尾張の地に制剛流を広めた梶原一族の墓所がある愛知県名古屋市の平和公園には、2世梶原源左衛門直景の孫弟子に当たる人物も葬られています。
その名は宮崎只右衛門重職。師匠である猪谷只四郎<いがいただしろう>和充は、直景の高弟で3世梶原源左衛門景明の後見を務めた猪谷忠蔵元和の子です。その門下となった重職は、技倆傑出し、その右に出る者がいなかったそうです。
元禄9(1696)年3月2日生まれ。尾張藩士で、本姓は野田です。字は子由。睡鴎<すいおう>、または両庵と号しました。宮崎岡右衛門重勝に養育されてその嗣子となり、享保5(1720)年5月に家を継いで、志水甲斐守の同心となっています。元文5(1740)年には8代藩主徳川宗勝<むねかつ>によって禄50石を加増され、200石取りとなりました。
重職は猪谷から制剛流ヤワラのほかに、静流薙刀術も学んでいます。さらに、上泉流抜刀術を野田善十郎憲勝に教わり、いずれも印可を得ました。それから彼は自流を起こし、制剛心照流と称しました。制剛流心照派、心照流ともいいます。
宮崎只右衛門重職(睡鴎)の墓碑
流派名の誕生には、ちょっと間の抜けた裏話があります。
それは、梶原直景の法名「心聡院」の文字を、重職が「心照院」と見間違えて流名にしたというものです。雲の上の存在である師匠の、さらにその師匠の法名を勘違いしたなどとはちょっと信じられませんし、周りの誰かが気づいて指摘しないわけはないだろうという気もしますが、他にもっと納得のいく命名の理由があるかといえば、残念ながらそれは伝わっておりません。
ちなみに心照流を開創したのは重職ではなく、同じ猪谷和充門下の服部半四郎忠胤だという説もあります。
重職には、前回の梶原景益の回にも登場した津金政巴がらみのエピソードがあります。
『尾陽武芸師家旧話』(作成年次未詳)に書かれている話ですが、重職が政巴と2人で狩りに行った時のことです。砂子で農民たちとの間に諍いが起こり、2、30人の敵を相手にしましたが、重職たちは腕にまかせて彼らを追い払ってしまったといいます。
ここで、津金政巴について少し触れておきましょう。
名ははじめ作之丞、瀬左衛門、中頃には覚左衛門といい、のちに理兵衛<りへえ>と改めました。尾張藩士津金十左衛門正則の長男で、元禄6(1693)年、3代藩主綱誠の時に家を継ぎ、10人扶持を給されました。渡辺半蔵に属する同心でした。享保3(1718)年11月、6代藩主継友の時に150石を賜っています。
重職の師である猪谷和充から制剛流居合術を、また野本次郎兵衛定信から浦部流居合術を学んで、藩内で両流の師範を勤めました。立合抜討の法を主としたので、抜討流と呼ばれました。前回、今回で紹介した逸話のほかに、関東者8、9人と口論になって取り囲まれ、仕込み槍で全員を討ち捨てるといった事件も起こしており、相当に血の気が多く、喧嘩っ早い人物だったようです。
話を、宮崎重職に戻します。
彼は武術ばかりでなく、文を学び、歌を詠じ、すこぶる詩が上手でした(それだけに、しつこいようですが、梶原直景の法名を間違えるなどといったミスを犯すとは、考えられないのですけど・・・)。寛延3(1750)年5月、55歳で致仕し、自作の詩1,000首余を集めて『両庵詩集』と名づけています。
15年間の余生を過ごしたのち、明和2(1765)年6月13日に70歳で亡くなります。常英山本要寺(名古屋市東区東桜2-17-38)に葬られました。法名は円海睡鴎です。
現在彼の墓は、冒頭で書いたように平和公園内の本要寺霊苑に移されています。
宮崎重職の墓がある、名古屋市の平和公園本要寺墓苑
【参考文献】
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
大森宣昌著『武術伝書の研究─近世武道史へのアプローチ』地人館、1991年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年
その名は宮崎只右衛門重職。師匠である猪谷只四郎<いがいただしろう>和充は、直景の高弟で3世梶原源左衛門景明の後見を務めた猪谷忠蔵元和の子です。その門下となった重職は、技倆傑出し、その右に出る者がいなかったそうです。
元禄9(1696)年3月2日生まれ。尾張藩士で、本姓は野田です。字は子由。睡鴎<すいおう>、または両庵と号しました。宮崎岡右衛門重勝に養育されてその嗣子となり、享保5(1720)年5月に家を継いで、志水甲斐守の同心となっています。元文5(1740)年には8代藩主徳川宗勝<むねかつ>によって禄50石を加増され、200石取りとなりました。
重職は猪谷から制剛流ヤワラのほかに、静流薙刀術も学んでいます。さらに、上泉流抜刀術を野田善十郎憲勝に教わり、いずれも印可を得ました。それから彼は自流を起こし、制剛心照流と称しました。制剛流心照派、心照流ともいいます。
宮崎只右衛門重職(睡鴎)の墓碑
流派名の誕生には、ちょっと間の抜けた裏話があります。
それは、梶原直景の法名「心聡院」の文字を、重職が「心照院」と見間違えて流名にしたというものです。雲の上の存在である師匠の、さらにその師匠の法名を勘違いしたなどとはちょっと信じられませんし、周りの誰かが気づいて指摘しないわけはないだろうという気もしますが、他にもっと納得のいく命名の理由があるかといえば、残念ながらそれは伝わっておりません。
ちなみに心照流を開創したのは重職ではなく、同じ猪谷和充門下の服部半四郎忠胤だという説もあります。
重職には、前回の梶原景益の回にも登場した津金政巴がらみのエピソードがあります。
『尾陽武芸師家旧話』(作成年次未詳)に書かれている話ですが、重職が政巴と2人で狩りに行った時のことです。砂子で農民たちとの間に諍いが起こり、2、30人の敵を相手にしましたが、重職たちは腕にまかせて彼らを追い払ってしまったといいます。
ここで、津金政巴について少し触れておきましょう。
名ははじめ作之丞、瀬左衛門、中頃には覚左衛門といい、のちに理兵衛<りへえ>と改めました。尾張藩士津金十左衛門正則の長男で、元禄6(1693)年、3代藩主綱誠の時に家を継ぎ、10人扶持を給されました。渡辺半蔵に属する同心でした。享保3(1718)年11月、6代藩主継友の時に150石を賜っています。
重職の師である猪谷和充から制剛流居合術を、また野本次郎兵衛定信から浦部流居合術を学んで、藩内で両流の師範を勤めました。立合抜討の法を主としたので、抜討流と呼ばれました。前回、今回で紹介した逸話のほかに、関東者8、9人と口論になって取り囲まれ、仕込み槍で全員を討ち捨てるといった事件も起こしており、相当に血の気が多く、喧嘩っ早い人物だったようです。
話を、宮崎重職に戻します。
彼は武術ばかりでなく、文を学び、歌を詠じ、すこぶる詩が上手でした(それだけに、しつこいようですが、梶原直景の法名を間違えるなどといったミスを犯すとは、考えられないのですけど・・・)。寛延3(1750)年5月、55歳で致仕し、自作の詩1,000首余を集めて『両庵詩集』と名づけています。
15年間の余生を過ごしたのち、明和2(1765)年6月13日に70歳で亡くなります。常英山本要寺(名古屋市東区東桜2-17-38)に葬られました。法名は円海睡鴎です。
現在彼の墓は、冒頭で書いたように平和公園内の本要寺霊苑に移されています。
宮崎重職の墓がある、名古屋市の平和公園本要寺墓苑
【参考文献】
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
大森宣昌著『武術伝書の研究─近世武道史へのアプローチ』地人館、1991年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年