ひろむしの知りたがり日記

好奇心の赴くまま
なんでも見たい!
知りたい!
考えたい!

流派名は勘違いから !? ─ 制剛心照流 宮崎只右衛門重職

2013年11月30日 | 日記
尾張の地に制剛流を広めた梶原一族の墓所がある愛知県名古屋市の平和公園には、2世梶原源左衛門直景の孫弟子に当たる人物も葬られています。
その名は宮崎只右衛門重職。師匠である猪谷只四郎<いがいただしろう>和充は、直景の高弟で3世梶原源左衛門景明の後見を務めた猪谷忠蔵元和の子です。その門下となった重職は、技倆傑出し、その右に出る者がいなかったそうです。

元禄9(1696)年3月2日生まれ。尾張藩士で、本姓は野田です。字は子由。睡鴎<すいおう>、または両庵と号しました。宮崎岡右衛門重勝に養育されてその嗣子となり、享保5(1720)年5月に家を継いで、志水甲斐守の同心となっています。元文5(1740)年には8代藩主徳川宗勝<むねかつ>によって禄50石を加増され、200石取りとなりました。
重職は猪谷から制剛流ヤワラのほかに、静流薙刀術も学んでいます。さらに、上泉流抜刀術を野田善十郎憲勝に教わり、いずれも印可を得ました。それから彼は自流を起こし、制剛心照流と称しました。制剛流心照派、心照流ともいいます。

宮崎只右衛門重職(睡鴎)の墓碑 

流派名の誕生には、ちょっと間の抜けた裏話があります。
それは、梶原直景の法名「心聡院」の文字を、重職が「心照院」と見間違えて流名にしたというものです。雲の上の存在である師匠の、さらにその師匠の法名を勘違いしたなどとはちょっと信じられませんし、周りの誰かが気づいて指摘しないわけはないだろうという気もしますが、他にもっと納得のいく命名の理由があるかといえば、残念ながらそれは伝わっておりません。
ちなみに心照流を開創したのは重職ではなく、同じ猪谷和充門下の服部半四郎忠胤だという説もあります。

重職には、前回の梶原景益の回にも登場した津金政巴がらみのエピソードがあります。
『尾陽武芸師家旧話』(作成年次未詳)に書かれている話ですが、重職が政巴と2人で狩りに行った時のことです。砂子で農民たちとの間に諍いが起こり、2、30人の敵を相手にしましたが、重職たちは腕にまかせて彼らを追い払ってしまったといいます。

ここで、津金政巴について少し触れておきましょう。
名ははじめ作之丞、瀬左衛門、中頃には覚左衛門といい、のちに理兵衛<りへえ>と改めました。尾張藩士津金十左衛門正則の長男で、元禄6(1693)年、3代藩主綱誠の時に家を継ぎ、10人扶持を給されました。渡辺半蔵に属する同心でした。享保3(1718)年11月、6代藩主継友の時に150石を賜っています。
重職の師である猪谷和充から制剛流居合術を、また野本次郎兵衛定信から浦部流居合術を学んで、藩内で両流の師範を勤めました。立合抜討の法を主としたので、抜討流と呼ばれました。前回、今回で紹介した逸話のほかに、関東者8、9人と口論になって取り囲まれ、仕込み槍で全員を討ち捨てるといった事件も起こしており、相当に血の気が多く、喧嘩っ早い人物だったようです。

話を、宮崎重職に戻します。
彼は武術ばかりでなく、文を学び、歌を詠じ、すこぶる詩が上手でした(それだけに、しつこいようですが、梶原直景の法名を間違えるなどといったミスを犯すとは、考えられないのですけど・・・)。寛延3(1750)年5月、55歳で致仕し、自作の詩1,000首余を集めて『両庵詩集』と名づけています。
15年間の余生を過ごしたのち、明和2(1765)年6月13日に70歳で亡くなります。常英山本要寺(名古屋市東区東桜2-17-38)に葬られました。法名は円海睡鴎です。
現在彼の墓は、冒頭で書いたように平和公園内の本要寺霊苑に移されています。


宮崎重職の墓がある、名古屋市の平和公園本要寺墓苑

【参考文献】
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
大森宣昌著『武術伝書の研究─近世武道史へのアプローチ』地人館、1991年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年

制剛流 梶原一族 (2) ─ 5世 梶原久右衛門景益

2013年11月23日 | 日記
愛知県名古屋市千種区にある平和公園は、丘陵地帯に広がる約147ヘクタールもの土地に、市内279寺から移転された墓地が、整然と配置されています。そのうちの妙本寺墓地の一画には、前回紹介した梶原源左衛門直景と、その子で制剛流3世の源左衛門景明<かげあき>、曽孫で5世の久右衛門景益<かげます>の墓碑が3基並んで立っています。

右端が直景で、その隣が景明のものです。彼は寛永20(1643)年に生まれました。万助、弥市右衛門ともいいます。尾張藩で柔術、抜刀術を教授し、4代藩主徳川吉通<よしみち>の指南にも当たったとされます。高信篤・稲葉通故編『張藩武術師系録』(文化8年=1811年)には、竹内流小具足腰廻、一伝流捕手、制剛流ヤワラ3流の師範だったのを、藩主の命でそれらを一緒にして制剛流1流にしたとあります。宝永2(1705)年3月10日、63歳で亡くなりました。法名は心行院宗閑日達です。

 
平和公園内の妙本寺墓地(上)と梶原一族の墓所(下)

景明の墓碑の左隣、左端に立つのが制剛流中興の達人といわれた梶原景益の墓です。彼は宝永4(1707)年に生まれ、初名を亀之助といいました。小躯でしたがたいへん身が軽く、およそ手の届く高さであれば、梯子などの道具なしで難なく屋根などに跳び上がることができました。また、屋上から身を転じて、軽く地上に座したといわれます。

景益が笠寺観音(笠覆寺<りゅうふくじ>。名古屋市南区笠原町)に参詣した時のこと、八町畷で5人連れの熱田の若者が、酔っぱらって往来の人たちに悪さをしていました。そんなところへやって来た景益を、彼らは小男であると侮って、罵声を浴びせかけました。景益は相手にしませんでしたが、結局追って来た彼らに山崎の茶店で休んでいるところをからまれてしまいます。店主が止めようとしましたが、若者たちは聞く耳を持ちません。景益は笑って取り合いませんでしたが、とうとう彼らが打ちかかってきたので、全員を店の外に投げ出してしまいました。5人はほとんど死んだような状態でしたので、累が及ぶのを恐れた店主が蘇生薬を与えてくれと頼むのに対して景益は、
「一旦気絶しているだけで、やがて息を吹き返すさ。たとえ死んだとしても、遺体は店の外にあるんだから、なにも心配することはないよ。わたしは観音様にお参りして来る。帰る時には、彼らは回復しているだろう」
と答えました。そうして参詣した帰りに茶店に寄ると、景益の言ったとおりに彼らは蘇生し、3人は駕籠に乗り、あと2人はよろよろしながら逃げて行ったといいます。店主は、
「あなたの技の妙は、何ともたとえようがない。本当に、人間業じゃありません」
と驚嘆したそうです。

また、ある時のことです。親友の津金政巴が訪ねて来ました。新刀を見せられた景益は、
「まさに羨ましいほどいい刀だ。ただ惜しむらくは、1寸(約3センチ)縮めればもっとよくなるだろう」
と言いました。居合に優れた政巴は猛然と反発しましたが、その帰路、雨が降る中、堀端で蓑笠に身を包んだ男に襲われます。男は政巴が抜刀して斬りつける刀をくぐり抜け、彼を堀に投げ込みました。その男が景益だと悟った政巴が、景益の邸に引き返して問い質すと、景益は最初否定します。しかし政巴に、
「君でなければ、天狗にしかあのようなことはできない。本当のことを言ってくれ」
と詰め寄られ、景益は箕を見せました。すると、その袖端が切り落とされていたのです。そして景益は、
「もし、刀身が1寸短かったら、わたしは逃れることができなかったろう」
と言いました。それを聞いた政巴は、ついに新刀を1寸短くしたといいます。尾張藩9代藩主徳川宗睦<むねちか>は、このことを賞して景益に禄50石を加増しました。

景益は天明元(1781)年9月13日に75歳で亡くなりました。法名を、顕本院環意日実居士といいます。
ご先祖様の直景もそうでしたが、身体は小さいけれどめっちゃ強い、まさに制剛流の流名どおり、柔よく剛を制すヤワラの達人でした。

制剛流5世である梶原久右衛門景益の墓

【参考文献】
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
筑波大学武道文化研究会編『武道傳書集成』第7集<柔術関係史料 上巻>筑波大学、1992年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年



制剛流 梶原一族 (1) ─ 2世 梶原源左衛門直景

2013年11月16日 | 日記
今回取り上げる制剛流は前回、前々回で紹介した渋川流や小栗流同様、捕手、小具足、縄、当身、組討、居合に及ぶ総合武術です。それらのうち居合は、独立の一科としても盛んに行われました。
流祖は水早長左衛門信正<みずはやちょうざえもんのぶまさ>です。天正年間(1573~1592)初め頃の生まれとされますが、生年、生国ともに不明で、没年は寛政15(1638)年前後と考えられています。一説に京都の人で、豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は浪人して摂津国(大阪府西部・兵庫県南東部)に隠棲したといわれています。若くして武芸十八般を極めた信正は、制剛僧という高野<こうや>の山法師から柔術を学びました。それからさらに研究を重ね、五身伝20ヶ条ヤワラ組討を発明してこれを教授しました(ヤワラは、本当はにんべんに和という字を書きます。柔術のことです)。
制剛流という流名の由来は師の名を冠したものとされますが、『日本武道全集』などに収められた『印可状』を見ると、「老子に謂う、至柔よく至剛を制すの義也。これを称えてすなわち制剛一流と曰う也」とあります。
信正の教えを受けた者の中には、錚々たる顔ぶれが並びます。新陰流剣術の柳生石舟斎宗厳、宝蔵院流槍術の宝蔵院胤栄<いんえい>、能楽師で、宗厳から新陰流を学んだ金春七郎氏勝<こんぱるしちろううじかつ>らが、信正から印可を与えられています。

制剛流2世となり、同流発展の端緒を開いたのは梶原源左衛門直景<げんざえもんなおかげ>です。慶長15(1610)年の生まれで、前名を弥市右衛門といいました。
祖父の備前守景規は、相模国小田原(静岡県)の北条氏第5代氏直に仕えていました。天正18(1590)年に北条氏が滅亡した後、父兵部景通<ひょうぶかげみち>は美濃大垣藩戸田左門氏西に仕えましたが、寛永5(1628)年に浪人し、直景は父とともに摂津国に移り住み、名を口演随身<こうえんずいしん>と改めます。
兵法者として立つことを志し、水早信正にヤワラ・組討の術を、また河上伊左衛門重忠<しげただ>(河上流居合・捕手)に抜刀手詰の術を学びました。寛永20年7月には、信正から免許を受けています。
さらに浅山一伝流捕手、竹内流小具足腰廻<こぐそくこしのまわり>、難波流、一無流、戸田流平法、鐘捲流刀槍術を修め、高野山で真言秘密を学びました。特に制剛流はその奥義を極め、諸国を遊歴しましたが、1人として直景に敵う者はいなかったといいます。体術に達し、居合・抜刀を工夫して一流を立て、一時、柳生流居合を称しましたが、やがて江戸へ出て両国に道場を開き、「制剛流ヤワラ組打骨砕キノ傳」という看板を掲げると、多くの門弟が集まりました。

この頃直景は、尾張藩初代藩主徳川義直<よしなお>が士を愛すると聞き、仕えることを望みます。そこで義直は、直景に力士御用木(小野川とも)と試合をさせました。御用木は長身肥大、それに対して直景は小躯で、とうてい勝負になるまいと思われましたが、驚くべきことに直景は、一撃で御用木をなぐり倒してしまったのです。義直は直景の技を賞し、正保元(1644)年2月、寺尾土佐守直政の同心として召し抱えました。直景は禄150石を給せられ、晴れて梶原姓に復します。
それ以降、源左衛門(弥市右衛門)景明、猶右衛門景政(景格)、久右衛門景益、直之進景慶、弥市右衛門景長、久右衛門景弘、弥市右衛門景登、弥市右衛門景富と9代にわたって柔術師範役を勤め、幕末に至ります。尾張藩で行われた制剛流は俗称、梶原流と呼ばれました。直景は貞享2(1685)年4月22日に76歳で亡くなります。名古屋の妙本寺に葬られ、法名は心聰院蓮順日喜とつけられました。

梶原直景の墓(名古屋市・平和公園内妙本寺墓地)

直景の門からは、優れた武術家たちが巣立ちました。
里村随心<さとむらずいしん>政氏(正氏)は、制剛流のほかに堤宝山流9代の武藤徹山に学んで随心流を起こしています。その政氏の門からは、高橋流の高橋随悦諸氏、鑑極流(和田流)の和田十郎右衛門正重が出ました。またやはり直景門下で、その子景明の後見を務めた猪谷忠蔵元和の門流からは、制剛心照流の宮崎只右衛門重職(睡鴎)が出ています。
このように制剛流とその流れを汲む流派は、柔術の一大潮流として発展していったのです。

【参考文献】
今村嘉雄他編『日本武道全集』第5巻〈柔術・空手・拳法・合気術〉人物往来社、1966年
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年

赤穂浪士で知られる泉岳寺に眠る柔術家 渋川伴五郎義方

2013年11月10日 | 日記
泉岳寺(東京都港区高輪2-11-1)と言えば、赤穂四十七士が眠る寺として有名です。しかしここには、知名度ではやや(いや、かなり・・・)劣りますが、かつては講談や映画のヒーローとしてもてはやされた渋川伴五郎義方<ばんごろうよしかた>と、彼が創始した渋川流を受け継ぐ渋川家歴代の墓所があります。


泉岳寺山門(左)とそばに立つ赤穂浪士の大石内蔵助良雄銅像(右)

渋川流は前回取り上げた小栗流同様、柔術を基本に剣、居合、槍、鎖鎌などを包含する総合武術です。義方が創始したと言っても、技術内容は関口流を改編したものが大部分でした。そのため、肥後熊本藩士で『広益俗説弁<こうえきぞくせつべん>』ほか数々の著作を残し、肥後流居合を起こした井沢十郎左衛門長秀(蟠竜<ばんりょう>)なんぞは渋川流ではなく、関口流として伝を受けています。

義方の先祖は源義家の3男義国の次男である足利義康<あしかがよしやす>の子孫で、足利家の旗本渋川中務大輔<なかつかさたいふ>の4男小四郎だと伝えられています。叔父の設楽遠江<しだらとおとうみ>守が武州の聖金坊と名乗って遁世したので家督を継ぎ、設楽修理大夫と称しました。そのため、父善兵衛兼辰<かねとき>の代までは設楽姓を名乗っていました(父は京都の人、渋川友右衛門との説もあります)。義方の生地は紀伊国(和歌山県)とも大和国(奈良県)ともされますが、兼辰が病気のために静養していた紀伊説が有力です。承応元(1652)年7月8日に生まれました。
寛文7(1667)年、16歳で関口流2代目関口八郎左衛門氏業<うじなり>、あるいはその父で流祖の関口弥六右衛門氏心<やろくえもんうじむね>(柔心。氏業は嫡男)に入門しました。氏心没後はその次男で、関口分家の万右衛門氏英<うじひで>に師事したともいいます。延宝8(1680)年5月、29歳で免許皆伝を受けました。ついで和歌山城下で道凝館<どうぎかん>を開きましたが、翌天和元(1681)年頃には江戸に出て、浜松町で道場を開く氏業を補佐しました。翌天和2年、氏業が江戸を去ると信州松代(長野県)の真田伊豆守幸道<ゆきみち>に招かれて半年間滞在しましたが、再び江戸に戻って独立し、芝山王町に道場を設けました。
貞享2(1685)年には内藤左京大夫義概<さきょうたいふよしむね>の招きで磐城平(福島県)に赴き、月俸20口を賜ります。元禄8(1695)年、江戸の大火で屋敷を失い、門人弓場弾右衛門政賢<ゆんばだんえもんまさかた>宅に仮寓しました。弓場は義方の養子に迎えられ、渋川流2代目渋川伴五郎(友右衛門)胤親<たねちか>となったともいいます(異説あり)。
その後芝土器町、翌年には本所に移り、元禄11年、47歳で芝西久保城山(芝切通しとも)に武義堂<ぶぎどう>を構えました。その精妙な技と優れた学識(『質直鈔』、『柔術百首』の著述があります)、人徳から渋川流の名は天下に聞こえました。老中阿部豊後守正武<まさたけ>や土屋相模守政直<まさなお>、井上大和守正岑<まさみね>ら諸侯に招かれ、また入門する者後を絶たず、門弟3,000余人を数えたといいます。


渋川流を創始した渋川伴五郎義方の墓(中央)

義方には、その強さを示すエピソードがいくつか残されているので紹介しましょう。
ある人が力の強い者5人を選び、義方の技量を試そうとしました。5人は全員で義方を捕らえましたが、彼がわずかに手を振ると、みんな前後左右に倒されてしまいました。そのようすはまるで、毛毬を弄ぶようだったといいます。
また、義方は菅谷<すがや>某という力自慢の浪人に、三田寺町(東京都港区)の仏乗院で勝負を挑まれたことがありました。縁の端に立った義方に、菅谷は走り寄って両手で取りつきましたが、義方は微動だにしません。さらに菅谷が突き倒そうとすると、義方はその手を取って縁から2、3間(約4~5メートル)も先に投げ落としてしまいました。敗れた菅谷は、義方に弟子入りしています。
またある時のこと、義方の門人たちが稽古後、戯れに拳で石を砕いていました。誰がやっても砕けない、太さ7寸(約21センチ)の石が、義方が持って捻ると、なんとたちまちはらはらと砕けてしまったのです。

このように並外れた強さを誇る義方でしたが、病には勝てなかったのでしょう、宝永元(1704)年5月7日、53歳で亡くなりました。彼の眠る泉岳寺は、都営浅草線の泉岳寺駅から歩いて1分ほどの所にあります。
ただし、赤穂義士以外の墓地には関係者しか入れません。行っても渋川家の墓所にお参りすることはできませんので、ご注意ください。


渋川家歴代の眠る墓所

【参考文献】
桜庭武著『柔道史攷』目黒書店、1935年
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
小佐野淳著『渋川流柔術』愛隆堂、1993年

龍馬の剣 小栗流開祖・小栗仁右衛門正信

2013年11月03日 | 日記
長いこと更新をサボっておりましたが、久々に再開します。
実は、このブログがキッカケで、念願だった原稿執筆の仕事をいただき、そちらにかかりきりになっていたのです。大幅に〆切を過ぎてしまいましたが、なんとかかんとか入稿し、ようやく好き勝手に書けるこの日記に帰ってくることができました^^
とは言っても、まだ新たにネタを仕入れに行くほどの余裕はないので、原稿書きのために調べたもの(古流柔術についてです)を膨らませることから始めたいと思います。

江戸幕府を開いた徳川家康の家臣に、合戦の度に目覚しい活躍をしたので、「またまた一番槍はあいつだ!」との意味から「又一」の名を賜った勇将がいました。
それが小栗忠政<おぐりただまさ>で、末流には幕末に日米修好通商条約批准交換の使節に従い渡米し、帰国後は外国奉行、勘定奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行などを歴任して時代の激流に翻弄される幕府の舵取りに活躍した小栗上野介忠順<こうずけのすけただまさ>が出ています。
幕末と言えば、綺羅星の如くヒーローたちが現れましたが、中でも人気の1、2位を争うのはやはり坂本龍馬直柔<なおなり>でしょう。
龍馬の学んだ剣術流派としては北辰一刀流が有名ですが、彼が少年時代から習い、その修行期間のほとんどを費やしたのは小栗流でした。その流祖が忠政の次男小栗仁右衛門正信です(信由<のぶよし>とも)。

正信は天正17(1589)年の生まれです。父同様家康に仕えて小姓となり、のち御膳番を勤めました。慶長19(1614)年から翌年にかけて起きた大坂の陣でも数々の武功を立てています。元和2(1616)年9月18日に忠政が亡くなると、その采地武蔵国足立郡のうち550石を分与されました。同郡大成村(埼玉県さいたま市大宮区大成町)にある大成山普門院は小栗家の菩提寺で、忠政以降12代の忠順に連なる本家、正信から始まる分家筋などの墓が整然と並んでいます。

 
   家康の関東入国当時は荒廃していた普門院を復興した小栗忠政一族の墓所

正信は家康の子で2代将軍の徳川秀忠にも仕えて小姓組番士となり、寛永10(1633)年2月7日には上総国長柄郡(千葉県)内に200石を加増され、750石を知行しました。
元主君の家康は剣術好きで知られていますが、その影響なのか正信も武術修行に熱心で、柳生石舟斎宗厳、あるいはその五男宗矩門下の出淵平兵衛<いずぶちへいべえ>盛次に師事します。出淵は越前福井藩主の松平忠昌に仕えて剣術師範を勤めた人物です。
長崎に出張した際に正信は、同門の駿河鷲之助<するがわしのすけ>と協力して組合・組討45ヶ条(甲冑伝<かっちゅうでん>、あるいは武者取りといいました)を創案し、元和2年に柳生家の許可を得て表裏72ヶ条をもって新流をたて、小栗流と称しました。刀術を表、和術(柔術)を裏とし、ほかに槍、抜刀、薙刀、小太刀、棒、縄、水馬、水泳、騎射と、なんでもござれの総合武術です。
翌年には秀忠の裁許を得て教授を始め、門弟数は延べ3,600余人にも達しました。元和9年には土佐3代藩主の山内忠豊に招かれて剣術を教えていますし、儒学者・兵学者の山鹿素行<やまがそこう>も門下の1人です。山鹿は自伝『配所残筆<はいしょざんぴつ>』に、正信から「鞠身之やわら(小栗流の通称)」を伝授され、奥義を受けたと記しています。「身鞠」とは、身体を鞠のように柔らかく、軽く、弾むような状態に保ち、どこから敵に襲われても転変自在に対応できるようにすることです。
正信は寛文元(1661)年6月6日に73歳で亡くなりました(天正10<1582>年生まれ、85歳没との説も)。


           小栗正信の墓(右)とそれに刻まれた墓碑銘(左)

小栗流は正信の門人で、山内家の臣である朝比奈丹左衛門可長<あさひなたんざえもんよしなが>によって土佐国(高知県)にもたらされました。坂本龍馬は城下の築屋敷<つきやしき>に道場を開いていた日根野弁治吉善の門弟です。龍馬は嘉永元(1848)年、14歳の時に入門し、同6(1853)年3月に19歳で小栗流和兵法事目録、翌安政元年閏7月に小栗流和兵法12ヶ条・同25ヶ条、さらに文久元(1861)年10月には小栗流和兵法3ヶ条を授けられています。この輝かしい履歴に対して、北辰一刀流では長刀兵法の免許目録状を伝授されているに過ぎません。そのことから考えても、やはり彼を代表する武術流儀は北辰一刀流ではなく小栗流だということができるでしょう。

【参考文献】
小美濃清明著『坂本龍馬・青春時代』新人物往来社、1998年
山鹿素行著・土田健次郎訳『聖教要録・配所残筆』講談社、2001年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年