高めます。さすが、後に戦後初の直木賞を受賞する稀代のエンタティナー富田常雄の面目躍如といったところでしょう。


「萬世橋」と浮き彫りされた名板(左)と、橋から眺めた神田川の流れ。正面に見える橋は上流の昌平橋

闘いを終えた正五郎は、まるで何事もなかったかのように穏やかな声で俥屋を呼びましたが、何の返事もありません。恐れをなした俥屋は、さっさとどこかへ逃げ去ってしまったのです。しかたなく歩き出そうとした正五郎の前に出て、地面に膝を折って両手をつき、
「先生、私がお供します、お乗りください」
そう申し出た若者がありました。姿三四郎です。
3日前まで俥を引いて苦学していたことが、思わず役に立ちました。
「そうか、では頼もう」
強いばかりでなく、敵とも味方とも知れぬ三四郎に対して「何者か?」と質すこともなく、静かに車上の人となった正五郎の器の大きさに、三四郎の心は畏敬と感激の思いでいっぱいになりました。

履いていた下駄を惜しげもなく脱ぎ捨てた三四郎は、心から尊敬できる師匠と出会えた喜びに胸を高鳴らせながら、夜更けの東京の町を、紘道館のある下谷の隆昌寺へとひた走るのでした。


【参考文献】
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
笹間良彦著『図説 日本武道辞典《普及版》』柏書房、2003年
藤堂良明著『柔道の歴史と文化』不昧堂出版、2007年