ひろむしの知りたがり日記

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ブルース・リーのドラゴン拳法(8) ─ GAME OF DEATH

2014年01月26日 | 日記
1973年、「ドラゴンへの道」を撮り終えた後ブルース・リーは、少し休養をとって、それから次回作「死亡遊戯」に取りかかる予定でした。ところがその時、弟子でNBAのトップ・プレイヤーだったカリーム・アブドール・ジャバーが香港を訪れたのです。そこでブルースは、格闘シーンを一緒に撮ろうと彼を誘います。身長1メートル63センチ~72センチだったというブルースが、2メートル18センチの巨人カリーム(身長差46~55センチ!)と闘うのは、これ以上ないおもしろい見ものになるだろうと考えたからです。2人は1週間を共にし、練習から始めてあの名シーンを撮影しました。アクションに説得力を持たせるために、ブルースが300回近くも練習を繰り返した蹴りもあったそうです。
「死亡遊戯」のクライマックス・シーンは、塔<パゴダ>の内部が舞台です。各階でブルースは武術の達人たちと闘うのですが、そのフィナーレを飾るのが、カリームとの対決でした。

 
   「死亡遊戯」の特別鑑賞券。未完に終った作品の思わぬ公開に、ファンは胸を踊らせました

ブルースはまた、アメリカ時代に第1回インターナショナル・カラテ・チャンピオン・シップで出会い、その後熱心な弟子となったフィリピン系アメリカ人のダン・イノサントを香港に呼び寄せます。この時のことをダンは後に、「映画の撮影はどうでもよかったんですよ。私は、ブルースと会って練習できることがうれしくて、ブルースと練習するために香港に行ったんです」と言っています(『ブルース・リー最後の真実』)。
「死亡遊戯」では、最初ブルースがバオ(バンブースティック。細長い竹の棒)、ダンがアーニスまたはエスクリマと呼ばれるフィリピンの伝統武術で使う2本のバストン(短棒)を使って闘い、次にはお互いにヌンチャクを取って、見事な技の応酬を披露しました。ちなみにブルースにヌンチャクを紹介したのはダンで、ブルースはこれをやすやすとマスターしたといいます。
次いで、韓国の合気道<ハブキドー>7段のチー・ハンサイ(池漢載)との闘いも撮影されました。あまりに過酷な撮影に、チーは金輪際ブルースとは映画に出たくないとコメントしています。

こうして、まず格闘シーンだけが撮影されました。そして、それ以外のシーンを撮影しようとしていた矢先、ワーナー・ブラザースと共同制作する「燃えよドラゴン」の話が決まり、「死亡遊戯」は一旦中断されます。その後、ブルースが急死してしまったために、レイモンド・チョウは彼と打ち合わせをした時のアイデアを生かし、新しい「死亡遊戯」を作ろうと試みます。
レイモンドは「燃えよドラゴン」を監督したロバート・クローズを起用し、武術指導にはサモ・ハン・キンポーを使いました。サモは敵の手下カール・ミラーを演じたロバート・ウォール(彼もブルースの弟子です)と試合をする武術家役で、役者として出演もしています。2人は「燃えよドラゴン」で、ブルースにやられた者同士でした。


「ブルース・リー 死亡遊戯」のパンフレッド。今度こそ最後だと思いきや、この作品の後にはなんと「燃えよドラゴン」の未公開シーンを使った「死亡の塔」が作られ、ファンは2度ビックリさせられます

ストーリーをざっくりと言うと、映画スターのビリー・ロー(ブルース)が、芸能界を食い物にする犯罪シンジケートに戦いを挑むというものです。オープニングでは、撮影現場ということで、いきなり「ドラゴンへの道」のチャック・ノリスとの格闘シーンを用いてしのぎ、その後はユン・ピョウらを代役に立てて話が進行します。アップの場面では、他のブルース主演作のフィルムを援用したり、顔だけ切り抜いたものを合成したり、さらには殺されたと偽って身を隠す必要があるというシチュエーションを作って変装させたり(ここでは、なんとブルースの本当の葬式の映像が使われています!)と、涙ぐましい(?)工夫でなんとか切り抜け、生前にブルースが撮影していたクライマックス・シーンへと繋ぎます。そしてラストでは、ビリーが敵のボスであるドクター・ランド(ディーン・ジャガー)が最上階で待ち受ける中華料理店のビルに乗り込み、ハキム(カリーム)ら凄腕の用心棒たちと、激しい死闘を繰り広げるのです。

こうして完成した「ブルース・リー 死亡遊戯」(GAME OF DEATH)は、1978年3月23日に香港、4月15日に日本で公開されました。ブルースの遺作ということでかなりの興行収入を上げましたが、天国の彼には目を覆いたくなるような出来ばえのものだったでしょう。
しかし、敵の本拠地に侵入した主人公が最初の相手と戦うために階段を昇りきったところで代役からブルース本人に入れ替わると、一瞬にしてスクリーンにピーンと緊張感が漲り、魔法のようにガラリとムードが変化します。そして、決して誰も真似することのできないブルースの発するオーラを、まざまざと感じるのです。
図らずも、この映画で改めて彼の偉大さを再認識させられました。その意味で「ブルース・リー 死亡遊戯」は決して忘れることのできない、印象的な作品となりました。

【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE:Fighting Spirit』PARCO、1998年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年

ブルース・リーのドラゴン拳法(7) ─ THE WAY OF THE DRAGON

2014年01月19日 | 日記
「ドラゴン危機一発」「ドラゴン怒りの鉄拳」と立て続けにヒットを飛ばしたブルース・リーに、かつて1本2,000ドルという低額の出演料で契約しようとしたショウ・ブラザースが、今度は20万ドルを提示してきました。ブルースがそれを拒否すると、次はなんと金額未記入の白紙小切手を渡したのです。ほかにも彼と契約を結ぶことを望む相手はたくさんありましたが、それらを蹴って、レイモンド・チョウに対して共同経営者となることを提案します。ブルースは自分の思うように映画が作りたかったのです。妻のリンダはブルースが、「中国映画には『魂』がない。流れ作業みたいに製作されるんだ。これは僕のやりたいことではないんだ」と語ったと回想しています(リンダ・リー「『ドラゴンへの道』ができるまで」『伝説のブルース・リー』所収)。

こうしてコンコルド・プロダクションが設立され、レイモンドは最初の作品として、3度ロー・ウェイを使った「黄面虎」を企画します。それは、前作でブルースが演じた主人公の師ホ・ユァンチァ(霍元甲)の、若き日の活躍を描いた作品でした。しかし、優れたストリートファイターに過ぎなかったブルースに、スクリーンの中での闘い方を教えたのは自分だと言って憚らないローとの対立を深めていた彼に、それは受けられない相談でした。

彼は自ら脚本を書き、監督・主演・武術指導なども1人でこなすという超人的な働きで作品に臨みます。その準備に当って彼は、映画製作に関するあらゆる面を扱った書物を10数冊も買い求めて読破しました。こうして作られたのが、「最後のブルース・リー ドラゴンへの道」(猛龍過江/THE WAY OF THE DRAGON)です。本当はこの後に「燃えよドラゴン」に主演しているのですが、日本では生前に完成したものとしてはラストの公開作となったため、副題に「最後の」と謳われたのです。

 
     「最後のブルース・リー ドラゴンへの道」のパンフレッド (日本公開1975年1月25日)

ストーリーは、イタリアのローマにやって来た中国人青年タン・ロン(唐龍。ブルース)が、チェン・シンファ(ノラ・ミャオ)の経営する中華料理店「上海」の買収を企む暴力団組織を相手に、店を守るため仲間たちと共に立ち向かうというものです。チンピラたちとの闘いでブルースは、鍛え上げられた自らの拳や脚に加え、棒を巧みに操って敵をなぎ倒し、「怒りの鉄拳」で使用して観客の度肝を抜いたヌンチャクを、今度は2丁両手に持ったダブル・ヌンチャクにして、さらに迫力溢れるアクションを見せました。拳銃のような飛び道具に対しては、木を削って作った投げ矢で対抗します。

本物にこだわるブルースは、闘う相手も実力派の武術家を起用しています。暴力団が助っ人として呼んだ日本人空手家役の黄仁植<ウォン・インシク>は、大東流合気柔術が韓国に渡って独自のスタイルに進化したという合気道<ハブキドー>の名手ですし、クライマックスで、コロセウムにおいて息詰まる死闘を繰り広げるアメリカ人空手家コルトを演じたチャック・ノリスは、全米空手選手権で3回もタイトルを取った猛者です。彼との10分余りの格闘シーンの撮影に、ブルースは45時間もかけました。ローマ・ロケでは、60以上ものシーンをわずか1日で撮り終えるというスピー撮影だったのとは極めて対照的です。
こればかりでなく、どんな格闘シーンについてもブルースは、ラッシュを見てアクションに信憑性がないと、そのシーン全体を撮り直しました。こうしたこだわりが、彼の功夫映画で、「この男は本当に強いに違いない」と思わせるリアリティーを生み出したのでしょう。

制作費13万ドルで作られた「ドラゴンへの道」は、1972年12月30日に封切られてから3週間で、550万ドルという予想を大幅に上回る収益を上げました。ヒットに次ぐヒットでスターダムにのし上がったブルースは、有名税ともいうべき衆人環視にさらされることになります。その結果、彼はその原点ともいうべき武術に専念することができなくなってしまいました。マスコミは彼を陥れるネタ探しに奔走します。
たとえば、香港の三流日刊紙「チャイナ・スター」は、ブルースの師イップ・マンの息子で、かつて一緒に稽古したイップ・チュンによるとする記事を連載しました。それには、稽古中にブルースが相手に倒されるのを見たと書かれていました。ブルースがイップ・チュンを探し出して真相を尋ねると、彼はそんなことは言っていない、ゴーストライターが勝手に捏造したものだと主張しました。
「チャイナ・スター」紙の社主で、オーストラリア人のグレアム・ジェンキンズは、ブルースが情報提供者を脅迫したと報道したので、彼は同紙を相手取って裁判を起こしています。

富や名声と引き換えに、望まぬ些事に煩わされる中、ブルースはそれでも、武術指導者としての水準を高く維持することに努め、己の技があまりに営利主義に走ってしまうことを避けるよう注意していました。さまざまな賞のプレゼンターや受賞者として声がかかりましたが、それらへの出席よりも、勉強やトレーニングのために時間を割く方を優先します。
そうしたブルースの飽くなき探究心、向上心は映画製作にも向けられました。彼はさらなる傑作を生み出すべく、次の映画に取り組みます。1973年、弟子でプロのバスケットボール選手だったカリーム・アブドール・ジャバーが香港を訪れると、ブルースはただちにセットを組み、彼との格闘シーンを撮影しました。
それは、ジークンドーの思想を強く反映させたブルース・リー武術の集大成ともいうべき映画「死亡遊戯」のメインとなるはずのものでした。

【参考文献】
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE:Fighting Spirit』PARCO、1998年
「BLACK BELT」編、呉春美訳、松宮康生監修『伝説のブルース・リー』フォレスト出版、1998年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年

ブルース・リーのドラゴン拳法 (6)─ FIST OF FURY

2014年01月14日 | 日記
記録破りのヒットを飛ばした「ドラゴン危機一発」に続き、レイモンド・チョウは同じロー・ウェイの脚本・監督でブルース・リーの主演第2作「ドラゴン怒りの鉄拳」(精武門/FIST OF FURY)の制作に取りかかりました。

20世紀初頭の上海を舞台に、実在した武術家ホ・ユァンチァ(霍元甲)の死を題材とした作品です。
ホの初七日に多くの人々が集まる中、中国人通訳ウーに伴われ、日本人居留地の虹口にある起倒流道場の者たちが「東亞病夫」と大書された額を持って現れ、ホの道場精武館の門弟たちを侮辱します。その場では懸命に堪えた愛弟子のチェン・チェン(ブルース)でしたが、怒りを抑えきれず虹口道場に殴り込みをかけます。そして、日本人たちを叩きのめして「東亞病夫」の紙を破いて食らわせました。
外出から戻った道場主の鈴木(橋本力。勝新太郎の勝プロダクション所属。大魔神の着ぐるみを着た俳優)は直ちに一門の者たちを精武館へ報復に向かわせます。暴行の限りを尽くした日本人は、チェンを3日以内に引き渡すよう言い残して立ち去りました。戻って来たチェンに仲間は、上海から逃亡するよう説得します。
しかしその夜、偶然、師が毒殺されたことを知ったチェンは、実行犯の2人を撲殺してしまいました。そのうちの1人は虹口道場の師範の弟だったので、日本人は華刑事(ロー・ウェイ)ら警察を動かして、精武館に圧力をかけます。追われる身となったチェンは、人力車夫や新聞売りの老人、電話修理工などに姿を変えながら探索を重ね、暗殺の黒幕が鈴木だということを突き止めます。
通訳をも殺害してさらに罪を重ねたチェンは、ついに単身、虹口道場に乗り込みました。そこで亡命して来たロシアン・マフィアのドンで、武術の達人でもあるペトロフ(ロバート・ベイカー。カリフォルニアから呼び寄せたブルースの友人で弟子)や日本刀で斬りかかってくる鈴木らと対決し、死闘の末彼らを倒します。
しかし、疲れきって精武館に戻ったチェンを待っていたのは、鈴木側の襲撃を受けて地獄図と化した道場の惨状であり、彼の引渡しを求める警察や領事館員たちでした。そして、精武館存続の約束と引き換えに自首をしたチェンは、警官隊らが狙いを定める無数の銃口に向かって、絶叫しながら飛び込んで行くのです・・・。

 
   日本ではブルースの一周忌に当たる1974年7月20日に公開された「ドラゴン怒りの鉄拳」

“黄面虎”の異名を持つホ・ユァンチァは、家伝の燕青拳を学んでこれを極めました。1909年に上海精武体育会を創設し、中国拳法の近代化に努めますが、肺結核(あるいは肝硬変)のために志半ばで逝去してしまいました。大勢の日本人から挑戦を受け、ことごとく彼らを打ち負かしたといわれます。そんなこともあって、日本人に暗殺されるという設定が生まれたのでしょう。それにしても、映画の中での日本人の極悪非道ぶりには、目を覆いたくなります。
しかし、そんなことも吹き飛んでしまうくらい、ブルースの演技やアクションは前作にも増してシャープに研ぎ澄まされ、私たちを魅了します。1972年3月22日に公開された「ドラゴン怒りの鉄拳」は、「危機一発」を凌ぐ大ヒットとなり、400万香港ドルを超える収益を稼ぎ出しました。

この作品でブルースは、初めてあの独特な叫び声“怪鳥音”を発します。彼が香港時代から修行してきたグンフーは、あのような気合、掛け声は発しません。もちろん、ただ黙々と戦うよりもその方が迫力を増すということもあったでしょうが、敵への威嚇やタイミングをずらしたりする戦術として有効だといいます。
またブルースは、「危機一発」では見せなかった華麗なヌンチャク捌きを披露しています。観客に強烈な印象を与えたこの武器は、「グリーン・ホーネット」にもチラッと登場しましたが、本格的に用いられたのは本作からです。同じ長さの2本の短棒を鎖や紐で繋いだもので、棒の片方を握ってもう片方を振り回すと、最大730キロもの衝撃力で敵を打つことができます。
このヌンチャク(双節棍、蟠龍棍)、実は中国武術の武器ではありません。タバク・トヨクというフィリピンの武器が原型であるとも、そもそも武器として生まれたものではなく、沖縄の農民が米粒と籾殻を分離するために用いた道具だったともいわれます。島津藩によって武器の使用を禁止された琉球王国の民が、農具を武器にしたり、素手で戦う術(唐手)を発達させたことはよく知られているところです。
「怒りの鉄拳」においてヌンチャクを使った理由について、ブルースは次のように語っています。
「ぼくは何らかの武器を使う必要があった。何といったって、相手の男は刀を持って向かってくるのだ、素手で刀に対抗できる者はいない」(『ブルース・リー・ストーリー』)
こうして、ブルース・リーのトレードマークとなった怪鳥音とヌンチャクが出揃います。いずれも、映像的効果を考慮した上で採用されたものだということは疑いありませんが、背後に実戦を想定しての理由付けがあるところが、いかにもブルースらしいといえるでしょう。

【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE:Fighting Spirit』PARCO、1998年
中村頼永著『世紀のブルース・リー』ベースボール・マガジン社、2000年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年
笹間良彦著『日本武道辞典《普及版》』柏書房、2003年
小佐野淳著『図解 中国武術』新紀元社、2009年

ブルース・リーのドラゴン拳法 (5) ─ THE BIG BOSS

2014年01月11日 | 日記
ブルース・リーにハリウッドへの道を開いたグンフーのデモンストレーションは、香港の人たちにとっても衝撃的だったようです。1970年、TV出演した彼は、厚さ1インチ(2.54センチ)の板4枚を空中に放り投げて、飛び蹴りで割ってみせました。素人の僕にはよくわかりませんが、人間が手に持った板を割るのは簡単ですが、宙に浮いて、固定されていない状態で割るのはたいへん難しいそうです。同行していた5歳の息子ブランドンも、自分と同じくらいの大きさの板を1枚割ってみせます。デモンストレーションの反響は、凄いものでした。

母親をアメリカに呼び寄せる準備のため一時香港へ戻ったブルースは、国民的英雄として思いもよらぬ大歓迎を受けます。アメリカでは放送終了していた「グリーン・ホーネット」が、その頃香港と東南アジア一帯でTV放映されていたのです(漢字では「青蜂侠」)。ブルースはハリウッドで成功を収めたスターでした。新聞社やラジオ局、TV局が盛んにインタビューを申し込んできました。先のデモンストレーションも、そんな中で行われたものです。チャンス到来にブルースは、ショウ・ブラザースに履歴書を送りましたが、提示された出演料は1本2,000ドルで、一般の新人俳優並みの契約条件しか出されなかったため、この話は立ち消えになります。

1971年、ワーナーが企画している連続TVアクションドラマ「ザ・ウォリアー」(The Warrior)に、ブルースは積極的に助言と協力をします。少林寺で武術を学んだ米国人と中国人のハーフであるクワイチャン・ケインが、殺人の疑いをかけられてアメリカ西部を放浪し、さまざまな試練に立ち向かうという冒険物語で、ブルースは自分が主演するのを当然のことと期待していました。
一方香港では、新たな動きが起こります。ショウ・ブラザースを退社してゴールデン・ハーベストを興したレイモンド・チョウが、ブルースに2本で1万5,000ドルという出演交渉をしてきます。ブルースはこれに応じ、ロー・ウェイ監督・脚本の「ドラゴン危機一発」(唐山大兄/THE BIG BOSS)に主演することになりました。彼は西海岸から直接タイのバンコクに飛び、撮影が開始されます。

ストーリーを簡単に紹介しておきましょう。出稼ぎに来たチェン・チャオワン(ブルース)が働く製氷工場は、実は裏で麻薬密売をしていました。それに気づいた同僚2人が姿を消したのを皮切りに、職場の仲間たちが次々と犠牲になります。怒りに燃えるチェンは、得意の武術を駆使して工場経営者のマイやその配下の者たちと、凄まじい死闘を演じるというお話です。
香港映画界復帰第1作であるこの作品では、ブルースはロー・ウェイのやり方に不満を感じつつも、なるべく口を出さないようにしていました。アクション指導のハイ・イン・チェンに対しても、足技に関して「こういう蹴りを使ってはどうか」などとアドバイスをする程度でした。ブルースにとっては納得のいく出来ではありませんでしたが、彼のアクションが格段に素晴らしかったためでしょう、約50万香港ドルという低予算で制作されたこの映画は、10月3日に公開されると310万香港ドルという記録的な収益を上げました。

 
      香港で記録的な大ヒットとなった「ドラゴン危機一発」(日本公開1974年4月13日)

成功への手応えを感じていたであろうブルースに、ショッキングな知らせが届きます。12月頃、ワーナーは彼が「ザ・ウォリアー」から降ろされたことを知らせてきました。アジア人が白人を打ち負かすというのは、当時のアメリカではまだまだ受け容れ難いものだったのです。結局、この作品は中国人の血が全く流れていないデイビッド・キャラダインの主演で制作され、1972年、「クンフー」(Kung-Fu。邦題「燃えよ!カンフー」)としてアメリカ全土で放映されました。キャラダインは功夫については名前を聞いたことがあるという程度の知識しか持ち合わせておらず、最初の頃は見よう見まねの柔道を披露するばかりというお粗末なものでした。

僕も、かつてこの「燃えよ!カンフー」をTVで見たことがありますが、正直言って、あまりキャラダインのアクションを格好いいとは思いませんでした。TVの小さな画面では、あるいはブルースの豪快華麗な動きは収まりきらなかったかもしれません。でも、彼の演じるケインを是非見てみたかったと思います。
ちなみに1986年には、続編として「ブランドン・リーのカンフー・ファイター」(Kung-Fu THE MOVIE)が制作されました。邦題にある通り、ブルースの子ブランドンが、奇しくも父親から主役の座を奪った敵(?)であるデイビッド・キャラダインの息子役を演じています。

【参考文献】
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE:Fighting Spirit』PARCO、1998年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年

ブルース・リーのドラゴン拳法(4) - THE WAY OF THE INTERCEPTING FIST

2014年01月03日 | 日記
「グリーン・ホーネット」のカトー役で一躍人気者となったブルース・リーですが、放映終了後は苦しい生活を強いられることになります。当時のハリウッドはまだまだ白人優位の世界であり、アジア人がスターとして認められるには、なお時間を必要としたのです。
1968年から翌年にかけて、ブルースは経済的困難を克服するためにスティーヴ・マックィーンやジェームズ・コバーン、リー・マーヴィン、シャロン・テイトらから高額のレッスン料を取って個人教授をします。映画監督のロマン・ポランスキーは、わざわざスイスから飛行機でやって来てレッスンを受けたといいます。これらの弟子の存在は、彼にいくつかの端役の仕事をもたらしました。TVドラマ「バットマン」「鬼警部アイアンサイド」「ブロンディ」、映画「かわいい女」などに出演し、「サイレンサー 破壊部隊」ではアクション指導を務めました。

1969年、ブルースは「サイレント・フルート」の企画を思いつき、弟子で友人のスターリング・シリファントに脚本執筆を依頼します。武術の達人である戦士コードが、究極の奥義書を求めて旅をするというストーリーでした。はじめブルースはコード役をマックィーンにやらせようとしましたが、真の主役がコードではなく、彼を導く盲目の中国人武術家アッシャムであることを見抜き、出演を拒否します。アッシャムを演じるのは、もちろんブルースです。マックィーンに断られて今度はコバーンにオファーすると、快く参加を申し出てくれました。こうしてブルース、シリファント、コバーンの3人で改めてシナリオが練り直され、翌年10月19日に完成します。

それより少し前の8月に、ブルースを突然の不運が襲います。充分に準備運動をせずにバーベルを持ち上げようとして仙骨の神経を痛め、しばらくの間休養を強いられます。しかし彼は、その時間をも無駄にはしませんでした。トレーニングができない間、自分の武術に関する理論を文章にしていったのです。それらは彼が亡くなった後に、書籍としてまとめられることになります。現在、ブルースの著書とされているものは、先に挙げた『基本中国拳法』を除き、この時期に書き溜めたものなどがベースになっています。


劇場版「グリーン・ホーネット」と同時上映された短編映画「ブルース・リーのドラゴン拳法」。もとは「チャーリー・チャン」のためのカメラ・テストの映像でした。その中でブルースは、グンフーの型や、相手を立てての迫力ある早技を披露しています。このブログ記事のタイトルのネタ元でもあります。

ワーナー・ブラザースが「サイレント・フルート」の制作に興味を示したので、ブルースはシリファントとコバーンを連れて、1971年2月1日から約2週間かけてインドへロケハン旅行に出かけます。ロケ地にインドが選ばれたのは、当時そこに、ワーナー・ブラザースが海外へ持ち出すことのできない収益金があったからです。
しかし、現地に格闘シーンをこなせる武術家はおらず、さらにインドの暑さはコバーンには耐え難いものでした。それでもブルースはアイデア次第でなんとかなると考えていましたが、コバーンは映画会社上層部の人間に「インドでの撮影など、とんでもない!」と話します。それで、この企画はおシャカになってしまいました。

失意のブルースに、シリファントは自分が脚本を書く連続TVドラマ「ロングストリート」の仕事を持ってきます。何者かによって送られた爆弾で、妻と視力を失った保険調査員マイク・ロングストリートが、犯人を探すために孤独な闘いを挑むという話でした。“盲目の戦士”という設定は、ブルースの発案でした。「サイレント・フルート」のアッシャムにも通じるこのアイデアは、お気に入りの日本映画「座頭市」にヒントを得たものです。
ブルースは全23話のうち4話に出演しました。初登場は第1話「波止場の決闘」ですが、この回のもともとの英語タイトルは「The Way of The Intercepting Fist」です。日本語にすると「拳をさえぎる道」、つまり「截拳道<ジークンドー>」を意味します。その原題の通り、ブルース演じる骨董屋の主人リー・チョンは、3人の男たちに襲われたロングストリートを救い、頼まれてジークンドーの理論と技術を教えます。このドラマでブルースは、ブラウン管を通して自らの武術を高らかにアピールしたのです。
ブルースは、1971年12月9日に行われたピエール・バートンのインタビューで、このドラマでは自分自身を演じたのだと言っています。彼は成功を掴むため、夢を実現するための方便として俳優という職業を選びましたが、自分は本来、あくまでも武術家なのだという思いは、ずっと変わらず持ち続けていたのでしょう。

【参考文献】
中村頼永著『世紀のブルース・リー』ベースボール・マガジン社、2000年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年