ひろむしの知りたがり日記

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新選組原点の地、天然理心流「試衛館」跡

2012年12月23日 | 日記
江戸三代道場と並んで有名な幕末の剣術道場といえば、新選組局長近藤勇<いさみ>を道場主とする天然理心流の試衛館<しえいかん>でしょう。
天然理心流の創始者は、遠江国(静岡県)出身の近藤内蔵之助<くらのすけ>です。寛政(1789-1801)の頃のことでした。天保10(1839)年、現在の東京都新宿区市谷柳町にあった市ヶ谷甲良<こうら>屋敷の西門前に試衛館を開設したのは、3代目の近藤周助です。彼は武蔵国多摩郡上石原<かみいしわら>村(東京都調布市上石原)の豪農宮川久次郎<みやがわきゅうじろう>の3男勝五郎<かつごろう>を見込んで養子にしました。この勝五郎が、天然理心流4代目近藤勇です。

↓市谷柳町にある「試衛館」跡の標柱 
←近くの「市谷甲良町」町名プレート

勇は口が大きく眉の迫ったいかつい顔つきをしていましたが、いつもニコニコしている上に両頬に大きなエクボができるので、もの優しい感じがしました。なかなかチャーミングな人物だったようです。剣術の技はたいしたことなかったともいわれますが、度胸がすわっているのには誰もが一目置いていたそうです。
たいしたことないと言っても、道場主を張るくらいですから相応の腕はあります。道場へ出て立ち合う時は、決まって身体を少しそり加減にし、腹をぐっと出した構えを取りました。こせこせせず、小技を弄さない、がっしりと手堅い剣法でした。うまく小手に入ると、たいていの相手はたまらず竹刀を取り落としてしまいました。
また勇は、日頃話す時にはごく細く低い声でしたが、いざ立ち合いとなるとその掛け声は甲高く鋭いもので、相手の腹にビンビンと響きました。後のことですが、元治元(1864)年6月5日に新選組が志士たちの集まる池田屋に斬り込んだ際に、時折聞こえる勇の「えい、おう」という凄まじい声に、隊士たちは百万の味方を得たように勇気がわいたといいます。小手先の技ではなく、気合で相手を圧倒して勝つ、そんな勇の剣術スタイルが窺えます。彼の稽古着の背中には髑髏<どくろ>の刺繍が縫い込まれていました。常に死を意識して修行を重ねるという覚悟を表わすものだったそうです。

試衛館には毎日3、40人が稽古に来ました。その中には土方歳三<ひじかたとしぞう>や沖田総司<そうじ>、井上源三郎<げんざぶろう>もいました。また門弟以外に仙台藩を脱藩した北辰一刀流の山南敬助<やまなみけいすけ>、同じく北辰一刀流藤堂平助、伊予松山脱藩の宝蔵院流原田左之助<さのすけ>、松前脱藩の神道無念流永倉新八<ながくらしんぱち>ら、新選組の中核となるメンバーが食客としてたむろしていました。
江戸の道場で教えるほか、多摩への出稽古も行っていました。道場のある豪農の家をめぐり、近在の農民を集めて指導するのですが、勇の代わりに沖田総司が行くこともありました。沖田は教え方が乱暴で短気だったので、門弟たちは勇よりもずっと恐がったそうです。稽古が終わると、道場のある家の主人が門弟たちと頼山陽<らいさんよう>の『日本外史』や『日本政記』などを読み合わせ、解説して聞かせたりもしました。
武士ならばいざ知らず、農民の身でありながら文武両面の修練を怠りなくやっていたわけで、なかなか奇特なことではありますが、本当に楽しいのはその後だったかもしれません。タクアンを肴<さかな>に酒を飲みながら、時事問題を語り合う場が設けられたのです。世の中が攘夷だ、佐幕だと騒がしい折、議論はさぞかし白熱し、盛り上がったことでしょう。やれ練習だ、勉強会だといっては集まり、その実もっとも楽しみなのはその後の飲み会だったりする今日のわたしたちの心情と、相通じるものがあったのかもしれません。

さて、町道場の主としての近藤勇の平穏な暮らしに終焉の時がやって来ました。文久3(1863)年、将軍徳川家茂<いえもち>の上洛にあたり列外警護要員として幕府が行った浪士募集に応じ、試衛館有志の面々も先発隊として西上することになったのです。長年磨き上げてきた剣の腕を役立てる時が来たと、近藤たちは文字通り勇み立ったことでしょう。
都営大江戸線の牛込柳町<うしごめやなぎちょう>駅東口を出て、大久保通りを牛込神楽坂駅方面に向かうと、市谷柳町交差点を越えたすぐ右手に柳町病院(市谷柳町25)があります。病院の裏手には、そのあたりに試衛館があったことを示す標柱が立っています。道場そのものはもう跡形もありませんが、標柱のそばに鎮座する稲荷神社は、約350年もの歴史を持っています。
京へ出立する前に、もしかしたら近藤や土方たちがこの小さなお社の前で手を合わせたかもしれないと思うと、なんとも感慨深いものがありますね。


↑「試衛館」跡の標柱(写真右側)のそばに建つ稲荷神社(同左)


【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第6巻、吉川弘文館、1985年
NHK歴史発見取材班編『歴史発見』第14巻、角川書店、1994年
戸部新十郎著『剣は語る』青春出版社、1998年
清水克悦著『多摩「新選組」の小道』けやき出版、2003年 
菊地明著『近藤勇』ナツメ社、2003年

壮絶!不屈の剣士 伊庭八郎 ─ 浄土宗貞源寺

2012年12月16日 | 日記
これまで日記に何度も登場してきた江戸三大道場に、心形刀流<しんぎょうとうりゅう>練武館を加えて江戸四大道場と称します。天保14(1843)年(翌弘化元年説もあります)、心形刀流8代伊庭軍兵衛秀業<ぐんべえひでなり>の子として下谷御徒町<おかちまち>で生まれたのが、幕末ファンの間では土方歳三と並んで人気が高い伊庭八郎秀穎<ひでさと>です。眉目秀麗、色白で、背は5尺2寸(約158センチ)と小柄でしたが美貌の剣士として知られ、「伊庭の小天狗<こてんぐ>」と呼ばれました。剣だけではなく、漢学や蘭学など、学問の素養もありました。
スポーツ選手で勉強ができて、しかも美男ときているのですから、学校にこんなヤツ(おっと失礼!)がいたらモテないわけがありません。唯一の欠点といえば背が低いことくらいですが、なにか一つくらい弱みがあったほうが、女性は母性本能をくすぐられるのかもしれません。


心形刀流宗家伊庭一族の墓がある貞源寺本堂

安政5(1858)年8月13日、15歳の時に父がコレラのため49歳で病没してしまいますが、若年だったので9代目は父の門弟が継いで、軍兵衛秀俊<ひでとし>と名乗りました。八郎は10代目を継ぐことになっていましたが、幕末維新の動乱が、そんな彼の平穏な人生設計を狂わせることになります。
安政3年、幕臣に武術を指導する講武所が創設されると教授方を務め、元治元(1864)年からは将軍の親衛隊である奥詰<おくづめ>に任命されました。慶応2(1866)年に奥詰と講武所詰の者が遊撃隊として編成されると、そのまま遊撃隊士となります。

慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗れ、八郎も江戸に帰りますが、同年4月、遊撃隊の一部を率いて海路、上総国木更津に上陸、請西<じょうざい>藩主林忠崇<ただたか>を説いて、ともに館山から出帆して対岸の相模国真鶴<まなずる>に上陸します。転戦を重ねて沼津に至り、一時は小田原藩兵から箱根の関所を奪い取りました。しかし、やがて江戸に向かう新政府軍とも激突し、5月に湯本三枚橋で重傷を負います。左手首を皮一枚残して斬られながら、右腕一本で獅子奮迅の働きをしましたが、善戦むなしく敗退を余儀なくされました。戦闘後には、左手の肘から下を麻酔なしで切断するという手術を受けましたが、うめき声一つあげなかったそうです。

再び江戸に戻った八郎は彰義隊に入りますが、その滅亡後、陸奥国に渡って奥羽同盟に加わりました。仙台藩の恭順後、8月に榎本武揚<えのもとたけあき>率いる幕府艦隊が出航することを知り、同行を決意します。ところが、八郎の乗艦は銚子<ちょうし>沖で座礁してしまい、彼は横浜に身を隠しました。
それだけの目にあっても、八郎の闘志はまだ消えませんでした。その年の11月、彼は英国船に乗り込んで箱館へ、28日に上陸を果たし、蝦夷共和国に参加しました。この時の路銀を用立てたのが、吉原で馴染みの花魁<おいらん>だったそうですから、こんな悲壮な場面でも艶めいた話が飛び出すあたり、「さすが伊庭さん!」と感心してしまいます。

翌年4月、新政府軍の進攻が開始されました。八郎は不自由な体でよく戦いましたが、木古内<きこない>において大砲の至近弾に跳ね飛ばされ、またもや重傷を負ってしまいます。五稜郭<ごりょうかく>内の病院に運ばれましたがもはや回復不能で、5月12日、見かねた榎本が勧めるモルヒネを飲んで、眠るように息を引き取ったといいます。八郎の死因については自殺ではなく、榎本軍に従軍していた医師の高松凌雲<りょううん>による治療のかいもなく、傷の癒えぬままついに力尽きて絶命したのだとの説もあります。激戦による混乱の中、渦中の人々の記憶や記録が曖昧だったのかもしれません。


心形刀流宗家、初代から10代までの墓が並ぶ伊庭一族の墓

伊庭八郎の墓は、東京の貞源寺<ていげんじ>(中野区沼袋2-19-18)にあります。墓地の入り口左手に、心形刀流宗家である伊庭家の墓10基が、横一列に整然と並んでいます。もとは墓地中にあったものを、平成19(2007)年の境内墓地整備に当たって現在位置に移設されました。左端が、初代伊庭是水軒<ぜすいけん>、右端が最後の10代伊庭想太郎<そうたろう>の墓碑です。想太郎は八郎の弟ですが、剣客としてよりも明治34(1901)年に東京市会議長の星亨<ほしとおる>を刺殺した人物としての方が有名かもしれません。
想太郎の左隣が八郎のものです。同じ墓碑に父秀業の後妻、つまり母の法名や没年と並んで、「秀業次男 秀俊養子」とある下に八郎の俗名、その横に法名の「秀穎院清誉是一居士」が刻まれています。八郎の命日には16日など他説もあって、これまた定かではありませんが、墓碑には「明治五年巳巳 五月十二日」とあります。天保14年誕生説に従えば、享年27でした。

勇猛さばかりでなく、風流を解する心もあわせ持っていた八郎は、折りに触れてよく句を詠んでいますが、「まてよ君迷途も友と思ひしにしばしをくるる身こそつらけれ」という辞世の句を遺しています。


左写真の左側から伊庭八郎・想太郎兄弟の墓。右写真の左側が伊庭八郎の墓碑銘


【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第1巻、吉川弘文館、1979年
戸部新十郎著『日本剣豪譚 幕末編』光文社、1993年
笹間良彦著『日本武道辞典《普及版》』柏書房、2003年
菊地明著『幕末百人一首』学習研究社、2007年
山内昌之著『幕末維新に学ぶ現在』中央公論新社、2010年

小五郎と龍馬、強いのはどっち? 神道無念流練兵館武勇伝 ─ 靖国神社

2012年12月09日 | 日記
幕末から明治にかけて活躍した久留米の剣客松崎浪四郎<なみしろう>が安政2(1855)年頃、江戸の三大道場を訪ねて立ち合い、「千葉の技は天下一品。斎藤の力倆は群を抜いており、桃井の剣筋と位は他に類を見ない」と評しました。対戦相手は北辰一刀流玄武館の千葉栄次郎(周作の二男)、神道無念流練兵館の斎藤新太郎、鏡新明智流士学館の桃井春蔵直正で、「技は千葉、力は斎藤、位は桃井」というフレーズはここから来ています。
「力の斎藤」こと斎藤新太郎の父弥九郎善道<よしみち>は、文政3(1820)年8月25日に恩師岡田十松吉利が亡くなった後、嗣子の十松利貞<としさだ>を補佐して吉利が遺した剣術道場撃剣館の経営に当たっていましたが、6年後の文政9年春(文政12年説もあります)、同門の江川太郎左衛門英龍らの援助で独立し、九段坂下俎板橋の畔に練兵館を起こしました。
練兵館は単なる剣術道場ではありません。国家危難の際に役立つ文武兼ね備えた有為の士を育成することを目的とし、長沼流兵学と経書も教えていました。長沼流は「練兵」すなわち兵士の訓練を重視する兵法です。「和魂洋芸」を提唱した弥九郎は後年、門人に西洋流の銃陣も教授しています。
天保9(1838)年3月に火事で道場は類焼し、再度江川らの援助で九段坂上の麹町三番町(現在は靖国神社境内になっています)に移転し、再建に力を尽くしました。その結果しだいに剣名も高まり、水戸藩主徳川斉昭<なりあき>に目をかけられて合力扶持米を給されるようになりました。天保12年には弘道館の落成式に招かれて、百合元昇三<ゆりもとしょうぞう>ら門人を率いて撃剣指南をするという栄誉に預かります。

靖国神社境内

弥九郎の長男新太郎(2代目弥九郎龍善)、三男の歓之助はともに剣の資質に恵まれていました。新太郎が門人を引き連れて廻国修行をしていた時のことです。嘉永元(1848)年3月、彼は長州藩萩城下の藩校明倫館へ乗り込み、藩士たちを散々に打ち破りました。新太郎だか百合元昇三だかが「明倫館の建物は立派だが、真の剣士はいない。まるで黄金の鳥籠で雀を飼っているようなものだ」と言ったのを聞き、激怒した藩士たち14人が江戸の練兵館へ押しかけました。ところが腕に覚えのある長州藩の猛者たちが、留守を預かっていた弱冠17歳の「鬼歓」こと歓之助にことごとく敗れ去ってしまいます。驚嘆した彼らは新太郎を明倫館に招いて師と仰ぎ、以来、長州藩と練兵館のつながりが深くなったそうです。
そのほかにも全国から入門者が集まり、その数は3,000人を超すといわれました。長州藩の桂小五郎(木戸孝允)や、肥前大村藩の渡辺昇<のぼり>らが塾頭を務めました。

桂小五郎と、千葉周作の弟定吉門下の坂本龍馬が試合をしたというドリーム・マッチの話があります。
安政5(1858)年10月25日、士学館で大会が開かれました。世話役は龍馬の親戚筋に当たり、互いにあだ名の「あざ」「あご」で呼び合う間柄だった武市半平太(瑞山)です。斎藤道場からは弥九郎が小五郎、仏生寺弥助を同道して来場し、千葉門からは栄次郎、海保帆平<かいほはんぺい>、龍馬が参加しました。
この日の小五郎は好調で、5人抜き勝負のうち4人を倒し、最後の5人目で龍馬と対戦します。当時の試合は十本勝負でしたが、5対5となった後、決勝の一本を龍馬が取りました。小五郎が得意の上段から打ち込もうとしたところ、龍馬が先手を取って双手突きを決めたのです。この名勝負に、見物人たちの割れんばかりの歓声が沸き起こったといいます。

残念ながら、この痛快なエピソードは創作だという説が有力です。龍馬は1ヵ月ほど前に土佐へ帰っており、小五郎もこの10月には帰国の途についていました。さらに半平太も前年9月に帰国しているといった具合でメインキャストがことごとく不在だったからです。
ただ、後に西郷隆盛とともに薩長同盟の大業を成し遂げた両者の間に、こんなドラマがあったら素敵だろうなと思って紹介させていただきました。

練兵館は明治2(1869)年に招魂社(後の靖国神社)建設のため牛込見附<うしごめみつけ>内に移りました。靖国神社(東京都千代田区九段北3-1-1)の南門を入ってすぐ左手に、平成9(1997)年3月に千代田区観光協会が立てた「神道無念流練兵館跡」の碑があります。


桂小五郎や高杉晋作、品川弥二郎ら若き長州藩士たちが剣や兵学を学んだ練兵館跡

平成9年に立てられた「神道無念流練兵館跡」碑


【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第6巻、吉川弘文館、1985年
日本歴史大辞典編集委員会編『普及新版日本歴史大辞典』第5巻、河出書房新社、1985年
戸部新十郎著『日本剣豪譚 幕末編』光文社、1993年
中村民雄著『剣道事典 技術と文化の歴史』島津書房、1994年
間島勲著『全国諸藩 剣豪人名事典』新人物往来社、1996年
木村紀八郎著『剣客斎藤弥九郎伝』鳥影社、2001年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年

お台場と剣豪斎藤弥九郎の意外な関係 ─ 都立台場公園

2012年12月03日 | 日記
レインボーブリッジが架かる東京湾内に、幕末に築造された海上砲台の跡があります。
いわゆる「お台場」で、嘉永6(1853)年6月にアメリカのペリー艦隊が最初に浦賀に来航した後、その再来に備えて幕府が海防強化のために設けたものです。
正式には「品川台場」といいます。伊豆韮山<いずにらやま>代官で砲術家の江川太郎左衛門英龍<ひでたつ>の献策により、内海防備の充実を目的として南品川猟師町から東北の深川洲崎<すざき>(江東区東陽)間の海中に、連珠のように11基の台場を並べようというのです。ペリーが去って2ヵ月後の8月21日から台場の建設が開始されました。太郎左衛門は計画設計と備砲の製作を担当しました。

「お台場」遠望

話は変わりますが、太郎左衛門は岡田十松吉利<じゅうまつよしとし>の剣術道場撃剣館で神道無念流を学んでいます。2年で免許皆伝を受け、撃剣館四天王の一人に数えられていますから、剣の腕は相当なものでした。同門には水戸藩の藤田東湖、三河田原藩の渡辺崋山<かざん>、蘭学者の高野長英らそうそうたる面々がいました。その一人で、直接太郎左衛門の指導に当たったのが斎藤弥九郎善道です。

斎藤弥九郎と言えば、千葉周作の玄武館、桃井春蔵<もものいしゅんぞう>の士学館と共に江戸三大道場と並び称された練兵館の主です。二人の絆は強く、文政9(1826)年に弥九郎が九段下俎板橋<まないたばし>に練兵館を開いた時には太郎左衛門が援助しています。天保6(1835)年に太郎左衛門が伊豆韮山の代官職に就くと、弥九郎は請われてその手代となりました。品川台場の建設の際には工事が始まった当初、弥九郎は太郎左衛門から湯島馬場大筒鋳立場の大筒鋳造御用掛を命じられています。太郎左衛門が工事を指揮し、弥九郎が現場監督を務め、弟子で長州藩士の桂小五郎(後の木戸孝允<たかよし>)が弁当持ちの従僕として現場に日参したという話もありますが、それはどうも違っているようです。
桂にはこんなエピソードがあります。台場建設に当たって太郎左衛門と弥九郎が海上視察に出た時、志願して舟を漕いだのが桂でした。ところ彼のミスで舟が転覆し、一同は海の中へ落ちてしまいます。桂は後に練兵館の塾頭にまでなりますが、こんな間抜けな出来事もあったのかと考えると、少し楽しい気がします。

台場築造には山を削り、海を埋めて大砲を据える人工島を造るという方法がとられました。工事は昼夜兼行で行われ、関東各地から集められた材木や石材、土砂を運ぶ船は2,000隻、土方・石工などは5,000人、築造経費は備砲を除く台場構築費だけで75万両に及びました。
着工から8ヵ月後の安政元(1854)年4月、第一から第三台場までが完成します。第五・第六は1月着手、11月に完成しました。しかし第四と第七は財政難などの理由から5月に前者は七分、後者は三分程度の進行状態で中止、第八以下は着手すらされませんでした。そして台場完成前の同年1月にペリーが再来し、3月には日米和親条約が締結されて日本は開国への道を歩み始めたので、結局これらの台場が実戦に使用されることはなかったのです。

明治になって陸軍省の管轄に入りますが、昭和元(1926)年12月20日に国史跡に指定された第三・第六台場を残し、他は埋め立てられたり、撤去されて姿を消します。
史跡として整備されているのは東京臨海新交通ゆりかもめのお台場海浜公園駅から徒歩12分にある亀甲型をした第三台場です。関東大震災で被害を受けましたが修復され、昭和3年7月7日に台場公園(東京都港区台場1-10-1)として開放されました。


台場公園として開放されている第三台場

第三台場は昭和43(1968)年の有明埠頭完成により、堤防で陸続きとなりました。面積約29,963.4平方メートル、周りを高さ5~7メートルの石垣で囲み、その上に土手が築かれています。36ポンド砲が配置されていた砲台跡がある土手の内側は5メートルの深さで掘りくぼめられており、弾薬庫やかまど、陣屋などの跡を見ることができます。


台場公園内の砲台(上左)、弾薬庫(上右)、かまど(下左)、陣屋(下右)の跡


第三台場からレインボーブリッジの方を眺めると、もう一つ残されている第六台場(港区台場1-11)が見えます。イロハモミジ、クロマツ、ケヤキ、オオシマザクラなど多種多様な植物や野鳥の宝庫で、学術的にも貴重な場所です。そこで、保全のために立入禁止となっています。


豊かな自然に恵まれた第六台場


【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第6巻他、吉川弘文館、1985年他
仲田正之著『江川坦庵』吉川弘文館、1985年
戸部新十郎著『日本剣豪譚 幕末編』光文社、1993年
木村紀八郎著『剣客斎藤弥九郎伝』鳥影社、2001年
是本信義著『時代劇・剣術のことが語れる本』明日香出版社、2003年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
加来耕三著『評伝 江川太郎左衛門』時事通信社、2009年