ひろむしの知りたがり日記

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江戸の町を震撼させた薩摩御用盗 ─ 泉谷山大円寺

2012年10月08日 | 日記
西郷隆盛の密命を受けて、薩摩の益満休之助<ますみつきゅうのすけ>や伊牟田尚平<いむたしょうへい>、下総郷士の相楽総三<さがらそうぞう>らが三田の薩摩藩上屋敷に入ったのは、慶應3(1867)年10月のことでした(相楽については、それ以前からという説もあります)。彼らは京都で西郷から江戸と関東各地を攪乱するよう指令されていました。15代将軍徳川慶喜が大政奉還したことで、武力倒幕計画の大義名分を失った薩摩は、幕府側を挑発することによって相手から戦端を開かせようと画策していたのです。
関東各地の尊攘派に顔が広かった相楽が檄を飛ばして浪士たちを募ったところ、なんと500人ほども集まりました。中には高い志を持つ者もいましたが、ゴロツキや博奕打ちも混じっており、まさに玉石混交の集団でした。彼らは屋敷内の糾合所と呼ばれる学校の建物を屯所にしていたので、「糾合所屯集隊」とも呼ばれていました。浪士集めの表向きの目的は、薩摩から13代将軍家定<いえさだ>に嫁ぎ、今は未亡人となっている天璋院<てんしょういん>(篤姫<あつひめ>)の護衛のためということでした。

集められた浪士たちの一部は、出流山<いずるさん>(栃木県)など関東各地で挙兵しましたが、これらはたいした成果を上げることもなく鎮圧されてしまいました。もっとも幕府側を刺激して戦う気にさせるのが目的なので、勝ち負けは二の次だったようです。
その一方で、江戸にいる浪士たちが勤皇活動費にするためだと称して豪商の店に押し入り強盗を働き、さらには辻斬り、放火と暴れまわったので、江戸の治安は極度に悪化してしまいました。彼らは薩摩御用盗<ごようとう>と呼ばれて恐れられました。ただし彼らにも一応のルールはあって、襲撃の対象は幕府を助ける御用商人や、浪士の活動を妨害する警察組織、貿易商人などに限られていました。身勝手な理屈ではありますが、彼らには尊攘運動の讐敵<しゅうてき>を誅戮<ちゅうりく>するという大義名分があったのです。

幕府の命により江戸市中の警備にあたっていた庄内藩は、浪士たちの本拠が薩摩藩上屋敷だということに気づいてはいましたが、確たる証拠をつかめずにいました。さらに幕府内でも小栗忠順<ただまさ>が強硬な浪士退治を唱えれば、勝海舟が時期尚早であると反対するといった具合に意見が分かれていました。しかし、浪士たちの挑発はどんどんエスカレートしてゆき、12月23日夜、三田の庄内藩屯所への発砲事件が起こります。その同じ日に江戸城二ノ丸が炎上し、伊牟田の仕業だと噂されました。ついに堪りかねた幕府側は、薩摩藩上屋敷の浪士処分を決しました。討伐を命じられたのは、庄内藩を主力とした上ノ山<かみのやま>・鯖江<さばえ>・岩槻<いわつき>藩の軍勢で、25日未明、薩摩屋敷と隣接する支藩の佐土原<さどわら>藩邸を取り囲んだのです。フランス式の訓練を受けた幕府兵や諸藩の軍勢も協力していました。

庄内藩の安部藤蔵<とうぞう>が薩摩屋敷に出向き、留守居役の篠崎彦十郎に浪士たちを引き渡すよう掛け合いました。しかし薩摩側はそれに応じず交渉は決裂、怒って去ろうとする安部を、篠崎が追いかけました。そして篠崎が通用門から顔を出した途端、胸のあたりを槍で突かれ、殺されてしまいました。これが引き金となり、待機していた庄内藩兵たちは屋敷に激しい砲撃を加えた後、斬り込んだのです。
攻め手の人数が2千名あまりだったのに対して、当時、屋敷にいたのは約200名といわれています。いくら勇猛な薩摩隼人でも、10分の1の戦力では敵うわけもなく、約50名が犠牲となりました。
薩摩側犠牲者の遺骸は、無残にもしばらく放置されていましたが、後に遺骸の多くが屋敷に近い伊皿子<いさらご>(東京都港区三田)にあった大円寺に埋葬されました。


薩摩藩邸焼打ち事件の犠牲者たちの墓がある大円寺山門

泉谷山大円(圓)寺は、江戸における薩摩藩島津家の菩提寺のひとつです。
明治41(1908)年10月に現在地(杉並区和泉3-52-18)に移転して来ました。京王井の頭線永福町駅前から北東にのびる松ノ木通りを10分ほど歩いた右手にあります。
墓地の一角には、薩摩出身で総理大臣も務めた松方正義の書で「戊辰薩摩藩戦死者墓」と刻まれた巨大な墓碑が立っています。裏に「大正四年乙卯十一月合葬」と彫られたその墓碑を中心に、維新前後に亡くなった薩摩藩や佐土原藩関係者の大小さまざまな墓碑が整然と並んでおり、その中には焼打ち事件の犠牲者のものも含まれています。


大円寺の墓地にある戊辰薩摩藩戦死者墓

事件の知らせが慶喜のいる大坂城に届くと、城内では「薩摩討つべし」という主戦論が一気に盛り上がりました。それまで武力闘争だけは回避したいと考えていた慶喜も、もはやそれを抑えることができず、明くる慶應4(1868)年元旦、「討薩の表」を発したのです。その内容は、前年12月9日の王政復古のクーデター以来起こっている事態は朝廷の真意ではなく、全て薩摩の奸臣たちの陰謀によるものであると述べ、その者たちの身柄引き渡しを求め、そしてもしそれが受け入れられない場合には、やむを得ず誅戮を加えるというものでした。それに薩摩の罪状書をそえ、諸藩に対して出兵を命じました。その翌日には、早くも老中格大河内正質<おおこうちまさただ>を総督として、1万5千の幕府軍が京を目指して大坂城から出陣しました。

こうして薩摩の幕府側に対する挑発作戦は見事に成功し、1月3日夕刻、ついに鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切って落とされたのです。



【参考文献】
中村哲著『日本の歴史16 明治維新』集英社、1992年
NHK取材班編『堂々日本史3』KTC中央出版、1997年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
野口武彦著『江戸は燃えているか』文藝春秋、2006年
安藤優一郎著『幕末維新 消された歴史』日本経済新聞出版社、2009年

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